大間知君と「京大俳句」

原 知子

 昨年秋、俳人大間知君(おおまちきみ)の「淀の川瀬」と題された原稿が、私のもとに届きました。以前、私が大間知君と、彼女が所属していた大阪府女子専門学校俳句会について調べていたことを覚えていてくださったご家族が、送ってきてくださったものです。

 大間知君は大正7年(1918)生まれ、平成19年(2007)に没しています。昭和11年(1936)に大阪府女子専門学校国文国史学科に入学し、学内の俳句会で「京大俳句」同人であった井上白文地に俳句の指導を受け始めます。翌年には『京大俳句』誌の一般投句欄「三角点」の白文地選に投句をはじめ、15年1月号で同人に推薦されました。しかし翌2月号の発売直前、「京大俳句」の主要同人が治安維持法違反で検挙されるという「京大俳句事件」がおこり、同誌は廃刊となりました。師の白文地は、終戦間際の昭和20年朝鮮に出征、終戦後ソ連軍の捕虜となり、その後の消息は不明のままです。
 戦後の君は、昭和31年に自らが発行人となり、仁科海之介、河内俊成ら「京大俳句」系俳人とともに同人誌『三角点』を東京で創刊。また、波止影夫の「芭蕉」や高柳重信の「俳句評論」の同人となり、作品を発表しました。

 この「淀の川瀬」が、いつどこに発表されたものかはわかりません。内容から、昭和56年の『井上白文地遺集』刊行後に書かれたもののようです。ただ、処分されることなく残されていたことを思うと、君にとって、思い入れのある原稿だったのではないかと推察されます。
 現代俳句史の1ページを垣間見る貴重な文章だと思い、ご家族の了解を得てご紹介させていただきます。(旧かな遣いを新かな遣いに改め、明らかな誤字は正しました)

淀の川瀬

  金銀店そこを散歩のまがりとす  白文地

 私の唯一人の俳句の師、井上白文地先生の句である。いつ頃のものであろうか、手許に何一つ史料らしいものもなく、おぼつかない記憶でありながら、時として妙に思い込みの鮮烈であったりするあの頃の事を思い出すままに綴りたい。
 井上先生はたしか立命館大学の先生で私達の学校の浅田善二郎先生とは、親友中の親友で、学生の頃も下宿が一緒であったときいている。浅田先生の肝入りで井上先生指導のもと俳句会が発足した。はじめ学園内だけの会であったのが、次第に外部とも交流し、大阪ガスビルの京大俳句例会へも参加する様になった。今では考えられぬ事であるが当時(昭和十二、三年頃)は社会ルールを破るいかがわしい会合と同一視されがちで私は校長に直接会の内容を話し、出席する許可をいただいた事を覚えている。後年西東三鬼さんにお目にかかった時「あなた方はまるで修道院から来たのかと思ったよ」と面白おかしく語られたが、皆紺サージの制服を着てもっさりと列席していたのであろう。兎に角女性は少人数であった。会のメインには、井上先生をはじめ中村三山、平畑静塔、西東三鬼、仁智栄坊、和田辺水楼、波止影夫その他錚々たる(今思えば)人達と、立命館大学、関西大学、同志社と云う様に学生が多く加わっていた様に思う。驚いたのは三鬼さんの背広姿であった。赤やグリーンの色豊かなチェックの服でよく動く目も印象的であった。中村三山さんは和服の袴姿であった。美男揃いとは云えないまでも或る種の美しさを備えた偉丈夫で、文芸などそぐわない様にも見えた。日本には昔から雄々しい武将も和歌の道をたしなむ様に、京大俳句の人達も深い知性の下にかくされたみやび心を持った所謂サムライ達であった。先生は福井の寺の出身のせいか、大柄の人でありながら、物静かで大きい声などきいた事がなかった。
(中略)
 「金銀店」の俳句にもどろう。宝飾店などは先生と縁遠く、京都の街ともミスマッチの感を持ちながら、散歩と言う行為で魅力ある句になっている。ほととぎす派への挑戦者として無季俳句を提唱、実作し又論客でもあった先生には、もっともっと野心的な作品があったと思われるが、無理のないなめらなかリズムと人柄がにじみ出ていて好きな句である。先生は鈴鹿野風呂主宰の「京鹿子」に在席され、伝統と前衛・有季と無季のはざまで永い間なやまれたと云う事を後日野風呂さんから聞いた事があった。決してはじめから無季の俳人ではないのである。
(中略)
 昭和十三、四年の頃からか世の中は不穏の動きを見せはじめ、世に言う俳句事件となり、京大俳句の幹部は勿論、新興俳句の人々はとらえられ、雑誌はことごとく焚かれた。井上先生はじめ京大俳句の人達は四条署にとらえられた。私の様な末端にまでも、京大俳句誌を持っていたら処分する様にとの通達があった。俳句への柱を失い、気品ある自由は断たれ、句友と逢う事もなく私も俳句から遠ざかって行った。以後ふたたび先生にはお目にかかる機会もなく、唯先生が出征されたと風の便りに知った。
大の軍隊嫌いで、召集令状が来て兵門をくぐっただけで発熱し病気で返されたと云う伝説さえある人であった。敗戦後先生の消息は永く不明で、中村三山さんや浅田先生は「井上は絶対死んではいない僕にだまって死ぬはずはない」と云われ、奥様もはっきりした戦死報が入っていないとの事で遺句集は幾度も計画され、原稿も出来上がっていたにもかかわらず出版出来なかった。時を経て奥様の了解のもと、三山さん、浅田先生、静塔さんの力を得、仁科海之介さんと協力しようやく遺句集を出す事が出来た。新興俳句の一端をになう京大俳句に起きた事ではあるが、アンチほととぎすの志をかかげた人達の俳壇的意義、功罪はさておき、九州から北海道までのろしの様に燃え上がった文学運動は何であったのだろうか。
 検挙後、職を失い生き方を変えさせられた人も少なくないときく。そうまでして十七文字にのめり込んで行った情熱、友情を思う時、俳句の毒と言う言葉を思い出さずにいられない。
半世紀を経た今俳句は隆盛をきわめているが、熱い暗い焰の中をくぐりぬけて来た時代のあった事を忘れてはならない。
 今は語り合う人もなく、唯々、東山の木々の梢をふきぬける風、淀の川瀬の音に耳をかたむけ、ふかく、ながく跪くのみである。たとえ少量の毒とは云え頒ちのんだ者の一人として。

