―感性の硬直に逆らう―
俳誌『成層圏』(金子兜太の場合)
👤石橋いろり

父の書斎を整理してでてきたのが、『文藝春秋特別版 11月臨時増刊号 ― 1冊の本が人生を変える』という平成17年発行のものだった。大特集として「私を変えた1冊、支えた1冊」。多岐にわたる百人の著名人の見開き2ページのエッセーが組まれていた。多彩な方たちの1冊はそれぞれに、興味深く、整理の手が止まり、読み耽ってしまった。そして、目に飛び込んできたのが、金子兜太「―感性の硬直に逆らう ―俳誌『成層』」。人生を変える1冊として、金子兜太は俳誌『成層圏』を選んでいたのだった。『成層圏』は俳誌であって、1冊の本ではない。しかしながら、この『成層圏』こそが、青年期の兜太にとって「私を変えた1冊、支えた1冊」に相応する読み物だったということなのだ。『成層圏』について兜太の解説を『文藝春秋』掲載の文からそのまま引用すると、

『成層圏』は昭和12年4月創刊、同16年5月、通巻15号で終刊した。在福岡の俳人竹下しづの女の長男龍骨の提唱によって結成された高等学校俳句連盟の機関誌として発刊されたもので、初めは隔月刊、途中から季刊となった。

兜太は水戸高校の1年先輩だった出澤珊太郎の勧めで『成層圏』の第6号から廃刊になる第15号まで参加していた。同人制だったので、出澤はじめ自由に自選の句を発表していた。当時、出澤珊太郎の勧めるものを砂地に水を吸収するが如く、兜太は新しい俳句の世界に面白いように嵌っていった。兜太が『成層圏』に嵌った理由として、推察するなら:

①  俳句の先輩である出澤珊太郎と切磋琢磨できる満足感

②  竹下しづの女、そして中村草田男の選を受けられること

③  竹下しづの女の強烈なカリスマ性

④  自由に句作することの面白さ、 認められることの快感

⑤  同世代の日本各地の優秀な人たちからの刺激・相互評など

兜太が俳句の世界に邁進するきっかけの1つとなったのが、近代俳句の先駆けと言われている俳人竹下しづの女の句、「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」(昭和13年作)だ。『鑑賞女性俳句の世界 第一巻』の付録(平成20年)には、

「「女人高邁」の句を見て、おどろいた。『ホトトギス』に加藤楸邨や中村草田男の掲載されることが多かったが、この作品ほどのパンチは受けなかった。 どんな人か、とおもい、虚子主宰「ホトトギス」の巻頭に推されたなかの、

短夜や乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてちまおか)」を知り、後、「汗臭き鈍の男の群に伍す

を知る。端的に、男尊女卑の深い我が国の、しかも戦時の思想風土のなかで、果敢に(いや平然との感)こうした俳句をつくる女性におもいをいたし、敬意を覚えた次第だった。」 

女性特有の台所俳句(厨俳句)の枠に収まらない、しづの女の句に、兜太は刮目し、しづの女のリードする『成層圏』という俳句誌に関わることとなった。

兜太と『成層圏』のしづの女との出会い

いつ金子兜太は竹下しづの女に出会ったのか。直接会ったことはなかった。

昭和14年秋、福岡のしづの女が上京する予定があったのだが、中耳炎に罹患したことで中止になったこともあった。出沢柵太郎との出会いが、大きな起点となった。珊太郎に誘われ、昭和13年の第三回水高俳句会でデビューし、あの名句「白梅や老子無心の旅に住む」を詠んだ。その珊太郎は、全国で高校生俳句聯盟という同じ世代の竹下龍骨(しづの女の長男)の俳誌『成層圏』に第5号(昭和13年1月号)から入会・掲載されていた。彼の薦めにより兜太も入会。次の第6号(昭和13年4月)に正式に入会し作句が披露されていた。

その時の兜太の自己紹介文。

「父が「馬酔木」に投稿してゐたので、自分も此れに興味を持ち専ら鑑賞のみに耽けつてゐました。作句を始めたのはつい最近です。現壇では、秋櫻子、誓子、林火の諸氏が好きです。自分もどうかして主觀のにぢみ出た句を作りたいと苦心してゐますがその時満足した句が案外浅薄な客観句であつた
りして常に失望してゐます。・・・」

