南房総【1】
👤東國人
私は、南房総の鋸南町に、昭和35年(1960年)に生まれた。ただし、その地でずっと育った訳ではない。父親の仕事の関係で、愛知県安城市、静岡県磐田市、鳥取県大山町、北海道今金町で中学3年の1学期まで過ごした。その後高校卒業までは地元にいたが、私が南房総に戻って来たのは、南房総の高校の教員として、平成2年(1990年)からである。以後30年以上、ずっと南房総に住んでいる。
南房総は、都心から100キロ圏にありながら、山海の豊かな自然と、歴史ある古刹、そして、素朴で人情味あふれる土地である。その南房総をこの「ふるさと巡り」で多くの皆さんに知っていただければと思っている。今回、南房総を紹介するにあたっては、正岡子規の房総紀行の行程に沿って紹介したい。
若き日の正岡子規は、明治24年(1891年)3月25日から4月2日にかけて8泊9日で房総縦断の紀行を行った。行程約250キロ。一蓑一笠の行脚であった。そして、その行程を『かくれ蓑』、『隠蓑日記』、『かくれみの句集』という形で残した。
東京を出て、まず、宗吾霊堂、成田山新勝寺に赴いた子規は、千葉に南下し、そこで一枚の写真を撮った。そこから一路南へと歩を進めた。当時、まだ南房総には、鉄道が敷かれていなかった。房総西線(現:内房線)が安房鴨川駅もで延伸したのが、大正14年(1925年)。房総東線(現:外房線)が安房鴨川駅まで延伸したのが、昭和4年(1929年)であるから、子規の時代、南房総を往来するのは、東京湾沿岸の内房地域は主に船、外房地域へは、陸路をひたすら行くしかなかったのである。

子規の行程図『正岡子規の房総旅行 かくれみの街道をゆく』より
子規は千葉から潤井戸、長柄山を経て、3月27日、長南に到着した。そこで、雨に降られ、菅笠だけでは、しのげなくなった。そして、蓑を買った。
◇長南町中央公民館・郷土資料館
長南町中央公民館前の道に面して建てられた正岡子規の句碑がある。平成8年(1996年)に長南町俳句会が子規を顕彰して建立したものだ。
春雨のわれ蓑着たり笠着たり
子規
当時長南は、茅の産地で、蓑と笠は特産物であった。県内の各地にも出荷していた。「長南蓑」といって有名であったらしい。
そして、この蓑は正岡子規にとって、とても思いで深く、意味深いものとなった。子規庵で病床に臥すようになったその部屋の柱に、この蓑は笠とともに子規が他界するまで掛けられていた。子規にとってこの房総の旅は、終生忘れられないものとなっていたのであろう。もしかすると、子規はこの房総の旅に、芭蕉と自分を重ねていたのかもしれない。
◇笠森観音(笠森寺)

笠森観音堂
笠森観音は、正式名称を「大悲山 楠光院 笠森寺」という。延暦3年(784年)伝教大師最澄が、楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み山上に安置し、開基されたと伝わっている。
観音堂は長元元年(1028年)、後一条天皇の勅願により建立された。そして、その建築様式は、日本唯一の「四方懸造」で、昭和25年(1950年)に「国指定重要文化財」に指定された。懸崖造りといえば、京都清水寺の清水の舞台が有名であるが、この観音堂は大きな岩の上に建てられ四方とも懸崖造りとなっている。
観音堂に上がると、四方に続く森林が遠くまで連なっていて、房総の山並みが一望できる。周囲の山々は「県立笠森自然公園」に指定され、特に観音山は「国指定天然記念物笠森寺自然林」として保護されている。
ここの「二天門」前には、松尾芭蕉の句碑がある。三つの句碑が並んでいて、中央が芭蕉の句碑である。これらの句碑は、笠森出身の俳僧で、渡辺雲裡坊の門人である五老峰故貝が、安永6年(1777年)に雲裡坊の17回忌を期して芭蕉・支考・雲裡坊の三代の師恩に報いるために建立されたものだ。県内最古の芭蕉句碑と言われている。芭蕉は天和2年(1682年)この観音堂に上がり、句を詠んだ。
五月雨にこの笠森をさしもぐさ
芭蕉(中央句碑)
片枝に脈や通ひて梅の花
支考(右句碑)
すへられて尻の落着く瓢かな
雲裡坊(左句碑)
また、この観音堂を江戸時代の浮世絵師、安藤広重も「諸国名所百景」の中で描いている。
子規は長南から大多喜に向け歩を進めてゆく。長南から大多喜への道はくねっている上に、山坂の多い道であった。そして、3月28日大多喜に到着した。
◇大多喜城(千葉県立中央博物館大多喜城分館)
大多喜城は、大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代にわたって正木氏が支配し、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。天正18年(1590年)、里見氏が「惣無事令」違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城と大多喜の町の基となった。
その後、藩主が本多氏から代わり、城は次第に荒廃していき、天保13年(1842年)には天守が焼失し、明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。
子規が訪れた時は、城跡は廃墟となっていた。お濠はわずかではあるが、外濠の面影を残していたと思われる。
掘割や藪鶯を兩の耳
子規
昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、千葉県立中央博物館大多喜城分館となっている。(現在休館中)二の丸跡は、現在、千葉県立大多喜高等学校の敷地となっている。
子規は、大多喜から一路、房州小湊の誕生寺を目指し、さらに南下してゆく。この辺りは、今は鹿・猿・猪などの野生動物の出没するような険しい道であった。最近では、閉園した動物園から逃げ出し、野生化したキョンの一大生息地となっている。そして、3月29日房州小湊へ到着した。
鶯や山をいづれば誕生寺
子規
◇誕生寺

