どんぐりの背比べはいつまで続く
👤江里昭彦

これから、たぶん散漫な印象を与えるであろう文章を書くことになる。

とはいえ、私の問題意識ははっきりしている。
それは、俳句の分野でのメディア状況の現在地がどのようなものかを、探ろうというものである。
論述が散漫な印象を与える結果に終わりそうなのは、俳句メディアの主流となったインターネットの領域の動向が混沌としており、それゆえ未来図も視界不良となるから、と言っておこう。


昔は違った。
「昔」とは、ここでは二〇世紀を指す。
日本におけるインターネット元年は1995年だ。
この年から急に電子空間での言葉の流通が拡大した。
よって、二〇世紀はおおむね、インターネットが存在しなかった時代とみなして差し支えない。

「昔」の俳句メディアは、ほぼ紙媒体の世界である。
そこでは判然たる三層構造が成立していた。
下層を形成するのは結社誌と同人誌である。
中層を占めるのが俳句商業誌(俳句総合誌という呼称がよく使われる)だ。
角川の「俳句」、かつて高柳重信が編集を仕切っていた「俳句研究」などを指す。
そして上層に全国紙がのっかかって睥睨している。
これが三層構造である。

下層と中層の違いについて、かつて筆者はこう説明したことがある。

俳句総合誌が結社誌・同人誌に優越する強みはなにか。それは「月刊誌を全国的な販売網によって万単位の読者に届けることができる」からだ。同じことを結社か同人組織が試みたら、たちまち息がきれてヘトヘトになるに決まっている。

結社の中には「ホトトギス」のように万単位の会員を擁するところもあるけれど、それは稀なる例外。
たいてい数人から二千人の範囲に会員数が収まる結社や同人組織は、どうあがいても俳句商業誌に太刀打ちできない。

この<数の力>によって、朝日・毎日などの全国紙は、俳句商業誌をらくらく凌駕する。
中層と上層とでは、威勢と影響力において子どもと大人ほどの格差がある。

そうすると、「昔」の俳人たちの夢と野望は、以下のようになる。

――まず、下層の結社誌・同人誌で頑張ろう。
そこで頭角を現せば、中層の俳句総合誌の目にとまるだろう。
そうして常連執筆者の扱いをうけ、著名俳人とみなされれば、全国紙からお呼びがかかるだろう。
否、必ず目にとまりたい。
執筆依頼、紹介記事、インタビューによって自分の名を数百万の読者に知ってもらいたい。
ついに全国紙の俳句欄の選者に抜擢されたら、全俳壇が私を崇めるだろう――これが「昔」の俳句出世双六の図柄であった。
笑ってはいけない。
三層構造は、こうした明確な人生目標を俳人たちに与えていたとも言えるのである。


全国紙がかつて有した影響力がいかに甚大であったか、一つの逸話を紹介しよう。
それは俳人島津亮に実際に起こったことである。

1980年代の関西に戦後俳句史研究会という小グループがあった。
大本義幸や田中三津矢らがたちあげたもの。
ある例会で島津亮氏を招いた。
その当時もはや「過去の人」扱いされていた島津氏であるけれど、前衛俳句の旗手であった全盛期について、興味深い逸話を披露してくださった。
「夜盗派」という貧相な同人誌の一員にすぎなかった氏が、一躍「全国区」の俳人となったのは、朝日新聞の記事がきっかけである。

1959年10月、朝日新聞は「前衛を探る」と題したシリーズ企画で、映画・演劇・美術などに加え、詩・短歌など文芸の分野でも、有望な人材を紹介していた。
俳句では、金子兜太を加藤楸邨が、堀葦男を山口誓子が紹介した。
注意したいのは、新聞に文章を書いたのは山口誓子であり、論評の対象が堀葦男であることだ。
しかも誓子は、堀を否定と不同意の文脈で語ったのである。
にもかかわらず「天下の朝日」で紹介されたというので、堀葦男は一挙に著名俳人となり――そのあおりと言おうか、余波と言おうか――関西前衛俳句の一翼を担っていた島津亮までもが脚光を浴びたのである。
「一流の人物と交際させてもらったね」しみじみとした氏の述懐が、いまだに耳に残っている。
この人にも「得意の季節」があったのだと、そう印象づける述懐が。


