清記ミスという創作
👤飯田冬眞

コロナが猛威を振るった2020年以降、私が参加する句会は対面が減り、メールや「夏雲システム」を用いた非対面句会が主流となった。
だが2024年以降、徐々に対面句会が戻りつつあり、現在は5年前とほぼ同じ割合になっている。

非対面句会とは、メール、あるいはパソコンやスマートフォンといったデバイスを介して俳句を投稿し、システム上で清記された一覧から選句を行う形式を指す。

一方、対面句会とは、読んで字のごとく対面で行う句会のことだ。
自筆の短冊を提出し、それを参加者がランダムに手分けして清記用紙に転記(清記)し、回覧された中から選句を行う。

最近、この対面句会で立て続けに「清記ミス」が生じた。
短冊を清記用紙に転記する際に、誤記が生じたのである。

たましいの寝転んでゐる枯野かな

清記用紙の中に、自作の句を見つけた。
おや、と思う。
自分の句ではあるが、仮名遣いが違うのだ。

私は、俳句を書く際は常に旧仮名遣いを用いている。
したがって、「たましい」は「たましひ」と表記されるべきであった。
つまり、一句の中に現代仮名遣いと旧仮名遣いが混在してしまっていたのである。

当然、合評ではこの「併用」が議論の的となった。興味深かったのは、これを単なるミスと捉える評者が少なく、むしろ「作者に何らかの意図がある」と善意に解釈してくれた方が多かったことだ。

「現在と過去が共に寝転んでいる枯野という、一種のアジール(聖域)を描いた句ではないか」

そんな深読みの意見が出るに及んで、作者としてはいたたまれなくなってしまった。

清記者に短冊を確認してもらい、転記ミスが判明した。
すると、それまで高く評価していた方が一転、「それならこの句はつまらない」とおっしゃったのには驚いた。
なるほど、表現の「必然性」が崩れると価値も霧散するのか、と目から鱗が落ちる思いだった。

しばらくして、別の超結社句会で、またしても清記ミスが起きた。

歳晩のオカメインコを探します

私が書いたのは「歳晩のオカメインコを探してます」なのだが、清記者が「て」を書き漏らしたようだった。
というのも「探してます」だと字余りの六音になり、定型が崩れてしまうからで、清記者が無意識の内に添削してくれたのだろう。

これは当日、吟行先の焼鳥屋で見かけた「オカメインコを探しています」という貼り紙をそのまま詠んだ、いわば写生(スナップ)のような句である。
焼鳥屋でオカメインコの捜索願が出されているという状況が個人的に可笑しく、独りよがりな句に過ぎなかった。

だが、「歳晩の」「探します」という限定的な強い意志が面白いと、句会では話題になった。
前回の一件が頭をよぎり、私は清記ミスを伏せたまま名乗り出てみた。
だがやはり良心の呵責に耐えられず、結局、短冊の記述を確認して正解(ミス)を告げると、やはり場はしらけてしまった。

不可抗力によって俳句の評価が乱高下する。
意図せぬ「誤記」が作品を飛躍させることもある。
それもまた、句会の醍醐味というものなのかもしれない。

飯田冬眞(いいだ とうま)
東京都練馬区在住
「磁石」編集長 「豈」「麒麟」同人