動画的俳句論

蜂谷一人

 一瞬を切り取ることから「言葉の写真」と呼ばれる俳句。しかし、実は時間の経過を伴う「動画的な」句が少なくない。SNSの動画が巷に溢れる現在、ショートムービーを思わせる俳句はますます増えているように思われる。私は長い間テレビ局で番組制作に携わってきた。その経験から、カメラやレンズの知識が俳句の理解に役立つことに気づいた。この小論は映像の用語を用いることで、俳句の理解を深めようという試みである。
例えば、切字について。大抵の入門書では「や」「けり」「かな」の役割は「詠嘆」と説明される。では、切字の役割はどれも同じなのか?そもそも「詠嘆って何?」と初心者は疑問を抱くだろう。こうした疑問に答えるのは案外難しい。しかし映像の用語を用いれば、難解な概念をある程度平易に説明できる。以下、実例を見ていきたい。

切字「や」
 切字「や」とは何かと質問されたら、私は「編集点のようなもの」と答えることにしている。名句を例にとってみよう。

 明ぼのやしら魚しろきこと一寸   松尾芭蕉

 この句は、「明ぼのや」と「しら魚しろきこと一寸」の二つの部分に分けられる。動画で言えば、まず明け方の空が映っている。朝焼けに燃える空である。次のカットでは白魚が映し出される。一寸と長さを述べているので、泳いでいるのでなく恐らく網に掬われたところだろう。ピチピチとはね、透明な体が朝焼けの茜色に染まっている。早春の川辺の情景が鮮やかに写し出された一句。字余りの十八音なので、仮に十八秒の映像と考えてみよう。初めの五秒が朝焼け。残りの十三秒が白魚。この五秒と十三秒を繋ぐのが編集点。切字の「や」はこの編集点に当たる。二つのカットをそのまま繋ぐのがカット編集。切字「や」の役割はまさにこれである。もう一句例を上げてみる。

 菜の花や月は東に日は西に   与謝蕪村

 まず画面に菜の花が写っている。次のカットで東の空に昇る月が写し出される。カメラはそのままパンして西の空に沈む太陽をとらえる。パンとは、三脚や自分の体を支点として左右にカメラを振ること。ちなみに、上下に動かす場合は、パンアップ、パンダウンという。一カット目は菜の花の固定ショット。二カット目は月から太陽へのパン。私なら丘の上にカメラを置き俯瞰カットとして撮影したい。そのほうが風景が広くなり、パンもゆったりとした速度になる。
 さて、映像の文法をあてはめれば、「や」の前と後ろで別のことを言わなければならない、という俳句のルールの理由がよくわかる。映像ではカットを編集するときに禁忌があり、そのひとつが「同ポジ」と呼ばれるもの。カメラを移動せず、同じ位置から撮影した映像同士は繋げられない。例えば、人物を撮り、続いて同じ位置から人物のいない風景を撮るとする。この二カットを繋げると、ぱっと人が消えたように見える。忍者のシーンなどその効果を狙った場合もあるのだが、通常の動画でこれをやるといかにも不自然だ。同じように切字「や」の前後ではカメラの位置を変えなければならない。つまり別の映像を映し出す必要があるのである。

切字「けり」

 ぶらんこの裏まで見せて跳びにけり  蜂谷一人

 続いて「けり」について見ていこう。拙句は子どもの頃の思い出。ぶらんこを立ち漕ぎして、思い切り反動をつけて跳ぶ。そんな遊びに夢中になった時代があった。「けり」はこの句のように句末に使われることが多く、動詞や形容詞(用言)に接続する。元々「けり」は過去を表す助動詞「き」に「あり」がくっついたもので「○○で、あったなあ」というほどの意味。つまり過去のニュアンスが濃い。
 これを映像で表現するには「フェイドアウト」が相応しい。映像が暗くなってゆき、やがて真っ黒になる編集上の技法で、回想シーンなどによく用いられる。現在のシーンと過去のシーンを、通常のカット編集でつなぐと、いつの話かわからなくなってしまう。フェイドアウトを挟むことで、視聴者は「ああ、これは過去のシーンなんだな」と了解する。掲句で言えば、「ぶらんこの裏まで見せて跳んだことがあったなあ」という、懐かしい思い出であることが示唆される。そのフェイドアウトの映像に接して、心に何かが湧き起こる。それが詠嘆である。