誕生寺山門
「誕生寺」は、健治2年(1276年)、日蓮の弟子日家が日蓮聖人の生家跡に「日蓮誕生寺」として、建立したのが始まりである。ただ、明応7年(1498年)の明応地震、元禄16年(1703年)の元禄地震の2度の大地震により、生家跡は沖合の海中に没し、寺は、小湊漁港近くに移転され現在に至っている。
日蓮は、承久4年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海の漁村に生まれた。日蓮が誕生した時、三つの不思議な事が起こったと伝わっている。(三奇瑞)一つ目は、突然、家の庭から清らかな清水が湧き出した。(誕生水)、二つ目は、近くに砂浜に時ならぬ蓮華の花が咲き誇った。(蓮華ヶ淵)、そして、三つ目は、海面近くに真鯛が群れをなして現れた。(鯛の出現)。
これらの奇跡から、この一帯(鯛の浦)に生息する真鯛は、日蓮聖人の化身・分身として尊信され、今でも禁漁が守られている。大正11年(1922年)に、国の天然記念物に指定されている。今では、遊覧船で真鯛の群がる様子を見ることもできる。
また、誕生寺近くには、日蓮の両親の墓所に両親閣(妙蓮寺)という小さな寺院もある。
子規の房総紀行の目的の一つが、この誕生寺に参詣することであった。その理由は二つある。一つ目は、明治22年(1889年)に親友であった夏目漱石が内房から外房を巡り、誕生寺と鋸山を核としてまとめた漢文の紀行文『木屑録』を読み、漱石の描写した景観、撒き餌に群がる真鯛の乱舞を自分の目で確認したいと思っていたからだ。もう一つは、鎌倉時代、時に利あらざるも、勇猛心をもって果敢に新仏教という新境地にいどんだ日蓮の姿に、明治という新時代に、新たな文芸世界を切り開こうとする自分の姿を重ねていたからだ。
菅笠の影は佛に似たりけり
海と山十七字にはあまりけり
子規
なお余談になるが、市原市の五井駅と大多喜町の上総中野駅を結んでいる「小湊鉄道」は、安房小湊駅まで結び、誕生寺の参詣者のための鉄道として計画されたが、房総丘陵の山並みと工事の資金不足のため、上総中野駅で打ち切りになったものである。故に今でも、当初の目的地であった「小湊」の文字が残っている。
◇清澄寺
清澄寺は、房州天津の山中にある。はじめは天台宗の寺院で、鎌倉時代には僧坊12、祠堂25を数え、最も栄えた時期であった。室町時代後半から、度重なる火災等で次第に衰退していった。その後、江戸時代初め、徳川家康よりこの山を賜った頼勢法印がここを再興し以後真言宗の寺院となる。そして、明治に入り廃仏毀釈により寺院は次第に寂れてゆき、昭和24年(1949年)日蓮宗に改宗し、現在に至る。
日蓮は天福元年(1233年)5月12日、12歳で清澄寺に入り勉学に励み、16歳で出家得度した。その後、鎌倉、比叡山延暦寺などに遊学し、32歳の時、清澄寺に戻り、「法華経こそが一切衆生を救う教えである」と悟り、建長5年(1253年)4月28日、旭が森において昇り来る旭日に向かい「南無妙法蓮華経」の御題目を唱え、立教開宗した。その地がここである。日蓮の修業時代は天台宗の時代である。
ここではじめて御題目を唱えたといわれる旭が森の高台の上には、大正12年(1923年)8月30日に日蓮の銅像建立され、はるか山並みから太平洋を今でも見下ろしている。また、寺域内には、「千年杉」が悠然とした姿で立っている。樹容は、太さ約17.5m、樹高約48m、目通りの太さ約15mの巨木で、千年を越える清澄寺の歴史を物語る霊木とされている。
しかし、子規はこの寺を訪れていない。限られた日数の房総の旅なので、南への道を急いだものと思われる。
ただ、荻原井泉水が大正9年(1920年)に、病気の母の代参でここを参詣している。その時のことを綴ったのが、随筆「清澄詣」である。当時、鉄道は勝浦駅までしか来ていなかった。井泉水は、勝浦から清澄寺まで徒歩で往来したとのことだ。その年の句に次のようなものがある。
仏を信ず麦の青きしんじつ
陰もあらはに病む母見るも別れか
井泉水
また、歌川広重が嘉永5年(1852年)にここを訪れ、その風景を『山海見立相撲』の中で「安房清住山」という題で浮世絵に描いている。
◇鏡忍寺

