現代俳句2026年01月号掲載     撮影者:小林貞次

「わたしの一句」鑑賞
👤並木邑人

2026年の年が明けた。
ひとまずは平穏の日々だ。
「わたしの一句」には現代俳句協会の旗手宇多喜代子の作品。
しばし陶然として写真と一句を眺める。
遠景に厳然として富士の山容、左から陽光が差し込み、前景の水面は陽に照らされて僅かに波立っている。
水鳥が戯れ、視界の中の総ての命を富士がその掌の中に遊ばせているかの如きである。

人は外に向かって歩き出す時、顔になにがしかの化粧を施し、髭を剃り髪を整え、後ろ指指されない程度の着衣に身を包み、そして歩き出す。
俳句の発表も同様なのではないかと思う。
少なくとも己がアイデンティティを保つように、適度に化粧を整えて発表する。
ところがどうだ。
宇多さんの一句は朝起きていきなり写真を見せられ、ふと感じたそのままを瞬間凍結して見事に一句を成就させた。

12月の初めに「現代俳句カレンダー2025」(東京四季出版)をめくると、宇多さんの

一二月一日も雨八日も雨

の色紙が飛び込んで来た。
何これで俳句になるのか、と狐につままれたような感覚に捕らわれたが、同様のことが再現されたのである。

宇多喜代子と言えば、実景であれ心象であれ、さまざまな命の襞から仄見える軋み、心の声、肉体感、アイロニー、屈折感をソフトランディングさせる名手と認識していただけに、素のままの宇多喜代子を見たような意外性に包まれてしまったのである。

先ごろ完結した『昭和俳句作品年表』全3巻を繙くと、戦後篇の2巻に宇多さんの句が12句収まっている。

大やんま腹すれすれの飢餓土塊
            (昭和38年)
魂も乳房も秋は腕の中
            (昭和56年)
ぬれ髪を振りては肉を叩く音
            (昭和58年)
真二つに折れて息する秋の蛇
            (昭和63年)

一方、同じく11月に刊行された『現代俳句年鑑26』を眺めると、宇多さんの俳句がかなり簡明になってきたことが分かる。

蛙の背てらと光りぬ雨催
秋霜や窓辺は人の寄り易く

これらを全体としてどのように把握したらいいのだろうか。
修飾やレトリックの化粧をできるだけ洗い流し、削って削って最小限の言語で表現するのが俳句であるとすれば、その正当を全うしたことになる。

一方、絵画でも写真でも文芸でも、長い年月の間に描かれ尽くした富士を新たな富士像として表現するのは至難の技であろう。
それでも富士は日々新たな貌を覗かせ、私たちを挑発して来る。
これに対して宇多さんは、富士を形容する言葉を喉に呑み込み、朝の冷涼な時間を提示するのみで淡々と詠んでいる。
富士に美辞麗句を着せてみたところで、富士を十全に表現したことにはならない。
逆に富士を遠景に退け、清冽な空気感の中に水鳥が一羽二羽遊んでいることに焦点を当てることで、新たな富士像を描き出したのである。

「高く心を悟りて俗に帰る」芭蕉晩年の軽みの理念に迫った、新年に相応しい乾坤の一句となった。