南房総【2】
👤東國人
若き日の正岡子規は、明治24年(1891年)3月25日から4月2日にかけて8泊9日で房総縦断の紀行を行った。行程約2550キロ。一蓑一笠の行脚であった。そして、その行程を『かくれ蓑』、『隠蓑日記』、『かくれみの句集』という形で残した。前回は、長南町から鴨川市までの行程に沿って、述べてきたが、今回はその続きとして、鴨川市から南房総市、館山市、鋸南町の順に、子規の行程を巡ってみたい。

菜の花畑
子規は、3月30日、一路野島崎を目指し、南に歩を進めた。時は春。南房総は菜の花を含め、様々な花が咲き乱れていたのだろう。『隠蓑日記』の30日のところに「行程八里、右は黄菜、左は白浪」という記載がある。「黄菜」はたぶん菜の花で右に菜の花畑、左に雄大な太平洋を見ながら、歩を進めたと思われる。また、子規はこの地で初めて蓮華草を見たと30日の句の前書きに書いている。
ちなみに南房総では、菜の花は見るものというより、「菜花」として蕾の段階で茎ごと収穫し、ゆがいて主におひたしなどにして食べるものである。我が家でも庭に植えて必要な時に採って食べている。
一日の路や菜の花浪の花
南無日蓮安房には妙法蓮華草
極樂の道へ迷うふや蓮華草
子規
◇仁右衛門島

仁右衛門島全景
鴨川から、南へ少し行ったところに太海(ふとみ)という地区がある。ここには、千葉県で唯一の島、「仁右衛門島」という島がある。仁右衛門島は、太海の沖合約200メートルにある島。全島砂岩よりなる周囲約4キロメートルの島で、千葉県では最も大きな島かつ唯一の有人島である。源頼朝や日蓮の伝説で知られ、個人所有ではあるが千葉県指定名勝となっているほか、新日本百景にも選ばれている。島の名は初代島主・平野仁右衛門の因み、この名前になったといわれている。なお、島の北部に江戸時代に建立された蓬島弁財天祠があり、「蓬島」の別名があったともいわれる。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房に逃れた際、島主の仁右衛門に助けられ、この島で平家軍から一時身を隠し、再挙を図ったと言い伝えられている。このとき仁右衛門に頼朝から「平野」姓と島周辺の漁業権が与えられたという。歴史的資料は元禄16年(1703年)の元禄大地震で消失してしまい詳細は定かでないが、島は個人所有で、平野一族のみが代々暮らしてきたとされる。そして、現在も暮らしている。島の東部には、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、夜襲を避けて潜伏したとされる洞窟や、日蓮が朝日を拝したと伝えられる神楽岩があり、正一位福女稲荷(ふくめいなり)大明神が祀られている。
島には、以前は手漕ぎ舟で往来していたが、船頭の高齢化により現在は、モーター付きの舟で渡る。ただし、風が無く波の無い日には、手漕ぎ舟を出すという。運がいいと手漕ぎ舟に乗れるかもしれない。
また、仁右衛門島には、松尾芭蕉・富安風生・岡本眸・小出秋光・小枝秀穂女・鈴木真砂女・水原秋桜子の句碑と源講修の歌碑がある。
海暮て鴨の声ほの可尓白し
芭蕉
初渚ふみて齢を愛しけり
風生
女手に井のふたおもき雪柳
眸
暖かしわだつみに降るものゝ声
秋光
鯛曼陀羅の海をはるかに髪洗ふ
秀穂女
あるときは船より高き卯波かな
真砂女
巌海に怒濤をあげぬ春の海
虹立つや雨雲ひくき波の列
鶺鴒も千鳥も飛ぶよ初あらし
冬凪ぎて岩壁映ゆる夕焼雲
秋桜子
以津の世にひらき初けむ仙人の寿美可に奈らふ古例の蓬島
源講修
ただ、子規はこの島には立ち寄っていない。南への行程を急いだものと思われる。誕生寺を訪れたあと、次に子規が行きたかったのは、野島崎だった。
鴨川から千倉にかけての海岸線は、今では道が整備され、快適なドライブコースとなっているが、子規の時代には、川に橋もなく、海岸線の道はかなりの悪路であったようだ。
◇和田漁港