鏡忍寺山門よりの風景
文永元年(1264年)11月11日に天津に向かっていた日蓮一行は、この地で地頭東条景信等に襲撃され弟子の鏡忍坊と信者の工藤吉隆公が殉死、日蓮聖人も腕を折られ頭部に刀傷を負った場所。後に日蓮聖人は2人の菩提を弔うため日隆上人(工藤吉隆公の遺子)に命を下しこの地に開創されたのが「鏡忍寺」である。「日蓮聖人法難の地」として知られている。山門をくぐると境内は、しんとしてとても静かで、穏やかである。
日蓮聖人の一行が東条景信の一団に襲われた際に、路傍の樹の上に鬼子母神が現れ、危うく難を逃れたと伝えられる槙の木は「降神の槙」と呼ばれ、今でも境内に大きく枝を広げている。他に、祖師堂の欄間を飾る「波の伊八」の七福神の彫刻三面、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門が、市の有形文化財に指定されている。
子規は、南に向かう道すがら、この寺に立ち寄っていたようである。その句碑が境内にある。
雉鳴くや背丈にそろふ小松原
子規
また、境内には富安風生の句碑もある。この句碑は昭和29年(1954年)に建立されている。裏面には発起人のひとりとして、鈴木真砂女の名も見える。
富安風生は、昭和19年(1944年)5月、空襲が激しくなった東京を離れ鴨川に疎開してきた。60歳の時だ。そして、地元の俳人たちと交流を持ったとのこと。そして、昭和20年(1945年)7月、妻の実家静岡に移りそこで、終戦を迎えている。昭和24年(1949年)、疎開した鴨川の家を買い取り、別荘とした。
古希といふ春風に居る齢かな
風生
鴨川疎開中の風生の句には、次のような句もある。
草の戸に名刺を貼りて松の花
夕顔の一つの花に夫婦かな
わが机妻が占めをり土筆むく
風生
その他に鏡忍寺境内にはいくつかの歌碑が建立されている。
春あさき光の流れ戦いの跡を移ろうは静かなるかも
香川進
ふけてゆく台風のそらほのぼのと沖にたつなみ見せてくらみぬ
杉田博
小松原の秋静かなりかくり世の人呼ぶごとく百舌鳥の高鳴く
曽我辺雅文
日蓮の大きみ寺の寒椿紅燃えて年改まる
石井守
子規は、ここから、一路南へ南へ、房州最南端の野島崎を目指して、歩を進めてゆく。
◇鈴木真砂女ミュージアム
(鴨川グランドホテル内)

鈴木真砂女ミュージアム
鴨川の俳人を語る上で、忘れてはならないのは、鈴木真砂女の存在だろう。鈴木真砂女といえば、東京銀座で、小料理屋「卯波」を営んでいたことでも有名だが、真砂女の出生地はここ鴨川である。
真砂女は波乱の人生を俳句ともに生き抜いた女流俳人である。真砂女は、明治39年(1906年)鴨川の老舗旅館「吉田屋(鴨川グランドホテルの前身)の三女として生まれる。天真爛漫に育ち、昭和4年(1929年)22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚。しかし、夫は博打に狂い失踪。娘を婚家に残したまま、鴨川に戻される。昭和10年(1935年)旅館を継いでいた姉が急死し、親に説き伏せられて姉の夫と再婚。吉田屋の女将となったが、鬱々とした日々が続いた。その頃に俳句と出会う。 昭和12年(1937年)七つ下の海軍士官に恋をし、妻子があることを知りながらひと目会うため家出し、長崎まで行く。会えた喜びもつかの間恋人戦地に赴くこととなり、再び鴨川に戻ってくる。 その後、昭和22年(1947年)、久保田万太郎の『春燈』に入門、その後安住敦に師事した。昭和32年(1957年)50歳の時に、夫と離婚。裸同然で東京に出た真砂女は、銀座に小料理屋「卯波」を開く。その店は文人、俳句仲間、出版人を中心に繁盛し、平成15年(2003年)3月逝去。享年96歳。
「鈴木真砂女ミュージアム」は鴨川グランドホテルのホテルの地下1階にあり、真砂女の経歴や多くの短冊や色紙類、また、関係した多くの俳人や作家の色紙など多数が展示されている。入場無料。
なお、瀬戸内寂聴の小説『いよよ華やぐ』の主人公である藤木阿紗女のモデルは、俳人の鈴木真砂女である。
貫きしことに傷つき炉を塞ぐ
あるときは船より高き卯波かな
羅や人悲します恋をして
口きいてくれず冬濤見てばかり
今生の今が倖せ衣被
初凪やものゝこほらぬ国に住み
真砂女
鴨川グランドホテルホテルの正面入口前に、南房総を象徴するかのような句を刻んだ句碑が、ひっそりと建っている。
また、鴨川は、アララギ派の歌人として知られる古泉千樫の出身地でもある。
みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも
秋の空ふかみゆくらし瓶にさす草稗の穂のさびたる見れば
千樫
(参考文献)
・『正岡子規の房総旅行 かくれみの街道をゆく』関宏大(崙書房)
・『房総文学散歩 中巻』鳥海宗一郎(千秋社)