【2】神話の国 山陰 がふるさと
👤ほなが穂心
6.
次に、商人の町米子とはまた趣の変わった城下町・松江へ。
米子と松江は近くにありながら違う性格の「まち」であるが、そもそも出雲、伯耆、因幡の区分けは後世の支配者たちの都合だったので、その生い立ちは同じかもしれない。
成人して知ったのだが、山陰は所謂「大和・天孫族系」とは異なる民族文化圏であり、大陸文化の影響も多分に受け入れた歴史の地域だった。
その事は古事記にも、出雲風土記でも語られている。
高天原を追放されて出雲の国にやって来た須佐之男命と鉄器文明との出会いであり、先住者との争いに勝ち安定した生活基盤を作った後での、大国主命と兄弟従妹達との争いの物語は、出雲を中心に石見、伯耆、因幡迄の領土の広さをも物語っている。
富の後継者争いに勝ち、大国主命を中心とした政(まつりごと)の安定した出雲、やがてそれを狙う外部勢力との抗争が始まる。
そこには、時の中央権力者が、出雲大社を中心とした『神の国』の力を削ぐため、「天孫族神話」での支配を正当化しようと躍起になった様子が伺われる。
国譲りとその交換に持ち出した出雲大社の格付けの条件である。
平穏な生活に慣れて来ていた出雲族には、戦より安定した生活を選んだことは、美保関の事代主の神の逸話で想像できる。
7.
島根半島を自然の防波堤として良港をもっていたことで、大陸との交流が盛んで、銅器より優れた鉄器を作る技術があっても不思議ではない。
その名残は霊峰大山の裾野に在る妻木晩田(むきばんた)遺跡や、奥出雲の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡などから出土する多くの副葬品、銅鐸や勾玉、銅鏡や銅剣などの数の多さでも証明できる。
八岐大蛇伝説は実は伯耆の国なのではないかとの説もあるほどだ。
伯耆の国と出雲の国は、中国山地では入り組んでおり川の源流域は下流ほど離れてはいない。
勢力の強かった出雲が神話を自分たちの神話にしたとも考えられる。
出雲神話は「たたら製鉄文化」とそれを護るための「黄泉の国神話」だったと考えたい。
前述3.で触れたように、川砂に混じる砂鉄からの製鉄技術は、今もJR安来駅の隣に日立金属安来工場として残っている。
安来節のドジョウ掬い踊りは、砂鉄掬いだったのかも知れない。
地勢から見ると、山陰は中国山地という天然の城壁で山陽と分けられており、因幡と石見を東西の国境とする出雲・伯耆の文化圏形成がなされていたのかもしれない。
奥出雲という松江市から遠い村落に「たたら伝説」として受け継がれてきたおろち退治の神話にまつわる神社がある。
交通の便利なところだけでなく、鉄道利用客の減少で廃線が決まった木次線沿線にも、見た目は貧弱だが、須佐之男命を祀った神社やおろち退治に因んだ神社も多く点在する。
宮崎駿監督の「もののけ姫」の構想に影響を与えた場所であり、時間が取れれば行ってみたい地域ではある。
8.
戦国時代は自国の領土を守るために城を築いたが、この山陰で城として建物が残っているのは平山城の松江城だけ。
かつて尼子経久が当主として周防の大内氏や備中の山名氏と対立していた頃は、安来市広瀬に尼子氏の居城・月山富田城があり、米子市には尼子氏と対立する久米城(米子城)、倉吉市には打吹城、更に鳥取には後に秀吉との壮絶な籠城戦をしたと云われる強大な鳥取城があった。
米子・鳥取は山城であり壮大な石垣にその名残を留めている。
倉吉の打吹城は伯耆の国の第二の城だったが、一国一城という規則のため久米城が残り、打吹城は取り壊され、今は石垣を残すのみとなった。
出雲を支配する松江という城下町にあっても、出雲大社という超有名な門前町を手に入れたいと、良からぬことを企む輩は昔もいたと思う。
出雲大社の富を狙うそうした輩から大社(おおやしろ)を護る城はあったのだろうか?
調べてみると、砦のような山城は結構点在していたようだ。
出雲大社があまりにも有名で、徳川の親藩の松江城の睨みだけでは、神出鬼没の姦族はなかなか取り締まれなかったのだろう。

北堀・塩見縄手の武家屋敷(ヘルン旧居もこの中に)

国宝松江城天守閣と桜

宍道湖大橋と松江城(中央)