切字「かな」
 切字の三つ目は「かな」。「かな」は最もゴージャスな切字。句の最後に用いられることが多いため、ドレスシューズやパンプスのように足元を引き締め、正装を際立たせる。映像化する場合には、白飛ばし」が相応しいだろう。映像の最後がじわっと白くなる編集技法のこと。通常の編集点とは異なり、シーンの終わりの感じが強く出る。強い余韻をもって一句の最後を引き締める効果がある。

 さまざまのことおもひだす桜かな  松尾芭蕉

 この句を動画的に解釈すると、セピア色の回想シーンから始まる。さまざまな過去の出来事がワイプで現れる。ワイプとは車のワイパーのような動きで次々に映像が切り替わる編集技法のこと。本のページをめくるような動きなど色々な種類がある。その回想シーンの終わりに桜がオーバーラップされる。オーバーラップでは前後の映像が溶け合うように切り替わる。この句では満開の桜がゆっくりと白く薄くなってゆき、ついに真っ白な画面になってエンドマークが現れる。

カメラ
 動画制作の現場で、編集作業に先立つのが撮影。撮影では、どういうスタイルの作品にするかが監督によって指定される。それによってカメラの用い方が変化するのだ。俳人の鴇田智哉さんはNHK俳句の「句のひとみ」というコーナーでカメラワークについて触れている。それを踏まえてカメラの用い方について考えてみよう。           

 あれを買ひこれを買ひクリスマスケーキ買ふ 三村純也
 霜掃きし箒しばらくして倒る  能村登四郎

 三村句では、「あれを買ひこれを買ひ」でカメラが色々な店に立ち寄って買い物をしながら、最後にケーキ屋にたどり着く様子が描かれる。この映像、B Sの人気番組「世界ふれあい街歩き」のカメラワークに似ている。この番組は旅人が目の位置にカメラを構えて歩き、興味のあるものを次々に写して行くようなスタイルを持っている。映像の世界ではこうした手法を「主観カメラ」と呼ぶ。これに対して能村句は、一部始終を離れたところから見ているようなスタイル。例えば寺の光景だと仮定してみよう。僧が境内の霜を掃いている。その箒をどこかに立てかけた。しばらくして箒が倒れた。こんな時系列になる。誰かがどこかから、一連の光景をじっと見つめていることになる。普通のカメラマンなら置かないような場所にカメラを据え、長時間写し続けているような映像だ。何かに似ていないだろうか。そう、防犯カメラ。電柱やコンビニに設置してある無人カメラである。つまりクリスマスケーキの句は街歩きカメラ。箒の句は防犯カメラ。カメラの用い方によって映し出される映像、つまり俳句が異なることがわかっていただけただろうか。
 こうしたカメラを用いると独特な映像表現ができるのだが、それに対して通常は、三脚を立てカメラを固定してさまざまな角度から対象を写し出す。虚子の言う客観写生にもっとも近いのがこの撮影技法である。

 稲刈つて顎を最後に立ち上がる  西山ゆりこ

 この句は稲刈りの後の動作を精密に描写している。1カット目、腰をかがめて稲を刈っている。2カット目で、よっこらしょと立ち上がる。3カット目、膝が伸びる。4カット目、腰が伸びる。5カット目で背中が真っ直ぐになり、顔が空を向く。6カット目は顎が上を向いたアップ。一連の動作を「顎を最後に」という措辞で見事に描いて見せた。これこそ動画の世界。動画ではさまざまなアングルからのカットを積み重ねることによって、実景以上に詳細に動きを再現できる。

