読み違い・勘違い
👤田中信克

もう十何年か前のことになる。ネットニュースで「江沢民死去か?」というデマが飛び交ったことがあった。
中国の元主席(もう胡錦涛政権に変わっていたと思う)である。
私はスマホ画面でちらりとその一行を見て、「江沢民」を「エザワタミ」と読み違え、「そんな名の伝統工芸家がいたかなぁ」と思って、次の瞬間、顔が真っ赤になった覚えがある。
実はそれまで「毛沢東」のことを「ケザワヒガシ」と読んでいた学生のことを面白がって話のネタにしていたのだが、それ以来、そのような失礼なことは一切慎むようになった。

こんなこともあった。
インターネットの普及が一段落した頃の話である。
その頃、デザイン性の高い、魅力的なホームページのことを「シュールなサイト」と呼んでいた。
或る新入社員が私のところに来て、「『シュールなサイト』ってどんなサイトだと思います?」と訊く。
「そうだなぁ。僕も分かんないけど、『超現実主義』のことを『シュルレアリスム』って言うけどなぁ。」と返事をしたら、「ああ、なるほど。じゃあ、マクドナルドのクーポンがついていたり、グッズの引き換え券がプリントアウト出来たりとか、そういうやつですかね。」と言う。
意味が理解できずにぽかんとしていると、「だって、『チョー現実的』なんでしょ。」と言われた。
成程。「超」が「チョー」だったわけね。
ちょっと眼が点になったが、「この解釈イケル!」とも思ったものだ。
読み違い、勘違い。大いに結構である。だって、楽しいもん。

俳句にもそんな可能性があるのかもしれない。
なにしろ「最短の詩」なので、作者の言いたいことを全て表現することは不可能だ。
熟語に複数の意味があったり、漢字に何通りかの読みがあったり、オノマトペの音感の違いなどもある。
読者によって、それまでの知識も経験も異なるのだから、「読み違える」ことはけっしておかしなことではないはずだ。
よく「こういう読みをするべきだ」とか「そんなことは句には書いていない」とか「季語の『本意』と違っている」というコメントを聞いたりするが、それはそれで一理あるとしても、むしろ「みんなちがって、みんないい」を楽しむべきではなかろうか。
作者と読者、読者相互の感覚や思想の「ズレ」。
それを味わいたい。だって「俳」なんだもん。

すれちがう過去がふたりのさくらかな

田中信克(たなかのぶかつ)
1962年東京都生まれ。荒川区在住。
「海原」同人、「青山俳句工場」、「豆の木」所属
現代俳句協会会員