ここは、鴨川から千倉へ続く道のちょうど中程のところにある。そして、小型沿岸捕鯨基地でもある。小型沿岸捕鯨基地は、全国に4ヶ所ある。和歌山の太地、宮城の鮎川、北海道の網走、そして、千葉の和田である。漁期は概ね7月から8月でおもに、国際捕鯨委員会(IWP)の管轄外にある「ツチクジラ」を捕っている。日本の小型沿岸捕鯨業では年間64頭まで捕獲が認められている。和田漁港では、日本全体の半分近くのツチクジラが水揚げされている。
また、南房総では「ツチクジラ」が郷土食材として親しまれており、鯨のステーキやベーコン、竜田揚げなどで食べられている。特に「鯨のタレ」は味付けされた干し肉で、房総地方に古くからある伝統食で、干したものと半生のものがあり、どちらも珍味である。
房州の沖を過ぎ行く鯨哉
子規
◇野島崎灯台

野島埼灯台
野島崎は千葉県および関東地方の最南端、丸い台地状で約500メートルにわたって太平洋に突出している。古くから南房総の壮観と崇美を集め、文人墨客が好んで来遊し多くの詩歌や伝説が残されてきた名勝の地である。岬先端の高台にはラバーズ・ベンチが整備されており、朝日と夕日の両方が同時に見えるデートスポットとして人気を集めている。野島崎沖は太平洋から東京湾に入る重要な航路で船舶の往来が多くみられる。
古くは房総半島と離れた島であり野島と呼ばれたが、元禄16年(1703年)の元禄大地震で隆起し、地続きとなったという説がある。しかし、元禄大地震の7ヶ月後に書かれた法界寺(白浜海洋美術館付近にかつてあった寺院)届書に「野島崎は津波の後に地形が変わった」と記されているため、地震以前から野島崎は存在しており、すでに一部が陸続きであったという説も存在する。南房総の南端地域は、隆起地帯で大地震のたびに地盤の大きな隆起が確認されていて、地形的には「海岸段丘」がいたるところに見られる。
令和6年(2024年)1月1日に発生した「能登半島地震」でも、大規模な土地の隆起がニュースして報道されていたが、南房総も同じように大地震のたびに大規模隆起が起こっていることを考えたとき、能登半島地震は、この地域に住む人間としては、他人事に思えない。
野島崎灯台は、旧暦:明治2年12月21日(1870年)観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯した灯台である。野島崎は東京湾に出入りする船舶にとっては、昔からの重要ポイントだったので、他に先立って建設された。F・L・ヴェルニーを首長とするフランス人技師たちの設計によって建設された当初は、白色八角形の煉瓦造灯台で、基礎から灯火までが30メートルの高さ、フランス製の第1等フレネル式レンズを使用した第1等灯台で、石油灯器の6500カンデラ(cd)だった。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により地上6メートルのところで折れて、大音響と共に倒壊。現在の灯台は、大正14年(1925年)に白色塔形(八角形)コンクリート造で再建されたものだ。現在、天気のよい日には、灯台の上まであがることができる。
子規は3月31日、この野島崎灯台を訪れている。ただ、残念なことに、当時、灯台は修繕中で子規は灯台内部を見学していない。子規の房総紀行の目的は、小湊誕生寺と鋸山の見学、それと、幼いと時から、読み親しんでいた滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の出発点の地を自分の目で見たかったこともあった。ここは里見氏の初代里見義実が、ここ野島崎の地に落ちのびて、ここから再起を図ったと伝わる場所である。また、ここから数キロ離れた洲崎には、『義経記』によると、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が落ちのびたと伝わっている。歴史に名を残す英雄には困難がつきまとうものだと、目の前のお広大な太平洋の海原を見ながら、子規はきっと感慨にふけったことであろう。もしかすると、『南総里見八犬伝』の冒頭で里見義実が首のない龍を見たくだりなど思い出していたのかもしれない。
