桂米朝と俳句の周辺
👤植田かつじ
2025年11月28日、大阪天満にある寄席天満天神繁昌亭にて、俳句仲間の落語会なる催しが行われた。
寄席囃子の三味線奏者1名、落語家2名と某俳句結社の同人による対談及び句会と落語。
句会といっても、参加者は持ち寄りの1句を提出して選を受けるだけなのだが、繁昌亭の席数は、200余名分、ほぼ満席であったと記憶している。
一方、選者の落語家と、同人の方々合わせて6名、1人1句のみを選ぶという方式で、お題は天満宮か繁昌亭。
私は1か月前から作句に取り組み自信満々の1句を投じたのだが、当然と言うべきか選を受ける事はなく、残念な結果となった。
ただ、同行者の句が五代目桂米團治の選に入ったのは喜ばしいことであった。
ちなみにその句とは、
昼飲みの繁昌亭の神迎え
そして私の句が
白足袋や繁昌亭に火が灯る
いちびって、普段使うことのない切れ字など使ったものの、この結果である。
まあ、それ以前の問題だと思われても仕方ない。
ところで、前述の桂米團治の師匠でもあり実父でもある三代目桂米朝は、落語家として二人目の「重要無形文化財保持者」、いわゆる人間国宝に選出された人物である。
衰退していた上方落語界を、今日の隆盛に導いた最大の功労者としても有名だ。
その語りは上品にして知的、しかし大胆な人物描写によるユーモアたっぷりの芸は見るものを飽きさせない。
私も大好きな落語家で、たくさんの噺を聞かせてもらった。
しかし米朝が、実は俳人としても多くの句を残していたのは、それほど知られていないかもしれない。
ここでは、そんな桂米朝こと八十八(やそはち)の俳句を取り上げて、その魅力を探ってみたい。
八十八の句作のきっかけは東京のやなぎ句会なのだが、もともと正岡子規や与謝蕪村の句集を読んでいたとのことで、既に下地はあったのだと伺い知れる。
なお、ここに取り上げる句は全て、岩波書店発行の『桂米朝句集』による。
パンティはふとんの外に朝寝かな
何ともエロティックな句だ。
逢瀬の後の景だろうか。
読み手の想像がどんどん膨らむ、素通りできない一句。
ふとんを平仮名にしたことで、温かさや優しさを感じる。
小駅に生けしザクロの薄埃り
小さな駅と薄埃りの結びつき、ザクロの実の鮮やかさとの対比が面白い。
孑孑も督促状が来たらしく
水の中を忙しげに沈んだり浮かんだりする孑孑の様子を、人間の家に督促状が来た景とみた。
作者の家や近隣の実際の様子か、それとも落語のネタであるのかもしれない。
落語家らしいユーモアが感じられる。
教材のあまりと百合をいけくれし
何気ない教室の一幕をさらりと俳句にしている。
人物を描くことなく、その人物の優しさが前面に出されている佳句だ。
十年をヒレ酒二杯で埋め去り
長らく会っていなかった友との再会は、二杯のヒレ酒により完全に埋まったのだろう。
季語ヒレ酒が良い。
蓋を取ったときのあの芳しい香りが、昔を思い起こさせて話も弾んでいったと想像させる。
再婚のはなし又消え秋扇
一読して小津安二郎の世界観と見た。
笠智衆と東山千栄子の姿が目に浮かぶ。
そして原節子も。
含みある医者の言葉やなめくじら
持って回った言い方をする医師へのシニカルな答え。
季語なめくじらが効果的。
富山梨売る子の胸のはちきれそう
直接的なエロチシズムは、さすがに現在ならセクハラ案件。
思いついても作るのをためらいそうだが、女性の大きな胸と梨が響き合うことで、梨の瑞々しさが強調されて、とても美味しそうだ。
祇園うら年増ばかりの針供養
京都で針供養といえば嵐山の法輪寺が有名なのだが、祇園のどこかの寺でも催されていたのだろう。
中七年増ばかりのにユーモアのセンスが感じ取れる。
きっと何か別の目的があって行ったのだろうかと。
婚礼の荷が湖畔ゆく揚雲雀
その昔、婚礼家具の運搬といえば、その荷を積んだトラックが仰々しく飾り付けてあったのを思い出した。
