現代俳句2025年11月号掲載   写真提供:真瀬勝見

「わたしの一句」鑑賞
👤土井探花(どいたんか)

雀の句を詠むのは優しい俳人だ。

我と来て遊べや親のない雀
              一茶

などはその好例であろう。

前田さんの作品からも一茶に負けないくらい、いやそれ以上の優しさと愛情が感じられる。
皆さんご存じの通り、「ふくら雀」は冬の季語。
寒気のため全身の羽毛をふくらませた姿を指す。
雀にとって過酷な冬を生き延びる知恵である。
一昔前までは冬の風物詩だったが、都市部での雀の顕著な減少もあって見たことがない方もいらっしゃるかもしれない。

だが肝要なのは、そのふくら雀の「敷地」が「どこまでも」あることだ。

まず、「敷地」という言葉の選択が素朴で安心する。掲句の場合、これが「国」とか「領土」だったら身構えてしまう読者もいるだろう。
テリトリーのような排外的なイメージを少なくとも「敷地」からは感じない。
ふくら雀に与えられた場所ではあるが、そこには平和的な共存さえありそうだ。

そして「どこまでも」である。
この敷地は広いどころか「どこまでも」ある。
その範囲は、ふくら雀がゆける限り無限だ。
確かに翼のあるものならその飛べる範囲でこんな感覚があるのかもしれない。
だが一方で都市化が進んだ日本でこのような敷地が実在するのか、ちょっと懐疑的にもなる。
掲句を熟読すると、昔ながらの農村部でのふくら雀の写生と読んでももちろんよいが、想像上のふくら雀のユートピアを描写しているような気がしてならない。
作者もふくら雀が自由に過ごせる「敷地」の復活に願いを込めているのだろうか。

さらに深読みすれば、ふくら雀は他の弱く虐げられている者の暗喩ではないか。
社会詠的に読むのは作者の本意ではないかもしれないが、わたしはこのふくら雀がガザの子供たちのように感じられた。
本来の「敷地」はどこまでも広いはずなのに、なぜ限られた土地に追いやられ迫害されるのか。
その不条理が掲句の片隅からじわじわと吹き出す。

前田さんの作品を探しているうちに以下の句に出会った。

ぼくよりも遠くへ行ったかたつむり
卵割るように銀河を渡りけり

一句目、その小さきものへのやさしさは雀に限らない。
歩みの遅いかたつむりが「ぼく」より「遠くへ行った」ことに驚きはあっても妬みはない。
二句目、銀河を渡るというイマジナリーな行為が「卵割るように」の比喩であたかも現実のように受け入れられる。
卵の割れる音がすなわち銀河の星を踏む音なのだろう。

前田さんはわたしの父くらいの年代の方でありながら、その発想は自由で、既成の常識にとらわれない柔軟さがある。
今回鑑賞させていただいたふくら雀の句にしても、単なる写生を超えて、超現実、ユートピア、そして現代社会までにも広がる壮大さだ。

まだまだ前田さんの作品を読んでみたいという方は、まず第67回現代俳句協会賞を受賞された連作が掲載された以下のHPをお勧めしたい。

第67回現代俳句協会賞受賞作 前田弘
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