城山稲荷大社の狐たち(写真は筆者の友人友定雅紀氏より提供されました)
松江城は全国に12城しか残っていない現存天守の1つ。
現存の天守は江戸時代またはそれ以前に建てられ、壊れることなく現代に姿を残す特別な存在である。
中でも、慶長16年完成の松江城天守は、彦根城、姫路城と並び、近世城郭最盛期を代表する天守として国宝に指定されている。
9.
松江は江戸幕府徳川三百年の親藩として山陰に睨みを利かす要地であった、との自負があり、明治維新の際の混乱時も大きな被害は出なかったようだ。
NHKの朝ドラ「ばけばけ」でも、北堀~塩見縄手界隈に残る武家屋敷が紹介されている。明々庵は茶人として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の代々家老職だった有澤(ありざわ)家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席である。
昭和3年菅田庵(かんでんあん)のある有澤山荘の向月亭(こうげつてい)に隣接した萩の台に移築されたが、建物の傷みが大きくなり昭和31年、今の北堀の赤山に再移築された。
私の松江での生活は小学6年から中学3年まで。
この北堀を通り抜け、北松江付近までバスで通った。
通学する学校は遠かったものの、松平家の茶室の菅田庵が家の近くにあり、茶室を管理しておられた有澤様に親切にして頂き、庭園に入れていただくこともあった。
このエッセーを下記ながら、当時、「明々庵」も有澤山荘の向月亭に隣接していたことを思い出した。
松江の茶道は「表」でも「裏」でもない「不味流」という独自の流儀があり、お茶は畏まって頂くのではなく、ちょっと縁先に腰掛けて飲むお茶でも抹茶が提供されるほど、日常に溶け込んだお茶文化だった。
そうは言っても、菅田庵、明々庵で提供されるお茶は、山荘風の佇まいの藩主好みの庭と共に威厳があり、美しかった。

大橋川最古の松江大橋と擬宝珠

宍道湖の夕景 撮影者:友定雅紀氏
松江という街は有事を想定した曲がり角の多い城下町だったが、城下町特有の狭い路地などは、その後の都市再開発の中で整理され、城から離れた畑に作られた広い道は後に国道として整備された。
私の通った小学校は城近くの大手前の広場にあったが、再開発で移転を余儀なくされた。
移転直後は田んぼの真ん中だった小・中学校も、今では交通の要所となってしまい、通学児童の安全対策が再び議論されている。
旧市街地や掘割は整地され、橋の上から掘割巡りの屋形船の観光客と手を振り合う光景が増えた。
10.
宍道湖から中海への水路・大橋川が松江を二分しているが、南北を繋ぐ松江大橋も当時は2本だったものが、今では4本となり、ご当地ソングに唄われた松江大橋だけはまだ狭い道幅ではあるが、新しい橋は道幅を広げ、国道としての役割を担っている。
昔は橋を挟んで城のある北側は武士の街、橋の南側は町人や商人の街だったようだ。
橋の北側には母衣町、殿町、茶町と言った町名が 南側には寺町、天神町、魚町,人参方、雑賀町などと言う町名が残っていた。
山陰で唯一残っている電鉄会社の一畑電車が宍道湖の北湖岸を走り出雲大社迄、一方でJR山陰線は松江駅から宍道湖の南湖岸を走り出雲市・出雲大社へと、うまく宍道湖を挟んで住み分けできている。
松江城や島根県庁、松江市役所は大橋川の北の方にあり、戦国時代の防御としては松江大橋を落としてしまえば、攻めてくる敵は宍道湖を渡るしか手段はなかった。
その意味では、松江は、攻めにくく守り易い地だったのだろうか?

宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島
宍道湖は白鳥や鴨・鴈などの渡り鳥の楽園。
11.
町の成り立ちの違い、近いようで遠いと感じるのは言葉、方言。出雲地方は藩主が移封されてきた東北地方の言葉に近い、所謂「ズーズー弁」が出雲弁の代名詞とも言われた。
戦国時代、他国からの間者を見分ける手段として方言は有効な手段、その意味で共通語に無理に直さなかったのだろうか?
方言を話せない幼い転校生は奇異の目で見られていたのかも知れないが、クラブ活動に参加し遊ぶうちに、方言を話しまた聞き取れるようになった。
出雲の人達は、余所者に対しての警戒感は強いと言われてきたが、それは言葉のコンプレックスから来たのかもしれない。
お年寄りは話す時も口を大きく開けないため、「都会人」から「えっ、何?」と聞き返えされるのが嫌で、黙ってしまう傾向があった。
打ち解ければ本当に親身になってくれる人たちだが、そういう所作が人見知りするように見えたのかも知れない。
12.
山陰は温泉の宝庫、昔習った「白山火山帯」に沿って山陰には温泉が湧きだしている。
小学生当時は日本列島には七つの火山帯があり、温泉はその火山帯に沿って湧きだしていると教えられた。
現在は日本列島を取り巻くプレート上で、東日本火山帯と西日本火山帯に分けられ、日本各地の温泉もその上で分類されているらしい。
山陰には鳥取の岩見温泉、羽合・東郷・三朝・関金、皆生温泉、島根へ移り鷺の湯・玉造温泉・温泉津、山口の萩・湯田温泉と点在しており、海山の恵み豊かな食材と泉質の多種多様な温泉に浸れる楽しみな山陰の旅は魅力的です。
出雲神話と共にこの地を訪れる神話好きの人のいる一方、若い人にとって山陰はコナンをはじめとするアニメの聖地であり、妖怪ブームの生きている町でもある。
八雲立つ宍道湖に神秘的な景を感じ、新たに世界的な庭園美術館・足立美術館を訪れる人も増えた。
ふるさとについて執筆する中で、観光ガイドブックに頼らない、自分だけのふるさとを大切にしたいと思うようになった。
完