「わたしの一句」鑑賞
👤土井探花

現代俳句2026年02月号掲載 撮影者:小林貞次
最近とても楽しみにしている俳誌がある。
池田澄子さんを慕って集まった「くらら句会」の発行する『くらら』である。
参加者の連作やエッセイからは、澄子さんの率直なご指導、真摯かつおちゃめな人柄が垣間見え、さらにそれに陶冶された各人の生き生きとした俳句が眩しい。
ずっと続いて欲しい同人誌である。
さて掲句。
「ひとり」はいろいろなものを持て余す。
部屋だって食事だって、起床から就寝までの間、さまざまなことが時に物足りなく、時に寂しい。
ただしこの作品が単純な寂寞を詠んだわけではないということは、そのi音の押韻によるリズムの良さ、いわば優れた口誦性がひとつの鍵となるとわたしは思っている。
まず読み進めていこう。
前半の「ひとりにはひろすぎ」だが、「ひろすぎ」という口語的表現が作者の面目躍如である。
とくに切れ字などはないが、「ひろすぎ」は、「ひろすぎるわ」なんてちょっとした詠嘆のようにも感じられる。
少々途方にくれながらも、明るさと前向きさは失ってはいない。
そして何が「ひろすぎ」かというと後半の「きさらぎの岸辺」である。
きさらぎはご存じの通り仲春の季語であり、陰暦二月のことで、ほぼ新暦の二月下旬から四月上旬にあたる。
角川俳句大歳時記によれば、「春も深まりつつあるのだが、三月というのとは違って、まだ空気の冷たく張りつめた感覚」が本意であるようだ。
西行法師の「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」を思い出せば、大体の感覚はわかるであろう。
そんな、余寒ときどき水温しの岸辺には、感傷的というよりは凛とした作者が立っているように感じる。
「岸辺」という措辞自体には此岸とか彼岸とか、来し方や行く末といった仏教的・俳句的抒情が常につきまとうもので、この場所は否が応でも、亡くなった師匠や友に思いを馳せずにはいられない。
それを肯定しつつ、深い悼みを内包しながらも、澄子さんはもっと前を向いてここにいる、そんな気がする。
かつて誰かと共に来た岸辺に今はひとりでいる、その岸辺はやっぱりひとりにはひろすぎる。
ちょっと、いやかなりさびしいけど、落ち込んでばかりはいられない。
岸辺を歩いていけば、芽吹きや知らなかった鳥などまた新しい発見がある。
自分の歩みをかえりみつつ、失ったこと、出来なくなったことばかりを数えるのではなく、楽しい事、まだ出来ることを模索していく。
作品のリズムの良さと内容の相克に、いまを生きる澄子さんの様々な思いが溢れている。
その一粒一粒をわたしたちはこころして味わっていきたい。
そういえば先日、現代俳句協会で行われたアンケートにおいて「現代俳句」の代表句として、
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
池田澄子
が堂々最高得点句となった。
このアンケートは現代俳句協会の評議員に限定されたものであり、手続きには課題があるが結果には全く異存はない。
澄子さん、おめでとうございます!
そして、お元気でいてくださいね。