消息欄には、金子兜太君 水戸高校文科新會員として入會 と出ていた。『成層圏』の「成層圏作品」には、出沢暁水(珊太)と隣合わせて句が掲載されている。

ひたむきに往く爆機なり夕あかね
           水戸 出沢曉水
學童のざわめき過ぎて麥萌えぬ
              金子兜太

『成層圏』は、創刊当初、俳句指導・監修をしづの女がひとりで担っていた。創刊当初から中村草田男に指導を依頼し了解を得ていたのだ。創刊号の編集後記の部分に第2號では「草田男先生選評」と広告が打たれている。しかしながら、草田男の都合もあり、全15号の中、9号までがしづの女、10号から中村草田男が加わることになる。そうなる経緯については、しづの女の強い覚悟と会員たちへの深い母性のような愛情が絡まり、草田男登場のストーリーが生まれたのであるが、長くなるのでここでは割愛する。

創刊号の冒頭には、龍骨としづの女の揺るぎない覚悟のマニュフェストが。

刊行の辞  詩は青年の特権!吾々は、斯かる詩を思ふ存分既成老朽俳壇にホルモンとして注射したいのだ。吾々は學生の叡知と、純粋なる感激との堝として、成層圏を全高校生に捧げる。吾々は、“青年よ! 明朗たれ、飽くまで理智的たれ”。 而して、“成層圏の一員として、其の完成、更に俳壇の掃海艇たるの任務に奮闘せよ”と叫ぶ。

『成層圏』の構成として、成層圏作品(句数無制限)、宇宙線(論文)、放射線(俳文・随筆)、無風帯(短見)雑詠(しづの女選10句以内)となっていた。その中でしづの女は俳句だけでなく、俳論、小説にも情熱を注いでいた。しづの女だけでなく、学生たちにも自由闊達な俳論や随筆を求めた。昭和12年6月 久保一朗(創刊時の発行者・高校學生俳句聯盟會代表)は会員に向けて、

成層圏作品に關する會員諸君の相互批評を寄稿して下さい。相互に腹蔵なき意見を闘すことが如何に各自の向上道であるかは言を俟たぬことであります。愉快に闘論して親交を温めやうではありませんか。

しづの女の俳論として『成層圏』に掲載されていたのは:

成層圏作家のテムペラメント(昭和13年1月、7月)、学生俳句聯盟は存在している(昭和13年10月)、俳句は環境諷詠詩である/不安を糧とせよ(昭和14年6月)、新蝶古雁(昭和12年6月、10月、昭和13年4月、昭和14年2月)。

吾々の俳句をしっかり守らねばならぬ。たとひ吾々の詩性がこの17音韻の俳句に盛るべく溢れやうとする事が屡々生じようとも、吾々は楽しんでこの束縛に屈従するの喜びを失ってはならぬ。又、季の問題にしても、悪いのは季をマンネリズム化した平俗俳人の罪であって「季」そのものは赫として依然、俳句の骨格の椅子を奪はれることはない。

しづの女の文体は、漢詩に精通していただけあり、難解な漢字を駆使し、持って回った言い回しなど、男勝りな印象を受ける。『成層圏』に連載のしづの女の俳論 「新蝶古雁」は四字熟語ではなく、分かり易いしづの女の造語のよう。「新蝶古雁」や「テンペラメント」より幾つか抜き出してみると、

  • 「季」を鉄則としたものは俳句のみ。西欧の14行詩、和歌、川柳、漢詩、長歌にはない。
  • 「季」と「歳時記」の混淆を是正せよ。「季」自然の季で絶対のもの「歳時記」は人為的なもの
  • 正統俳句は、外的形式を守る
  • 「季」を俳句の骨格とも重要視した感覚。自由律俳句を否定。
  • 吾々が実際句作の態度として、この「季」を他人の概念や古人の観念より一旦開放し普通の詩語に還元して、改めて自己の「季」としての季語として活用するの要諦を忘れさえしなければ。
  • 俳句の内容は広義には「人生」そのものであり、俳句作品の価値はその人生をいかに観じ、いかに取り扱ったかの形式にて決まる。
  • 如何に俳句に純粋詩論を適用せうとも、如何に俳句を詩として純化昇華せしめやうとも主我的精神創造的意欲を有たぬ俳句は結局國家的にも個人的にも大した價値はない。
  • 俳句は遍照(へんじょう)無碍(むげ)、自由闊達に主義の人生を詠うべき。
  • 廃頽した天保・明治の低俗なる発句から正岡子規は俳句を新しい文学的なものに育てた。だが、まだそれは似而発句にほかならない。蕪村より前の山崎宗鑑の俳句まで遡るべきだ。荒魂(あらみたま)という意志的主知的要素 と 和魂(わこん)という在来の和歌の抒情性の両方が必要。
  • 自由と知性を教養する學徒の理想的集團たる所以である。
  • 俳句に知性と思想とを導入しようとした。