野島崎灯台に向かう道の途中に厳島神社がある。その境内に芭蕉句碑が3基ある。
あの雲は稲妻を待つたよりかな
芭蕉
どの句碑にもこの句が刻まれている。最初のものが天保4年(1833年)建立。隣に最初の句碑の風損を受け、明治19年(1886年)に建立。さらに、両碑の風化のため、すぐ近くに昭和44年(1969年)に第三の句碑が建てられたとのことである。
また、厳島神社から少し下ったところにある海洋美術館の前に「杉長墳」の刻まれた碑がある。杉長は、井上杉長のこと。明和7年(1770年)南房総久保村に生まれ、医業に従事し、後年松平定信の侍医となった。俳諧は17歳頃から学び、諸国の俳諧人とも交流した。小林一茶とも親交があり、一茶は杉長宅に2回俳諧行脚して、宿泊し句座を開いた。文化14年(1817年)4月29日の俳諧連歌には、
我汝をまつことひさし杜宇
一茶
廿九日のけふも四ン月
杉長
(後略)
とあり、これは一茶の「七番日記」に記されている。
野島崎からは、伊豆大島が手にとれるような近さで眺められる。昭和61年(1986年)11月21日の伊豆大島の噴火の際には、ここ野島崎一帯にも火山灰が降り、積もったということである。子規はこの紀行の中で、和田(南房総市和田)や平磯(南房総市千倉)で出された「魚」が臭くて食えたものではなかったと書いている。まさか腐った魚を出したわけでもあるまい。たぶん、子規が口にした魚は「くさや」であろうと推察される。「くさや」といえば、今では伊豆大島の特産品として有名だが、子規が紀行した明治時代には、南房総にも、「くさや」を食する文化が残っていたものと考えられる。伊豆大島と南房総は「海の道」で強く結びついていたのである。今、伊豆大島と南房総との定期便は出ていない。「海の道」を通しての結びつきがないのは、とても残念な気がする。
野島崎から、西へ数キロ離れた根本海岸に若山牧水の歌碑がある。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
牧水
この有名な短歌がどこで詠まれたかはよく分かっていないようだが、根本海岸は、まさにこの歌の背景にぴったりの場所である。
野島崎灯台をあとにした子規は、一路館山を目指し、山中の道に分け入っていった。ここから、館山のへの道はかなり険しい上り下りのある道で、子規は難儀したようだ。
腹へこへこ發句吐き盡して路遠し
子規
◇館山城
館山城は、天正8年(1580年)に里見氏第7代当主、里見義頼によって築城された城である。天正19年(1591年)には里見義康が本拠地をここに移し、城下町が形成された。湊を伴う戦略的に重要な拠点であった。しかし、慶長19年(1614年)大久保忠隣に連座したという理由で里見忠義は国替えを命じられ、安房国を没収され、伯耆国(現在の鳥取県)倉吉に移った。この際、約束された3万石ではなく、実際には4000石程度の知行しか与えられなかったとされている。この改易は、江戸に近い関東の外様大名を排除したい徳川家康の狙いがあったとも言われている。倉吉に移った忠義は、神坂(現在の倉吉市住吉町)に居住し、その後、関金町堀へ移された。忠義は元和8年(1622年)、29歳の若さで亡くなった。忠義の死後、跡継ぎがいないことを理由に里見家は断絶となる。遺骨は、殉死した8人の家臣(『南総里見八犬伝』のモデルとされる)とともに、倉吉市の大岳院に埋葬された。里見氏が改易されたので、館山城も破却され、その後、再建されることはなかった。また、戦時中、現在の館山城がある城山は、館山海軍航空隊を防備するための高角砲台として利用され、城跡の一部が破壊された。
現在、館山城跡には、昭和57年(1982年)に模擬天守が建設されている。模擬天守内は館山市立博物館分館「八犬伝博物館」となっており、『南総里見八犬伝』に関する展示がされている。城跡一帯は城山公園として整備され、四季折々の花を楽しめる観光名所で、山頂からの眺めが良く、館山市街や館山湾を一望できる。
