『評伝 赤城さかえ―楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』
日野百草(コールサック社) 書評

川崎果連

 著者は俳人でありノンフィクション作家でもある。『しくじり世代』や『京アニを燃やした男』などの著作でも知られる。
 著者がこの評伝で中心に据えたのは、さかえが昭和22(1947)年に発表した「草田男の犬」で、中村草田男の〈壮行や深雪に犬のみ腰をおとし〉(昭和15年)を「短詩型文芸の最高水準」と評したことに対し、草田男を戦争協力者とみていた当時の新俳句人連盟の「急進派」を中心に強い反発が起こった、いわゆる「草田男の犬論争」である。
 
 さかえの略歴をみると、1908(明治41)年、国文学者・藤村作(広島大教授のちに東京帝大教授)の次男として広島市で生まれ、本名は藤村昌。東京帝国大学文学部に進学したが中退。在学中に日本共産党に入党し、地下活動などに参加したが、熱海事件(1932年10月30日に静岡県熱海町で発生した日本共産党幹部一斉検挙事件。特別高等警察のスパイが手引きして全国会議を開かせ、一斉検挙に及んだとされる)に巻き込まれた後、スパイ容疑や兵役拒否を含んだ逃亡で知多半島にたどり着き、偽名でペンキ職人をしながらオルグ活動をするも後に逮捕され、特高に迫られて転向。1937(昭和12)年に召集され、兵役を経て1938年に昭和鉱業に勤務したが、1940年に北海道の炭鉱で結核を発病し、治療のために湘南サナトリウムに入院。そこで「ホトトギス」の俳人を講師に招いた院内の句会で俳句に触れ、1943年『寒雷』に入会、加藤楸邨に師事した。のちに再入院した清瀬のサナトリウムでは石田波郷と同室。戦後は日本共産党に復党し、新俳句人連盟に参加、現代俳句協会の幹事もつとめた。
 古沢太穂と『沙羅』を創刊し、『道標』に所属、のち水原秋桜子の『馬酔木』に「戦後俳句論争史」を執筆した。著書には、ほかに『淺蜊の唄 赤城さかえ句集』などがある。人生の大半は結核に苦しみ、1967年5月16日、58歳で死去。墓は多磨霊園にある―。

 こうした生涯のなかでさかえが「草田男の犬論争」においてどういう態度をとったのか、その態度をジャーナリストであり俳人でもある日野氏がどう評価するのかというのがこの評伝の肝である。もちろん「評伝」であるから、さかえの生涯全般を視野に入れながら主に俳人としての活動、思想的活動、病気との格闘などが貴重な資料に基づいて綴られてはいるが、やはり圧巻はさかえという表現者と向き合う「日野百草という表現者」の「真情」の吐露である。

 本書から引くと―戦後出版された句集『淺蜊の唄の』中で、さかえは8月15日における自らの思いを詠んだ〈泣き崩れて聴く一山の蝉しぐれ〉について自解し、「毎月、特高と憲兵の訪問をうけて生活をつづけ、理想が作り出す自己崩壊を永年つづけている中に、意志の弱いコミュニストがどう変わってゆくか、それをこの句が愚かしくも如実に語っている」―と書いている。

 この2年後にさかえは「草田男の犬」を発表し、それが論争につながっていくのであるが、日野氏は、ここで重要な一文を記している。俳人のみならずこの国で生きる人にはぜひ一読してもらいたい―と思える内容なので、少し長くなるが本書から引く。

―(以下:引用)この頃の日本は生きるか死ぬか飢えとの戦いであった。戦争が終わったからすぐに平和というのは戦争を知らない現代人の感覚であって、敗戦国に限れば戦争が終わった後もまた悲惨である。―(中略)―敗戦後の経済崩壊および生産現場の破綻による食糧難に外地からの引揚者も加わり―。(中略) そもそも現代の日本人は「世間に食べ物が一切ないという状況を知らない。貧乏でも引きこもりでも虐待を受けていたとしても、日本国自体に食料があり、いくばくかでも金を稼ぐか勇気を出して外に出るか、保護されるかで食べ物を得ることができる。しかし、この時代は金があろうが才能があろうが、頭が良かろうが「ないものはない」時代なのである。まして、その「ないものはない」が生命に直結する食料である。―(中略)―こんな時代に俳句を、俳誌を続けた先達には敬意を表するしかないが、この昭和20年代初頭に多くの俳人が結核に苦しみ、或いは亡くなっているのは、この食料難による栄養失調も無関係ではない。―(中略)―そんな餓鬼の世界が当時の日本の姿であった。太平洋戦争の日本人死者は310万人と言われている。実際は間接的な餓死や病死、獄中死などを含めそれより多いだろう。日本人のほとんどは身近な人を亡くしていたと言ってもいい。そんな310万人超の死者の遺族や関係者が飢えていた時代、多くの日本人は、戦争に対して憎しみ、悲しみ、悔恨に暮れていた。そして戦争を引き起こしたもの加担したもの煽った者と、それ以外との日本人同士の憎しみに満ちていた。イデオロギーや理屈を抜きに肉親はもちろん友人、知人を殺されたという思いは、多くの当時の日本の一般庶民の当たり前の感情であった。これは戦前、戦中の俳句弾圧事件にも言えることであり、戦争に加担した日本俳句作家協会、後の日本文学報国会俳句会の主要メンバーに対する恨みは、当然である。大本営、大政翼賛会に従うか、知らぬ存ぜぬを決め込むしかなかったことは理解できるが、被害間もないこの時代に、そんな物分かりよく許せるはずもない―。 (後略:引用終わり)

 読めばわかるように、日野氏はさかえの論敵となった(つまり草田男の句を許せなかった)俳人たちの気持ちを十分すぎるほど理解している。寄りそっていると言ってもよい。
 しかし、そのうえで氏は、思想を離れて俳句を文学として追求したさかえを称揚し、一方で、作品と思想を切り離さなかった俳人を「俳句の目的外使用」と呼び批判する。

 「草田男の犬論争」は、結果として論争相手及び一派の(新俳句人連盟)退会をもって終結した形となったが、この件を通じて日野氏があらためて投げかけたテーマを今の俳壇はどう受け止めるのだろうか。気になるところではある。
 
 ただ、一読者として率直に思うのは、「作品と思想を切り離す」という作業は本質的に果たして可能なのだろうか―ということ。むろん、さかえにしても日野氏にしても、言っているのは「程度」の問題であり「割合」の問題であるとは思うのだが―。
                                    了