カメラ位置 
 俳句を動画と捉えれば、俳人はカメラマン兼監督。高山の上であろうが、深海の底であろうが自由自在。思いのままにカメラを置くことができ、誰かの許可も高価な機材も必要ない。そのカメラは、平場に置かれるだけではない。クレーンに乗って上下に動いたり、ドローンで飛び去ったり。映画と同様にダイナミックな動きを表現することが出来る。次に紹介する句は、本来置くことのできない場所で撮影しているおもむき。

 東山回して鉾をまはしけり  後藤比奈夫

 鉾は京都祇園祭の山鉾。山鉾巡行は毎年七月十七日に行われる。その見せ場が辻回し。十トンもある巨大な鉾を人力で方向転換する作業のことである。まず路上に青竹を敷き詰める。その上に車輪を乗せ、滑りをよくするために水を掛ける。掛け声や扇で合図を出すのは音頭取りの役目。押す人と引っ張る人の息を合わせなければならない。この緊迫の一瞬を詠んだのが掲句。さて、カメラはどこに置かれているのだろうか。「東山回して」なので、背景が回っている。ということは山鉾の上にカメラが乗っていることになる。そこは、祭りの関係者でなければ登れない場所。つまり「東山回して」という1カット目は見物人ではなく、鉾に乗る町衆の視点で描かれている。続いて「鉾を回しけり」という2カット目。カメラは鉾を回す人々を写しだす。おそらくカメラは地上の見物席に置かれているのだろう。ロングショットで広い構図を用い、辻回しの全体像を見せている。こうした映像はエスタブリッシュ・ショットと呼ばれ、なくてはならないもの。場所や人物の位置関係を、視聴者に認識させるために必要なカットである。このように掲句では鉾の上と地上、一句の中でカメラ位置が変わり、ダイナミックな映像効果を上げている。

空撮

 断崖をもつて果てたる花野かな 片山由美子

 ヘリコプターに乗って空から地上を眺めたような作品。こうした撮影手法を空撮と呼ぶ。どこまでも続く花野が突然途切れて海が始まる。そこには断崖が屹立している。作者自身、英仏を隔てるドーバーの崖をイメージしたと語っているのだが、花野という色に溢れた空間の先に広がるのは暗い海。まるで断ち切られるように、突然終わる豊かな世界。読者がこの句に惹かれるのは、人生の寓意を見出すからかもしれない。あえて言葉にすれば命の儚さや抗いがたい運命など。カメラワークはこんな風に、映像に特別な意味を持たせることができる。

構図

 シャルドネのしづかに育つ雲の峰  小島健

 シャルドネは葡萄の品種。フランスのブルゴーニュやアルザス地方で栽培され白ワインの原料となる。地上では葡萄が静かに熟れてゆく。空には雲の峰が育っている。「育つ」で切れているのだが、「育つ雲の峰」と表記の上では繋がっていて、このちょっとしたレトリックが、入道雲が湧き上がる様子を読者の脳裏に焼き付ける。 動画として捉えると、上に向かって成長する雲は上昇のベクトル。下に向かって重く実る葡萄は下降のベクトルとなる。カメラマンは、シャルドネの房を手前に置いて大きく写し、遠景に入道雲を配置するだろう。画面の下半分が葡萄、上半分を空とすれば、真ん中あたりで上昇と下降の運動が釣り合う。二つの力が拮抗して画面に緊張感を与える構図となっている。

 梨剝く手サラリーマンを続けよと  小川軽舟

 誰が梨を剝いているのだろうか。その人の顔は描かれていない。手があるだけ。「サラリーマンを続けよ」と言っているのだから、おそらく作者の妻。「続けよ」というさりげない命令形が、有無をいわさぬ圧力を醸し出している。「まだまだお金もかかるから、今仕事を辞めてもらっては困る」というところだろうか。しゃりしゃりと梨を剝く音が、沈黙する夫の耳に響いている。妻の顔が見えないことが、一句の緊張感を高めているのだ。このように構図は、動画の中で非常に重要なポイントを占めている。例えばスピルバーグの名作「激突」では、主人公を不条理に追い詰めてゆくトラックドライバーの顔は写されず、最後に事故死した手だけが描かれる。あえて顔を見せないことで、不穏な気分が強調されているのだ。同様に俳人も、構図を重視することにより作品の効果を高めることが出来る。