「前衛を探る」と題したシリーズ企画は、単なる紹介記事にとどまらなかった。
それはジャンルを超えて前衛派の交流を促すことにもなった。
そうした動きの輝かしい結実のひとつが、1964年の「フェスティバル律」である。
この催しは、深作光貞を中核とする歌人たちが、他ジャンルの芸術家らと協同作業として取り組んだ野心的な舞台である。
「定型詩を基調とした詩とリズムの祭典として、演劇・映画・写真・美術・音楽・思想」などの人材が合流したと、冨士田元彦が記している(『冨士田元彦短歌論集』1979年)。
6月7日、会場の東京草月会館の客席には、多くの著名歌人はもとより、三島由紀夫、澁澤龍彦、黛敏郎、詩人の関根弘、映画監督の山田洋次・野村芳太郎・勅使河原宏らの姿も見られた。

耳に甦る島津亮の述懐「一流の人物と交際させてもらったね」――氏は具体名をあげなかったけれど、「一流の俳人」とは言わず「一流の人物」と語ったからには、かかる他ジャンルの前衛派と接触し交際し、刺激とエネルギーを享受したのではあるまいか。


こうしためざましい動きとうねりをつくりだした「天下の朝日」の現状は、いかなるものか。
現代日本を代表する知性のひとり、内田樹の発言を紹介しておこう(白井聡との対談『新しい戦前』2023年)。

僕は2011年から13年にかけて二年間、朝日新聞の紙面審議委員を務めましたが、当時の発行部数は公称800万部でした。その時でもすでに年間五万部ずつの減と報告されていました。「年間五万部減って、結構深刻な数字じゃないですか」と委員会で言ったことがあるんですが、鼻先で笑われました。「内田先生、一年で五万部というのは、800万部がゼロになるまで160年かかる計算ですよ」って。今、朝日新聞は400万部を切りましたね。十年間で部数が半減したわけです。
新聞って、世の中の動きを察知して分析するのが本務でしょ。自分の本業であるメディアの現状についてこれだけ予測を間違える新聞記者たちが、それ以外の領域について適切な現状分析や未来予測ができるという推論に僕は与さない。

内田樹のこの指摘と嘲笑に、私も同意しよう。
部数半減といっても、なお四百万の部数は(結社誌・同人誌と比較すると)強大な影響力である。
病状が深刻なのはそこではなく、新聞社が「時代を見通す力」を失いつつあることである。
内田発言は、全国紙の劣化と没落の核心を抉っている。

「昔」の俳人たちは、なぜ、新聞社の目にとまりたいとうずうずしていたのか。
その理由は、新聞社には本物の目利きが大勢いたからだ。
「世の中の動きを察知して分析する」洞察力、それに基づく企画力と判定力を具えた目利きが確かにいたからだ。
現今の全国紙は、羅針盤を欠いたまま航海をつづける船に似ている。


中層の俳句商業誌にも深刻な問題がある。
それは<格づけ機関>としての機能の弱まりだ。
キーワードがでてきたので、説明として、以前書いた筆者の文章から引用しよう。

角川「俳句」と高柳重信編集の「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである

それゆえ俳人たちは、競って「俳句」あるいは「俳句研究」を購読し、掲載された作品や論考から学ぼうとした。

しかし、それは昔日の姿、いにしえの習慣である。
インターネットの勢いに押されて部数を減らしている俳句商業誌は、読者が逃げないよう、読者に迎合することに汲々としており、進むべき俳句の道を明示・教導しようという見識も覇気も投げだしている。


以上を踏まえて筆者の現状診断を述べると、俳句の分野でもインターネットが主流となったけれど、三層構造は傾きつつも、なお存続している、ということになる。
混沌とした過渡期の様相だと言わざるをえない。

インターネット領域の最大の問題は、サイトのほとんどが同人誌の置き換えの次元にとどまっており、かつて中層が担った<格づけ機関>が見当たらないことである。

インターネットは、個人であっても、安いコスト(資金・時間・労力)でもって言葉を全国の読者へ向けて発信することを可能にした。
これは巨大な進歩である。

筆者の印象では、俳句のサイトが急増したのは2010年あたりだが、それ以降、かつてなら同人誌の姿をとった活動がサイトに置き換えられ、活発な発信行為が続けられてきた。
だが、みんな発信にのみ熱心であり、作品や論考を評価・判定・序列化する営みは貧弱である。
それでは俳人の見識は育たないし、成熟もおぼつかない。
どんぐりの背比べが十数年も続いている。

端的に言って、インターネット領域に欠けているのは<格づけ機関>である。
昔なら角川書店や朝日新聞のように、資本力がなければ担えなかったそれを、電子空間では、見識と才覚、および無報酬でも続けようとする熱意と使命感、この四つの要件を具える個人あるいは小グループなら、立ちあげることが可能だろう。
なぜ、そこに気づかないのか。
あのサイトから寄稿依頼が来たら、俳人として一人前だ、そう評価されるサイトが、なぜ創設されないのだろう。
どんぐりの背比べを延々と続けながら、俳人は年をとっていくつもりなのだろうか。