また、館山城の南麓ひっそりには、倉吉で亡くなった里見忠義と殉死した8人の家臣の遺骨を、蛸壺に隠し持ち帰り、祀ったという伝承を基に「八遺臣の墓」(御厩下の姥神様)が建てられていて、供養されている。私は、鳥取県大山町に子供の頃に住んでいて、父親に連れられて、倉吉市の「大岳院」に行き、里見忠義と殉死した8人の家臣の墓にお参りしたことがある。質素ながらも威厳のある墓であったと記憶している。
館山城の天守のすぐ近くには、「はらからの碑」と名付けられた佐佐木信綱と神作磯二(館山市生まれの歌人)の歌碑があり、
安房の海ならぶ鷹の島沖の島はらからの島なつかし今も
信綱
遠く近くひぐらしなきぬ城山の夕ぐれ雨のはれしひと時
磯二
の短歌が刻まれている。
その歌碑の前には、館山市の名誉市民でもあった小高熹郎作詞の「里見節」の詩碑もある。
それからもう一つ、第一駐車場の反対側にひっそりと利田正男(館山市在住の歌人)の歌碑もある。
夜のやみの海をやはらかく叩くごとすなどり終へて船は入り来る
正男
ただ、子規は館山城には行っていない。今のような天守も存在せず、荒れ果てていたのだろう。その代わり、「外海は豪傑の如く、内海は君子の如し。芙蓉は雲に入り、鏡浦に影なし。」と『隠蓑日記』に記している。今まで見てきた外房の太平洋の荒々しい海と違い、内海の館山湾は穏やかで、夕陽にきらめく海は、まるで鏡のように見えたことであろう。館山湾の別名は「鏡ヶ浦」である。子規は館山で一泊している。
心あるや鏡か浦に波たちて我やつれにし影もうつらす
子規
翌4月1日、子規は、北へ向けて歩を進めていった。
◇那古観音(那古寺)

那古観音
那古寺は、千葉県館山市那古にある、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は千手観世音菩薩で、坂東三十三観音第33番札所(結願寺)。通称は那古観音である。
寺伝によると行基が元正天皇の病気平癒を祈るためこの地を訪れ、千手観世音菩薩を安置して祈願すると、天皇の病気は平癒し、天皇の勅により建てられたのがこの寺であるという。また、戦国時代には北条氏康が支援する古河公方足利義氏に対抗して上杉謙信や里見義堯によって古河公方に擁立された足利藤氏(義氏の異母兄)が氏康に追われて、弟とも子とも伝わる藤政と共にこの寺に滞在していたと考えられている。
本坊からゆるやかな女坂を登りつめたところが仁王門。寺院の建物を守る金剛力士像が安置されている。その先には、鐘楼や多宝塔がある。多宝塔は江戸時代中期に建てられたもので、内部中央にある宝塔の中に多宝如来と釈迦如来を安置してる。これと別に里見時代の慶長14年(1609年)に作られた釈迦如来像も安置されている。千葉県内の多宝塔は室町建築の石堂寺多宝塔(南房総市石堂)とこの那古寺多宝塔の2基しかない。那古寺の中心となる観音堂は、江戸時代中期の宝暦8年(1758年)に再建された。五間四面の堂で入母屋の屋根をかけた大きな建物で、内部は内陣と外陣に分けられ、その境には完成時に奉納された龍の欄間彫刻がはめ込まれている。内陣の中心にある宮殿に本尊の千手観音像が祀られ、その両脇に不動明王像と地蔵菩薩像が配されている。宮殿は天明元年(1781年)に建立されたものだ。
この観音堂の前からは、鏡ヶ浦を眼下に望むことができる。前方には洲崎、伊豆大島、伊豆半島を一度に眺望することができる。子規も「那古観音堂に上る。鏡湾脚底に開く」と『隠蓑日記』に記している。
春風や海に花さく眞帆片帆
子規
この那古寺の境内には2基の芭蕉句碑がある。観音堂に向かって左手、龍王堂の前にある句碑には、
此のあたり眼に見ゆるもの皆すゝし
芭蕉
の句が刻まれている。文政6年(1823年)に芭蕉130回忌に地元の有志6人が世話人となり建立したものだ。
また、那古寺の式部山入口にある句碑には、
春もやゝ気色とゝのふ月と梅
芭蕉
の句が刻まれている。明治22年(1891年)に、4年後の芭蕉200回忌を見越して、内房を中心とした俳人139名の協力により、建立されたものだ。
◇崖の観音(大福寺)

崖の観音