ワイドレンズ
 さてカメラのレンズにはワイド、標準、望遠、マクロ、魚眼などさまざまな種類があり、適切なものを被写体によって使い分ける必要がある。まずワイドレンズの特性を考えてみよう。最大の特徴は広い画角を持っていて、場所の全体像を映し出すことができること。特に店内のような狭い場所で威力を発揮する。料理番組の厨房のシーンは、ほとんどこのワイドレンズで撮影されている。ピントが手前から奥まで合うので大変便利なのだが、画面の中央のものは大きく、端に行くほど不自然に小さくなってしまう特性がある。それだけでなく、画面の端のものが湾曲したり色が滲んだりもする。

 投げ出して足遠くある暮春かな  村上鞆彦

 典型的なワイドレンズの句。目の位置にカメラが置かれ、投げ出した自分の足を写している。ワイドレンズなので体はゆがみ、離れた足は実際よりも遠く小さく見える。それが「足遠くある」というフレーズが描く世界。暮春は、春がまさに果てようとする時期で、なんとなく物憂く身体感覚が覚束ない。作者は体の一部であるはずの足さえも遠く感じているのだろう。心象的な光景を、ワイドレンズが見事に映像化して見せてくれている。

 夏草に汽罐車の車輪来て止る  山口誓子

 ドキュメンタリー映画で用いられるモンタージュ理論を、実践した作品として知られる一句。モンタージュとは、互いに無関係の映像素材を組み合わせることにより、別の意味を表現すること。例えば、王様のカットに飢えた民衆のカットを組み合わせれば、王政への批判を表現することができる。しかし、ここでは論点を変え、純粋にカメラワーク上の問題としてこの句を捉えてみたい。用いられるのは、やはりワイドレンズ。まず画面に夏草が大きく写っている。カメラの位置は夏草よりも低い。つまり地面に穴を掘ったローアングル。低い位置から撮影することで、夏草の背景に空が映る。その空に突然煙が現れ、次いで汽罐車の姿が。初めは小さいのだが、あっという間に大きくなり全体がはっきり見えてくる。汽罐車はぐんぐん近づき、画面から上の方がはみ出すほどになる。ついに画面いっぱいのサイズに車輪が映し出され、蒸気機関の轟音と汽笛が世界を覆う。巨大な車輪に踏み潰されそうな恐怖を感じた瞬間、急停止。夏草に覆い被さる車輪のアップで動画が終わる。遠くのものは実際より小さく、近くのものは実際より大きく写すワイドレンズのお陰で、急に汽罐車が現れて突進し、衝突するかのような映像が得られる。できれば、通常のワイドレンズではなく魚眼レンズに近いほどのもので合って欲しい。その方が効果がより際立つと思われる。

望遠レンズ

 人の上に花あり花の上に人   阪西敦子

 望遠レンズは、遠くのものを大きくはっきり見せてくれる。一方、映像に奥行きがなくなってしまうという特性がある。手前のものと奥のものがくっついているように見えるのだ。こちらはその望遠レンズをうまく使った作品。上野の山を想像してみよう。斜面に沿って桜が植わっている。その下を人並みが移動している。本来離れているはずの、桜と見物客の奥行きが縮まるために人の上に桜が乗っているように見える。さらにその桜の上に人波。カメラは下から上へゆっくりとパンアップして行く。望遠レンズのパンは難しいもの。わずかなブレが、望遠では拡大されてしまうからだ。掲句を実際に撮影しようとすると熟練したカメラマンと防振装置が必要。しかし言葉の上でなら誰でもクロサワのような映像を撮ることが出来る。

マクロレンズ
 小さなものを大写しにする際はマクロレンズを用いる。人間の目に近いとされる標準レンズの焦点距離は数十センチ。それより近いとピンボケになってしまい、小さな花を大写しにすることはできない。そこで活躍するのがマクロレンズ。レンズが被写体にくっつきそうになるまで近寄れるので、小さな世界の描写に最適。十円玉を画面いっぱいに写すことも可能となる。