 白文地の「金銀店」の句は、戦争が拡大してきた昭和14年、2月号の『京大俳句』に掲載されており、「金銀店」ではじまる連作5句のうちの1句です(『京大俳句』では「曲りとす」と表記)。金銀店を横目で見ながら通り過ぎ、店の角を曲がるのが、白文地のいつもの散歩コースだったのでしょうか。
 新興俳句の代表的な俳人の一人である白文地の句としてよく知られているのは、「征く人の母は埋れぬ日の丸に」「我講義軍靴の音にたゝかれたり」「山陰線英霊一基づつの訣れ」などの無季戦争俳句かもしれません。一方、君が取り上げたこの句は、無季俳句ではありますが、俳句革新を目ざすといった気負いや、冒険はあまり感じられません。白文地と同じく「京大俳句」同人であった仁智栄坊、寺野保人も白文地の思い出を語る文章のなかでこの「金銀店」の句をあげており(『三角点』16号、昭和44年)、白文地をよく知る人にとっては共通して、印象深い句のようです。

 大阪ガスビルの学士会倶楽部で開かれていた「京大俳句」大阪句会は、会員でなくても参加できたようです。『京大俳句』誌に掲載された句会報には、君のほかにも女専俳句会の学生たちの名前がみえ、句会の告知では午後6時よりとなっています。君たちはまだ20歳前後で、周囲が不安に思うのは当然だったでしょう。心配する周囲の大人たちを振り切って俳句へ飛び込んでいく熱意は眩しく、その行動力に驚かされます。君は、別の随筆の中で次のようにも書いています。

 まだまだ女子学生には、学校も、家庭も厳しく何かとうるさく云う時代で、頭髪の長さから、スカートの丈まで規定され、寸分違わぬ様守らされたものです。反抗期と云うには遅すぎるのですが、自由で何かを求める気持は月に一度の句会が待ち切れない思いでした。会では先生と弟子に違いはないのですが、学校のそれと異なる伸び伸びとした気分が拡がり同じ道を歩む者と云うつながりを感じさせられました。先生の無季俳句は古く硬直した概念を打ち破る新しい息吹きとして伝わり、家では常に被保護者に過ぎない私も、この場ではつなたい作品も時には讃められ率直な発言も出来、一個の人間として、振舞う事が出来たのがこの上なく愉快だった様です。生きている自分を感じる事が出来たのでしょう。(「あのころ」『三角点』16号)

 上下関係なく、自由に作品を発表し議論ができる風通しのよさが、「京大俳句」などの新しい俳句が青年たちを引き付けたの理由のひとつだったことが想像できます。また、三鬼ら個性的な俳人たちとの交流も刺激的だったでしょう。君は女専の卒業論文でも山口誓子と無季俳句について論じています。同じように、新興俳句に没頭して青春時代を過ごした者も少なくなかったのではないでしょうか。情熱を傾けてきた俳句を燃やさなければならなかった彼らは、間接的とはいえ事件に巻き込まれた最も若い層であり、主に30代であった主要俳人たちとはちがった苦しみがあっただろうと思われます。

 最後に、この随筆のタイトルにもなっている「淀の川瀬」についてです。はじめは、「鴨川」のことを間違えて「淀(川)」と書いているのではないかと思いました。が、すこし調べてみて、京都から大阪へ流れる淀川沿いの水車をうたった「淀の川瀬の水車 誰をまつやらくるくると」という唄の一節があることを知りました。この原稿を書いたとき、君は東京で暮らしていたと思われますが、心は東山の風にふかれ、水車の回る音を聴いていたのではと思います。そして「今は語り合う人もなく」俳句をつづけながら、戻らない師を待っているのでは、と。
 君は、白文地や中村三山の遺句集の刊行に尽力しましたが、自身の句集は残さなかったようです。俳誌に掲載された作品の中から、私の好きな句を紹介します。

帯かたく息することや鰓の紅
山裾に一人娘を生み継ぎ生みつぎ
母と子に羽毛を給ふ海として
山高くなる髪撫でられしより
鈴を飼ふ媼ばかりや雪明り