大福寺は、那古寺から、約2キロ北に行った館山市船形にある、真言宗智山派の寺院。山号は船形山。境内には懸造りの観音堂があり、磨崖仏の十一面観世音菩薩が刻まれている。切り立った山の中腹にあることから地元では「崖の観音(崖観音)」と称される。
養老元年(717年)に行基が東国行脚の折りに神人の霊を受け、地元漁民のために、安全と豊漁を祈って山の岩肌に観音像を刻んだことが始まりと伝えられる。その後、天台宗の僧・円仁(慈覚大師)が観音堂を建て、寺を興したとされる。江戸時代には、幕府から朱印状が与えられていた。江戸時代の承応2年(1653年)に火災で観音堂は焼け落ちた。その後観音堂は再建されたが、明治43年(1910年)の大豪雨による土砂崩れのため、本堂と庭園が倒壊。さらに、大正12年(1923年)の関東大震災により、観音堂と本堂が再度倒壊。観音堂は、大正14年(1925年)、本堂は昭和元年(1926年)それぞれ再建された。その後、海風などで劣化した観音堂は、耐震補強、屋根の葺き替え、朱の塗り直しなど大規模な改修工事を行い、平成28年(2016年)7月に完成し現在に至っている。観音堂まで上れば眼下に館山湾を一望できるほか、天気が良い日は伊豆大島や伊豆半島など遠くまで見渡せる。
子規は、ここも訪れて、「船形観音に詣る。堂を巌に嵌む。檻に凭り海を望む。円鏡稍灰かなり。」と『隠蓑日記』に記している。
4月初め頃の南房総は、霞んでいて、海の向こうの伊豆大島や伊豆半島の姿は、見えなかったのであろう。南房総においては1月から2月の季節風(北風)が強く吹く頃は、とても寒いが天気のいい日には、伊豆大島や伊豆半島、さらには富士山がくっきりとその姿を見せ、とても趣がある。
堂宇の桁下には、左甚五郎の作と言われる十二支の彫刻もあるのだが、子規が訪れた時は、堂宇が修復中で、見ることが出来なかった。
大福寺の地続きのところに、諏訪神社がある。ここも子規は訪れて、「婦の子を負いて到るある。魚を諏訪神社の櫺に懸けて去る。」とやはり『隠蓑日記』に記している。地元の婦人が魚を神社の格子に奉納していったのであろう。この神社は、平成29年(2017年)に放火により全焼し、今はモダンな社の形で再建されている。
霞む日や見ゆる限りは同じ國
子規
崖の観音を後にした子規は、途中、『南総里見八犬伝』の中で、伏姫の自害により、持っていた数珠が切れて「仁義礼智忠信孝悌」の八つの玉が飛び散り、八犬士誕生のきっかけとなったと書かれている富山(とみさん)を見ながら、険しい山道を北に歩を進めた。目指すのは鋸山。二年前、夏目漱石が訪れ絶賛した場所だ。
◇鋸山(日本寺)

千五百羅漢
「日本寺」は、神亀2年(725年)、聖武天皇の勅詔と光明皇后の言葉を受け、行基菩薩によって開山された勅願所である。正しくは乾坤山日本寺と称する。鋸山全体が寺域となっている。当初は法相宗に属していたが、次いで天台宗、真言宗を経て、正保4年(1647年)曹洞宗となり、今日に至っている。最盛期には七堂、十二院、百坊を完備する国内有数の規模を誇っていた。
良弁、空海、円仁といった高僧が逗留し、修行を行ったと伝えられている。
「千五百羅漢」は、安永9年(1780年)より、上総の名工、大野甚五郎が門弟とともに21年の歳月をかけて伊豆から運ばれた石材を用いて作り上げたもので、1553体の羅漢像がある。別名「東海千五百羅漢」とも呼ばれている。ただ、惜しいことに明治初期の「廃仏毀釈」により、破壊され首を失った羅漢像も多くある。子規は『隠蓑日記』の中で「石仏幾百。或いは孤栖す。安座して怒る者、堕ちと欲して笑ふ者あり。仙気人を撲つ。仏側に踞すること少時、山頂に上る。」と書いている。子規は、この俗界を離れた気配ただよう羅漢の前に座り、しばらく休みながら、何を考えていたのだろうか。