 さんしゆゆの花のこまかさ相ふれず  長谷川素逝

 春になると黄色い花をつける山茱萸。4~5ミリの花が集まって咲くので、少し離れると黄色一色に見えてしまう。しかしマクロレンズなら花の一つ一つ、蕊の一本一本まではっきりと捉えることができる。掲句の「相ふれず」という表現は、小さな花の映像を拡大してピントがきちんとあっていることを示している。

 曲る場所それぞれ違ふ白子干  小野あらた

 白子干は鰯の稚魚を茹でて干したもの。この句も実に細かい。前の方が曲がっているもの。中程、後ろと克明に描写している。これを動画で捉えるには、やはりマクロレンズが必要。クローズアップすることで、同じに見えていた稚魚たちのディテールが見えてくる。すると一匹一匹が違うことに気づくのだ。思い切りカメラを対象に近づけることで初めてわかることがある。あえて深読みすれば、生命の多様性。どの一匹も別々の個性を持っていて、同じものはない。そんなことに気づかせてくれるのがマクロレンズなのだ。

フォーカス送り(ピン送り)
 ここからは撮影技法について見てゆこう。望遠系のレンズを使うと焦点(ピント)の合う奥行きが、ごく浅くなるのは「花の上に人」の句で説明した通り。その特性を使って、意外性のある効果をあげることが出来る。

 くもの糸一すぢよぎる百合の前   高野素十 

 ぼんやりした白い背景に、一本の光る糸が映し出されている。一瞬何かわからないが、風に揺れる様子から蜘蛛の糸だと気づく。このとき焦点は蜘蛛の糸に合っている。次に、蜘蛛の糸がぼやけて溶けるように姿を消し、背景が見えてくる。ぼんやりした白いものが、くっきりと姿を現し百合の花であったことがわかる。これがフォーカス送り。手前の蜘蛛の糸から後ろの百合へ。わずか数センチ、もしかしたら1センチに満たない焦点距離の違いが劇的な映像効果を生みだすのである。ワイド系のレンズでは手前から奥までべったり焦点が合ってしまうので、この効果は生まれない。初めから蜘蛛の糸と百合の両方が見えてしまう。ここは望遠系のレンズでなくてはならないのだ。

 コスモスにピント移せば母消ゆる 今井聖

 コスモスの前で記念写真を撮っている。そんなシーンだろうか。まず手前の母に焦点が合っている。この時、背景のコスモスはぼやけている。次にコスモスに焦点を移す。すると母が消える。ぼやけるではなく、消えるとした点に注目。まるで母がいなくなったように感じられるではないか。年配の母であれば、地上から旅立ってしまったかのような寂しさ。だから「消ゆる」。動画的な映像効果を俳句で表現するには、当然ながら言葉の選択が重要となる。さらに季語のコスモスは身近な親しい花。家族の思い出とともにアルバムに収められることが多い。冬が来る前のひとときを彩る花で、母の晩年を彩るにふさわしい。

 移動ショット
 夏帽子木陰の色となるときも  星野高士

 夏帽子は暑さを防ぐための帽子。麦わら帽子やパナマ帽、カンカン帽がそれにあたる。「木陰の色となるときも」ということは木陰を出れば空の色。風の色。海の色。主人公の移動にあわせて様々な色に照り映えるのだろう。最近では帽子をかぶる男性が減ってしまったので、時代は昭和か大正。避暑地の一場面なのかもしれない。パナマ帽であれば、レトロな白い麻のスーツがよく似合う。これが動画であれば、カメラは主人公にゆっくりとついて動くだろう。ドリーと呼ばれる撮影手法だ。滑らかに動くために、レールを敷いたり防振台付きの車に乗せたりする。移動感を増すため、近くに何かを引っ掛けて撮影することが多い。例えば、近景に疎林を置き中景に帽子の主人公を歩かせるとする。カメラの移動にあわせて手前の木が見え隠れし、その向こうの木陰をゆく夏帽子が見える。遠景には日の当たる山並み。帽子に落ちる木の影が変化し、様々な模様を描く。移り変わる背景と光が、広大な空間を感じさせてくれる。
 移動ショットでは、この句のように移動の途中を見せることが多いのだが、移動の行き先を見せることもできる。それが意外な場所ならば、詩的な感動をさらに高めることが出来る。