自選句制については、昭和13年7月号のしづの女の「成層圏作家のテムぺラメント」に、縷々述べられていた。

成層圏作家は悉くと稱していい位に、皆、優れたテンペラメントを有ってゐる。
作品は尚ほ成長の道程に上ったばかりでわかいけれど、其氣稟の高い事を疑ふ者はあるまい。この各自の氣稟を少しも歪曲する事なく各自の個性に従って發表し研鑽する成層圏作品が自選句制を標榜せるのも故があるのである。選者に依らず自選を以て世に問ふ自己の作品に對して作者は始めから終りまで其責任を負ふべき道徳がある。この覺悟を有たぬ程ならば最初から勇敢に自選作品を發表することを止め、去って、選者の顰笑を伺へば足らう。

今、俳誌に投句する際、このような覚悟を持って、投句している人がいるのだろうか。いやいるだろうが、私なぞ毎月投句するのに足が竦んでしまう。

閑話休題、昭和14年2月号の「發光點」に久保一朗の項目が笑えた。

瀬音背に寒林過ぎる風をみる
           水高 金子兜太
猛勉強中
           専修 久保一朗

とあった。

この手があったのかと感心。また、それを受け入れている成層圏も懐が深い。
『成層圏』では、会員相互の批評により高め合うことが重要とされていた。相互批評はA、B組に分かれて輪評した。昭和14年2月はA組に(兜太、小川公彦、永井皐太郎)が。兜太の12句に対して、「小川評」として、

台風過夕餉の汁を熱く啜る
             兜太

劈頭 此の句に非情な親しみを感じる。(小川評)

地震の後月明いよよきはやかに
             兜太

動後静。雨句共通する感情を含んでゐると思ふが、後の句に魅力を感じない。雷に暖かい夕餉と冷い月明との差のみではあるまい。地震の後に見えるものは、偉大なる現實に對する表現不足の説明である。私は颱風の後に見出される親しみ深い説明を好む。(小川評)ここでは、「永井評」は割愛する。

昭和15年10月の兜太の句評は、開口一番

「小川、岡部、田中(邸)」三君の作品は失敗である。・・・略・・・岡部君のは詩の一句に過ぎず、小川君は内部燃焼の不足あり、田中君のは「きびきびして愉快」などと云ってゐる限り、到底深淵など豫想出来ない。

また、兜太句に対しても、とても辛辣な批評もあった。相互批評は誠に歯に衣着せぬ自由奔放な物言いだった。

兜太はしづの女の地に足のついた俳論や自由に開かれた『成層圏』の中にいて、戦争にひた走る鬱屈した時代に生きながら、自己の解放がなされたのだろう。

『文藝春秋』の表題には、「感性の硬直に逆らう ―俳誌「成層圏」」とあった。

兜太はそのことについて・・・。感性こそ本物であって、論理を得たときは嘘になるという思いに繋がっていたから、思想は生活の中で肉体化されたとき本物になるとも思っていた。したがって思想を直ぐ体系化し、定式化して押し付けてくる風潮には感性の柔軟さが欠けている、と苛立っていた。国家思想を宣伝し、軍国主義などという図式に随って物を考えさせられる時代の硬直が鬱陶しかったのだ。

戦時という暗夜なるモノトーンの時代、兜太が選びとったのが、『成層圏』の中に熱く息づいている「自由」という世界だったのだろう。「自由」であるということ、人間としての尊厳を持つこと。それこそがその後の兜太の生き方を決定づけたと思えるのである。今更ながら、『俳諧自由』という言葉が入魂されていたのが『成層圏』ではなかろうか。

<了>