また、日本寺には、日本一の高さ31.05mを誇る磨崖仏の大仏がある。正式名称は「薬師瑠璃光如来坐像」といい、奈良大仏や鎌倉大仏よりも大きい石造りで、病から人々を救う仏様として左手に薬壺を持っているのが特徴である。天明3年(1783年)から、大野甚五郎と門弟が約3年かけて、石山を刻み造立されたものだ。ただ、江戸時代末期に岩に亀裂を生じ崩落、以後荒廃していた。子規は訪れた時はこのような状態であったと考えられる。そのためか『隠蓑日記』の中に、「大仏」の記載はない。現在の大仏は、昭和44年(1969年)に復元されたものだ。
千五百羅漢を見ながら、子規は山頂に上った。そこには、「十州一覧台」と呼ばれる展望台があり、そこには浅間神社が鎮座している。ここからは、武州(東京)、相州(神奈川)、房州(安房)、総州(上総)が一望でき、さらに伊豆半島の天城山や遠く富士山も遠景として加わる。とても、見晴らしのいいところだ。子規はさぞ清々しい気分になったことだろう。
鋸山には、江戸時代から昭和にかけて採掘された石切り場跡が数多く残されている。これらの石切り場跡は、鋸山の主要な見どころの一つであり、山全体が、鋸の刃のような形で、石切り場のむき出しの岩肌が、本当に「鋸の刃」を連想させる。垂直に切り立った絶壁が特徴的。ここから切り出された石は「房州石」と呼ばれ、加工しやすく耐火性に優れていたため、江戸時代から建築資材として多く使われた。明治時代には「横浜港」建設などにも使われた。日本の「文明開化」をまさしく底辺から支えていたのである。最盛期は明治後期から大正期である。現在は切り出していない。その一角の断崖絶壁から突き出た岩の先端は、「地獄のぞき」と呼ばれ、足元100m下の石切場をのぞき込むことができ、東京湾やなだらかな山並みも一望できる。岩の先端に立つと、空中に突き出たような感覚で非常にスリリングな場所である。
大仏口管理所前には、小林一茶の句碑があり、
阿羅漢の鉢の中より雲雀かな
一茶
の句が刻まれている。この句は一茶の「七番日記」と題する句帳の中の「日本寺」と前書きのある句の最初のものである。
大仏口管理所前から、石段をおり法堂・仏舎利塔の前に出たところの、源頼朝お手植えと伝えられている蘇鉄の前に長谷川馬光の句碑があり、
引きおろす鋸山の霞かな
馬光
の句が刻まれている。長谷川馬光は、葛飾派・山口素堂の弟子で、二六庵竹阿の師である。小林一茶は孫弟子にあたる。寛政2年(1790年)4月葛飾派其日庵二世、長谷川馬光の五十回忌追福のため馬光の弟子等の手によってここに建立された。その建碑式には、当時28歳だった小林一茶も師竹阿の代参として参列している。これが一茶が南房総へ足を踏み入れた最初となった。
また、そのすぐ近くには、梁川星巌の七言律詩の詩碑が建っている。梁川星厳は、幕末、江戸神田お玉ヶ池に玉池吟社を開き、江戸詩壇を風靡した漢詩人。美濃国(岐阜県南部)の人である。漱石も子規もここを訪れた際に、この詩碑を読んだに違いない。
流丹万丈芙蓉を削る
寺は磅磄(ほうとう)の第幾重にか在る
地を捲くの黒風海角より来り
時有りて微雨山容を変ず
三千世界孤掌に帰し
五百の仙人一峰を共にす
怪しみ得たり残雲の腥気を挟むを
老僧夜降す石潭の竜
(原漢文)【意訳】
万丈の山肌は芙蓉の花の丹を流したようだ 幾重にも重なる山襞の仙境の地に寺はしずもっている
地を巻き上げる風が海の果てから吹きつけ 時にそぼ降る雨が山の形を変える
老僧はこの広い世界を掌にのせ たくさんの仙人たちと起居をともにしておられる
はぐれ雲に生臭い気配を怪しんで 心中に巣くう迷いの竜を断ち切ったのだ
源頼朝お手植えと伝えられている蘇鉄の横には、「漱石・子規 鋸山探勝碑」が平成26年(2014年)5月に建てられた。
近代日本文学史上、燦然と輝く明治の文豪、夏目漱石と近代俳句の祖、正岡子規との友情の舞台となったのがこの鋸山である。子規が明治22年(1889年)5月に詩文集『七草集』を親友の夏目漱石に示すと、漱石は丁寧な批評を寄せた。『七草集』に触発された漱石は、同年8月房総を周遊し、漢文紀行『木屑録』を執筆して子規に届けた。これを読んだ子規は激賞し、ともに詩文の友であることを確認し合った。『木屑録』には、鋸山の絶景と悠久への思いが綴られている。2年後の明治24年(1891年)春、子規もまた更なる詩想を求めて房総を周遊し、鋸山山頂からの眺望を漢詩に詠んだ紀行『かくれみの』を書き上げた。これを読んだ漱石は子規の着想の豊かさをたたえ、以降、二人は生涯にわたって絆を深めてく。後に漱石は『こころ』などの作品に房州の自然や地理を取り込み、子規もまた房州の地名を織り込んだ俳句を数多く残している。ここに二人の偉業と溢れる友情の証を末永く讃え続けたいということで建立されたということである。
