第45回現代俳句評論賞 選考委員奨励作
受賞のことば
👤蒋草馬
なぜあなたは黙ったままなのか、といわれる。なぜ僕に聞いたらそれがわかると思うのか、と思う。しかしそのような沈黙への不安を駆り立てたのは、目の前の見えている世界に、見えているのに見えていない、とても重要なことが実はあるのではないかという恐怖であろう。俳句とはそのような恐怖の世界であり、とすればやはり僕たちは俳句について黙るほかない。
では批評をどうしたら良いのか。もし批評が饒舌に重大なことを語ることであるならば、俳句は実に反批評的な文芸である。そう。俳句は、つまらない。俳句のことをよく知らない知人に俳句を見せたら必ず言われることのひとつに、「これはどういう意味なのか」という質問があることはあなたもよく知っているはずである。この、見たままではただのっぺりとしていて(シュルレアリスムや無意味さ、という反-意味的な活動にも内包されそうもない)何の意味もなさげな言葉に、なにか素晴らしい「真意」さえあれば、と必死な形相で願っているあなたの知人に、あなたは残酷な事実を告げなければならない。意味なんてないよ、と。では句集評であればどうか。あるいは、作家論であれば。そのように期待を寄せる人もいるだろう。その期待を抱いてさて批評の仕事に取り組もうと思う人はすぐに絶望するだろう。何度理論を組み立てても、組み立てたそばから俳句は逃げ出していく。むしろ、句が多ければ多いほど、体系化・制度化あるいはメタファーの抽象といった批評的/文学的読解がことごとく不可能であることにすぐに気づくはずだ。申し訳程度に、あなたは無理やり数句抜き出して、共通項を述べてみたり、体系化をやめて、ただ技巧的に褒めたたえてみる。このように俳句の批評とは絶望である。
でも、もし批評が黙っていることだったらどうだろうか。だから、蓮實重彦『表層批評宣言』(2005,筑摩書房)は重要な指摘をいくつも僕たちに見せてくれる(最も、彼の主張の重要な部分(例えば時間論の立場について)のいくつかで、僕は彼と根本的な相違を感じでいるが)。
「平坦で、単調で、運動が廃棄されているかにみえる表面としての『紙』が、あるいは『壁』が『批評』の契機として重視されねばならぬ……」
「つまり『批評』とは、(中略)絶対的な畸形性を前にした不条理な苛立ち、欠語をむなしく宙に放出するしかない無力感、そしてその苛立ちと無力感とを外気にさらすことでみずからの崩壊をうけいれながら、積極的に他者の生成に加担してしまう自分自身への深い驚きだ」
僕たちは徹底的に黙る。俳句という表層であそび、決定的なことについては沈黙を維持し続けるのだ。文学に隷従する俳句はもうごめんである。むしろ文学を表層へと引きづりだすのだ。その意味での耕し。もし今更第二芸術論に応答するとしたら僕はこのように答える。
プロフィール
(生年・句歴)
2024年6月 新京大俳句会立ち上げ