 サラダバー横歩きして銀漢へ   森山いほこ

 ホテルなどでよく見るサラダバー。ここでは上層階のガラス張りのレストランを想像してみたい。色とりどりの野菜を、花を摘むように取ってゆくと、白磁の皿にお花畑が出来上がる。トマトの赤、レタスの緑、紫玉葱。横歩きしながら窓際へ進んで行くと、突然夜空に放り出されたような錯覚にとらわれる。下界にはビル群の灯。天上には銀漢。目を凝らせば星々にも色があって、サラダの色を空に写しているようだ。ここでは、横歩きの行き先が銀河。高層ビルの林立する都会の風景を、効果的なカメラワークで写し出している。

スローモーション

 翅わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十

 てんとう虫が茎を登ってゆくところ。先端にたどり着くと、もう登ることができない。どうするだろうと見ていると、ぱかっと硬い翅が割れ、その下から薄い翅が現れる。羽ばたくや見る間に飛び立ってゆく小さなな虫を、ルーペで覗きスローモーションにしたような味わいがある一句。俳句では、一瞬の動作を丁寧に描写することで時間がゆっくりと過ぎるような効果が生まれる。スローモーションとは、文字通り動きをゆっくりと見せること。通常気づかない動きのディテールを、強く印象づけることができる。

 鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白  村上鞆彦

 望遠レンズを使ったスローモーションの一例。鶺鴒は長い尾を持ち、尾を上下に振って石や地面を叩くように見えるところから「石たたき」と呼ばれる鳥。この句は飛び方の特徴をよく捉えている。はばたいて浮く、羽を閉じて少し落ちる、またはばたいて浮く、それを繰り返して波打つように飛ぶ鶺鴒。翼の上面は黒なのだが、付け根が白いので、はばたくたびに「ぱつと白、ぱつと白」となる。遠くてはっきり見えないものを望遠レンズで近づけ、速すぎて目では追えない動きを、スローモーションによってゆっくりと見せることに成功している。自然番組のようなカメラワークだ。

タイムラプス

 さくら咲く氷のひかり引き継ぎて  大木あまり

 動画には、時間をゆっくり進めるスローモーションもあれば、時間を早く進める技法もある。コマ撮りと呼ばれる手法で、通常のビデオであれば一秒三十コマのところ、一秒一コマとか、一分一コマというように間隔をあけて撮影することが出来る。すると三十秒が一秒に、三十分が一秒になり早送りの映像が出来上がる。花が高速で開いたり、月と太陽が天空を駆け抜けたりする映像効果が生まれるのだ。最近の動画ではタイムラプスとも呼ばれる。掲句は川か湖のほとりの桜。初め水面は氷に覆われている。日がさしてみるみる氷が溶け、桜が開く。氷の光がそのまま桜に移ったかのように見える。一か月くらいの映像が一句になっているのではないだろうか。時間をコントロールすることで、現実では感知しえない美を作り出すことができる。そんなことを教えてくれる一句。

編集
 ここからは撮影したシーンを繋ぐ編集の作業を紹介しよう。冒頭では切字の働きを解説した。「や」は編集点、「けり」はフェイドアウト、「かな」は白飛ばしとしたが、すべて編集上の概念である。さらにそれ以外にも数多くの編集技法が存在する。この編集の巧拙によって映像作品の出来栄えは大きく変わる。同じように優れた俳人は、さまざまな編集技法を駆使しているように見える。