青い湖面とも相まって色彩が鮮やかだ。
揚雲雀が花嫁を見送っているかのよう。
そういえば私は、平成に入ってから揚雲雀を見ていない。
伊勢参り木刀買うて戻りけり
思わずなんでやねんと突っ込みたくなるような句。
赤福ちゃうんかい! と追い込みたい。
ユーモアに溢れる一句。
かく言う私も、銀閣寺参道の土産屋で買った木刀がいまだに家にある。
生まれてこのかた京都市在住なのだが。
日陰より日陰へ移る立ち話
この句にもユーモアが見て取れる。
どんだけ長いこと喋ってんねんみたいな、いかにも落語家らしい一句である。
携帯にとりかこまれいる暑さかな
人間国宝に認定されて、記者から取材を受けている景だろうか。
携帯と暑さの取り合わせは見たことがなかった。
意に反して多くの人に囲まれる煩わしさを、暑さの一言で言い表した。
見事。
ボールペン使い切ったりあたたかし
大いに共感。
ボールペンは安価なものだし、すぐに失くしたりインクが出なかったりで、なかなか使い切ることがない。
なので、使い切ったときの軽い喜び、決してやったー! と叫ぶことは無いのだが、そこに季語あたたかし。
これはまさに絶妙と言える。
うちの子でない子がいてる昼寝覚め
落語家の師匠の家である。
多くの弟子たちが出入りしていただろうし、少年時代の米團治の友達も自由に来て遊んでいたに違いない。
上五中七の言い回しが落語家らしい。
知らない子ばかりで、うちの子がいなかったりして。
表札のかわりの名刺空っ風
百円のテレビ切れせせらぎ涼し
初蝶や土佐空港の昼しづか
建仁寺抜けてみようか蝉しぐれ
八十八の俳句は多種多様だ。
写生もあれば比喩、叙情、滑稽、色気までもある。
そして、それらは落語と同様に上質だ。
まるで、絵画や彫刻、宝石や陶磁器までも置いてある博物館のようではないか。
余談だが、俳号の八十八とは米朝の米の字を分けたもの。
あれ?
皆さん、分かってますよって?
米朝が俳句に興味を持ったのは、少年時代。
父親が俳句好きで、家に『一茶俳句集』があったという。
中学生の頃には子規や蕪村の句集を読み、俳句も作っていたらしい。
東京やなぎ句会の初期メンバーではあるが、以前より俳句には慣れ親しんでいたようだ。
次に、その八十八が研鑽を積んだ東京やなぎ句会について少し触れておきたい。
やなぎ句会の結成は1969年1月5日、新宿の鮨屋「銀八」。
九代目入船亭扇橋(前座時代は柳家さん八)と十代目柳家小三治の亭号から名付けられ、後に東京やなぎ句会へと変更された。
当初の参加者は扇橋、小三治、永六輔、大西信行、小沢昭一、矢野誠一、そして桂米朝などなど。
後には加藤武、南伸坊、小林聡美らも加わっている。
会則には、欠席の場合は必ず未婚女性を代理で出席させることや、その句友の女性に手を出したものは即時除名するなど、ユニークなものもあった。
米朝自身は、当初こそ、毎回出席していたようだが、関西在住ということもあって、次第に欠席が多くなっていったらしい。
ただ、未婚の女性を代理として立てたかどうかはわかっていない。
句会のゲストには多くの俳人が参加していた。
富安風生、金子兜太、稲畑汀子、中原道夫、藤田湘子、鷹羽狩行、黒田杏子、黛まどかなど錚々たる顔ぶれである。
しかし、柳家小三治の死去により、当初のメンバーが矢野誠一のみとなったため、自身で2021年10月17日に終結宣言をした。
冒頭に記した天満天神繁昌亭は、大阪で実に半世紀ぶりに復活した常設の寄席。
多くの落語家たちと桂三枝(現六代目桂文枝)の尽力により2006年にお披露目された。
ホールとしては大きくないが、寄席としては十分で、何よりどの席からも舞台が見やすい。
そしてその舞台中央の上部には桂米朝の手による『樂』の一字。
その額は、上方落語界にとって米朝の存在がいかに大きかったかを物語っている。