鋸山を訪れた二人は
夏目漱石は、
鋸山鋸の如く碧崔嵬たり
上に伽藍有りて曲隈に倚る
山僧日高くして猶お未だ起きず
落葉掃わず白雲堆し
吾は是れ北のかた帝京より来たるの客
登臨して此の日往昔を懐ふ
咨嗟す一千五百年
十二僧院空しく迹無し
只古仏磅磄(ほうとう)に座する有り
雨蝕苔蒸桑滄を閲す
嗤ふに似たり浮世栄枯の事
冷眼下瞰す太平洋
(原漢文)【意訳】
青々とした鋸山の頂は鋸の刃のように険しい 山中の伽藍が奥まった窪地に寄りかかるようにして建つ
日が高く昇ったのに山僧はひとりとして起きて来ない 落葉を掃う者もなく山の上には白雲が盛り上がっている
私は北にある都からやって来た 此の日この寺院のありし日を忍んでいる
はるかに千五百年の歴史を思い悲しみにくれ かつて栄えた十二の僧院もそのあとを留めていない
そこにはただ古い石仏があちこちにあるだけだ 雨に打たれ苔むしたまま世の推移を見守っている
石仏はこの世の栄枯盛衰を嘲笑っているかのように 冷ややかに太平洋を見下ろしている
正岡子規は、
来たり上る房州の第一峰
岡巒は環拱す碧千重
長空海に連なり孤鶻を看
金石山を成して老松無し
雨は仏衣を蝕して苔迹密に
花は仙洞を蔵して露痕濃やかなり
倏然として雲起こりて風気腥く
何処の陰崖にか臥竜有らん
(原漢文)【意訳】
房州で第一といわれる山にやって来て登った 山々が千里の果てまでも続く緑の野を抱え込んでいるかのようだ
果てしない空と海は水平線で接しそこに一羽の隼が飛んでいる 堅い岩山が山を形作り古い松どこにも見当たらない
石仏が纏う衣は雨に叩かれ傷みもひどく苔がびっしりと生え 桜の花があたかも仙人の洞窟かと思われる岩穴を覆い隠してそこに激しくおりた露のあとが色濃く残る
すると突然雲が湧き起こり風さえも生臭く これはどこかの山の窪みに竜が潜んでいるからだろう
と漢詩に詠んでいる。
河東碧梧桐は、明治39年(1906年)8月9日、第一次全国旅行に出た。それは東北を巡歴し若狭、近江をまわるという、まさに芭蕉の『おくのほそ道』の行程をたどるものであった。と同時に、先輩にして師匠でもある正岡子規の足跡を追う気持ちもあったと見えて、子規が周遊した千葉房総半島にまず立ち寄っている。34歳の時である。
仏像に首あるぞなき秋の風
碧梧桐
嘉永5年(1852年)頃に刊行された浮世絵師・歌川広重の連作『不二三十六景』では「安房鋸山」が描かれている。「安房鋸山」は手前に鋸山、奥に浦賀水道越しの富士山を描いた図で、広重はこの年の2月に房総半島を旅して鋸山を訪れ、『房総行日記』を記している。
◇浄蓮寺
浄蓮寺は鋸南町勝山にある。浄土宗の寺院である。この寺には文化3年(1806年)5月19日房総捕鯨の祖であり、俳句をたしなんでいた醍醐家4代目、醍醐新兵衛の招きによって鋸南町勝山を来訪しこの寺に宿泊している。
内房捕鯨は江戸時代初期に、鋸南町勝山の初代醍醐新兵衛によりはじめられた。醍醐新兵衛は、主に現在の神奈川県三崎町と千葉県館山市を結んだ線より北方の海域を漁場とし、突組を組織し江戸時代を通して明治まで漁を行った。この漁は、鯨船57隻3組の「セシ」と呼ばれる船頭が鯨を取り囲み銛で捕獲するものであった。初代醍醐新兵衛は、関東(房総)捕鯨の祖と言われ、醍醐家では、以来代々醍醐新兵衛と称していた。
小盥も蓮も一つ夕べかな
一茶
この寺に泊まった一茶が、お念仏の教えの肝要を極楽の蓮の華に託して詠んだ句である。
この句は、平成28年(2016年)11月に「浄蓮寺開創400年」を記念して句碑に刻まれて、今でも境内にある。この寺は、私の実家から歩いて3分ほどの距離にある。自分の生まれた目と鼻の先に、江戸期小林一茶が来ていたと思うと、俳句を作る身としては感慨深いものがある。