 とまる蛾にさかさまに来る人の貌  鴇田智哉

 この句では二つの視点が一句の中で切り替わる。つまり編集によって、視点の異なる二つの映像が一句に収められているわけだ。まず上五の「とまる蛾に」は虫を見ている人間の視点。続く「さかさまに来るひとの貌」は蛾の視点で記述されている。昆虫の目は構造上、世界を上下さかさまに見ていると言われる。一句の中で、人と蛾の視点が入れ替わる、なんと大胆な映像構成ではないか。何もかもさかさまだとすれば、もったいぶった人間の仕草も滑稽なだけ。ここに作者の批評精神が感じられる。こうした一句の中の視点の切り替えは珍しいものだが、決して先行例がない訳ではない。

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石

 まず私が空を渡る鳥を見ている。続いて渡り鳥の視点に切り替わり、地上の私を見ている。鳥が遠ざかるにつれ、私はみるみる小さくなってゆく。ドローンにカメラをのせて、全速力で遠ざかるようなカット。視点が切り替わることで、ダイナミックな映像効果をもたらしている。

まとめ
 レンズ、カメラ、構図、編集などを駆け足で見てきたが、実はこれらが単独で用いられることはない。全てが複合的に組み合わさって、一つの作品を構成する。さらに言えば、こうした技法は作品のテーマを表現するための要素にすぎない。実際の制作現場では、まず監督がテーマを設定し、それに基づいてストーリーの流れである構成がつくられ、構成の一カットを具現化するために、現場のカメラマンや照明、音声等が奉仕する。そうして得られた映像素材を組みあわせるのが編集。多くの人の長期間の協力が必要となる。一方、動画的俳句の世界でそれらの全てを兼務するのが俳人。たった一人で作品のすべてを無から作り上げることが出来る。
 この小論では、俳句を動画として捉え直すという試みを紹介してきた。このことは、さらに多くの可能性を秘めている。その第一は余韻である。一枚の写真であれば、世界はその画面上に完結する。しかし、動画では終わった後に余韻が残る。描かれた意識の世界ではなく、描かれなかった無意識の世界が立ち現れると言っていいかもしれない。このことが動画的俳句の世界をさらに広く深いものにするだろう。こうした論点はまだ一般的ではないが、将来は映画評論のように様々な作品に応用し、再評価することが可能となるだろう。俳句の「秘密」をテクニカルな言葉で記述できるようになれば、より多くの人に俳句の魅力をわかってもらえるようになると信じている。

 

受賞の言葉  

蜂谷一人

 映画の話をする際に、カメラマンの名が浮かぶことは稀ではないでしょうか。例えばアカデミー賞受賞作の「ゴッド・ファーザー」。ドン・コルレオーネを演じたマーロン・ブランドや、フランシス・フォード・コッポラ監督はよくご存知ですよね。では撮影監督は?
 冒頭、邸の庭で華やかな結婚パーティーが開かれています。一方、暗い執務室では一家の主人が、訪問者の接吻を手に受けている。窓の外は溢れるような光。室内の人物の表情は闇に沈み、感情は押し隠されています。映画のテーマである「アメリカの光と闇」を表す重要なシーンですが、撮影したのはゴードン・ウイリス。ハリウッド最高のカメラマンの一人です。計算し尽くされた照明とカメラワーク。映像は物語を描くだけでなく、テーマまで示すことができるのです。
 俳句という文芸に向き合うようになった私ですが、ある時五七五を動画と捉えることで、鑑賞や批評の幅が広がることに気づきました。そのアイデアは、ゴッド・ファーザーのような優れた映画体験からもたらされたもの。それをまとめたのが、受賞作ということになります。しかし、これはほんの序章にしか過ぎません。映画でさまざまな撮影技法が駆使されるように、俳句のカメラワークも、もっともっと多くの可能性を秘めています。今回の受賞をきっかけに、多くの俳人の皆さんと俳句と動画の話をしてみたい。それが私のささやかな願いなのです。

プロフィール

蜂谷一人(はちや・はつと)

1954年 岡山市生まれ
2000年 松山市で夏井いつき氏と出会い、俳句を始める
2005年 句画集「プラネタリウムの夜」
2016年 句集「青でなくブルー」 俳壇賞受賞
2022年 超初心者向け俳句百科「ハイクロペディア」
2024年 句集「四神」