◇菱川師宣生誕地碑
菱川師宣は、安房国保田で縫箔刺繍業を営む父菱川吉左衛門と母オタマの間に、7人兄弟の第4子長男として誕生。俗称は吉兵衛、晩年には剃髪して「友竹」と号した。生年は不祥だが、寛永年間の中頃(1630年頃)と推定されている。
幼い頃より絵を描くのが好きだった師宣は、家業を手伝い、刺繍の下絵などを描くかたわら、漢画や狩野派、土佐派などの諸流派に接し、独学で画技を磨いた。その後、江戸に出た師宣は、まず版本の版下絵師として活躍。文章を少なく、挿絵を大きく取り入れた絵本で、江戸の庶民の人気を得た。さらに鑑賞用絵画としての木版摺りの一枚絵を手がけ、絵画文化の大衆化に貢献した。これが後の浮世絵版画のもととなった。師宣は、江戸の庶民を題材とした風俗画を描き、その情報発信にも着目しており、肉筆画においても、歌舞伎や吉原遊里の風俗をこまやかに、色鮮やかに描き、「見返り美人図」に見られるような独自の女性美を追求し、「浮世」と呼ばれた当時の世相にマッチした新しい絵画様式を確立した。日本が世界に誇る「浮世絵」は、師宣というひとりの絵師の活躍によって誕生したのである。
その生誕地の碑が、JR内房線保田駅から徒歩5分ほどの国道に面したところにある。また、鋸南町中央公民館前に、「菱川師宣記念館」があり、師宣の作品を中心に歌川広重、歌川豊国、歌川国芳ら、後の浮世絵師達の作品も展示されている。
◇頼朝上陸地碑
南房総鋸南町には、「頼朝上陸地碑」が建てられている。『吾妻鏡』によると、石橋山の合戦に敗れた源頼朝がこの地に落ちのびてきて、ここから再起を図り、そして鎌倉幕府誕生につながったと伝わっている。ここからは、天気のよい日は、伊豆半島がしっかりと眺められる。たぶん、伊豆半島と房総半島とは、「海の道」でしっかりと交流があったのだと考えられる。海はつながっている。
◇道の駅保田小学校
道の駅保田小学校は、鋸南町保田で廃校になった保田小学校の校舎や体育館などを道の駅として、再利用した場所である。ドライブの休憩地などとして、多くの観光客で賑わっているが、この「保田小学校」の校歌を作詞したのは、俳人水原秋桜子である。現在、道の駅の敷地に、「保田小学校校歌碑」が建っている。
4月2日、鋸山を見聞した子規は保田から、霊岸島往きの汽船に乗船して、東京への帰路についた。当時はまだ、鉄道の無い時代であったので、東京と南房総との往来はもっぱら、「東京湾汽船会社」(現東海汽船)が運航する汽船が、一番早く往来できる手段であった。「霊岸島ー浦賀ー保田ー勝山ー富浦ー船形ー那古ー北條ー館山」の往復が運航航路。1日3便であった。「保田ー霊岸島」間は22銭。はしけによって沖がかりしている汽船に乗船した。今は保田の桟橋は崩れて形を残していない。
東京に帰った子規は、翌、明治25年(1892年)7月、学年試験に落第し退学を決意。12月より日本新聞社に入社。この後、俳句・短歌の革新運動に邁進してゆく。子規の房州紀行は、もしかすると、今の「俳句」の原点ともいえる重要な旅だったのではないか。それ故、この旅の途中、長南町で購入した蓑が、終生、子規庵の壁に掲げられていたのではないかと思う。
今、私達が勤しんでいる「俳句」という文芸は、実にこの房総紀行によって生み出されたと言っても過言ではないと思う。
今回、WEB版『現代俳句』に「ふるさと巡り」ということで、正岡子規の房総紀行に沿って、2回にわたり南房総を紹介してきたが、南房総には、まだまだ紹介したい場所がたくさんある。また、機会があれば今度はそれらの場所を紹介したいと考えている。
そして、是非、実際に南房総を訪れていただき、肌で南房総を感じ取っていただければと願っている。
(参考文献)・『正岡子規の房総旅行 かくれみの街道をゆく』関宏夫(崙書房)
・『房総文学散歩 上巻』鳥海宗一郎(千秋社)
・『房総文学散歩 中巻』鳥海宗一郎(千秋社)
・企画展図録『俳諧三昧ー俳句が運ぶ江戸文化ー』(館山市立博物館)