第45回現代俳句評論賞 選考委員奨励作
鈴懸の人
~埋もれた俳人 出澤珊太郎~
👤齊藤しじみ
第1章 序論
「誰にでも、この人には敵わないという人物がいるものだが、出澤珊太郎という人は私にとってはその一人だった。いや、おおぜいの人がそうだったのではないか。(中略)私が俳句をつくるようになったのも、この人の魅力の故であって、出澤さんのあとを付いてまわり、いろいろのことを教えてもらった」
これは昭和60年に亡くなった出澤珊太郎の遺句集(①)に寄せた金子兜太の序文の一節である。兜太は旧制高校で一学年上の先輩の珊太郎と出会わなければ俳人の人生を歩むことはなかったとしばしば語っていた。
珊太郎は戦後に俳句創作の中断期間が長く俳壇にその名を残すことはなかったが、戦前の学生時代は早熟な才能と旺盛な行動力で著名な俳人からも注目されていた。晩年は俳句に賭けた若き日の情熱を再燃させるように仲間を募って俳誌を発行し続けた。兜太が敬愛してやまなかった珊太郎という埋もれた俳人を論じたい。
第2章 珊太郎の生い立ち
大正6年生まれの珊太郎は戦前に実業家として知られた星一(明治6年~昭和26年)の非嫡出子だった。福島県出身の星はアメリカの大学を卒業、帰国して製薬会社を創業、薬科大学を創立、代議士にもなった立志伝中の人物である。長男は作家の星新一(大正15年~平成9年)で、珊太郎はその9歳上の異母兄にあたる。戸籍上、長野県の出澤姓の夫婦の長男だった珊太郎は東京の医師の家で幼少時から育てられた。両家と星一との関係は今も謎のままだが、珊太郎にとっては実母がどこの誰だったのか一生わからなかったという数奇な出自が俳句にも影を落とすことになった。
昭和11年に自宅にも近かった名門私立の麻布中学を卒業した珊太郎は旧制の水戸高校(以下・水戸高校)に入学した。旧制の高校生は選り好みをしない限りはどこかの帝国大学に入学できたエリートであり、3年間の高校生活を謳歌できた。珊太郎は当時の高校生の間に浸透していた「教養主義」の風潮に染まり、学業優先を否定して、授業そっちのけで読書三昧の生活を送っていた。そうした中で俳句に興味を持ち、寝る時にも枕元に紙と鉛筆を置いて頭に浮かんでくる俳句を書き留めていたという。
第3 水戸高校俳句会
一人で俳句を作っていた珊太郎は2年生の秋に学内に俳句仲間を求めて教授らの協力を得て、昭和12年11月に初めての句会を開いた。水戸高校俳句会の誕生である。出席者は学生7人、教職員5人のあわせて12人。その一人の教授は自著(②)で「珊太郎が俳句会の実際の設立者」と記している。その初回の句会での珊太郎の句は次の6句である。
霧過ぎてすずかけの実の逞しき
路地忙し童ら秋日をひさに浴び
鳶鳴くや一望の刈田月に照らふ
雑踏や夜霧の底の書肆ひろし
秋堤あかねの雲を童ら呼ぶ
栗噛んで逍遥に思ふこと遠し
冒頭の句「すずかけ」は漢字で「鈴懸」とも書き、街並木によくある「プラタナス」で、学生寮のまわりに植えられていた。珊太郎は夏に緑陰、冬に葉を落として日差しを与えてくれる「鈴懸」に心惹かれていたという。
珊太郎の強引な勧誘で昭和13年1月の句会から参加した1年生の兜太は珊太郎の文才を次のように賞賛していた。
「学生相手のいろいろな雑誌や新聞が、当時もたくさんありました。それに彼は小説を出し、詩を書き、短歌を書き、俳句を書き、川柳も書く。(中略)自由自在に書いて、どんどんどんどん応募している。しかも、それがみんな優秀」(③)
特に創作能力には舌を巻いていた。
「意図や手法を考えずに思うままに泉がわくように俳句を次々に作ることができ、これこそ詩人と呼ぶべき人物だった」(①)
「出沢の詩体質は俳句に向いていたから俳句を多産していた。私たちが二、三句出すとき、この人は十句くらいは平気で出していた」(④)
また、その早熟ぶりは創作だけにとどまらなかった。学生寮の炬燵で、珊太郎の俳句論に耳を傾けた友人の回想がある。
「初めて近代俳句の流れを彼から教えられた。遡るように聞かされたのは子規、虚子から始まって秋桜子の造反、誓子、草城らの新興俳句、有季、無季論、そして中村草田男の話だった。それは眩しいほどの物語であり、彼はその流れに棹をさしてゆく希望に輝いて見えた。(中略)彼の語る俳句の世界は、私には凡俗の近寄れぬ天才達の花園に見えた」(⑤)
第4章 珊太郎の俳句観と句風
珊太郎は学生寮で毎月発行されていた学生新聞「暁鐘寮報」に俳句に関する署名記事を複数回にわたって寄稿していた。昭和13年1月発行の紙面には一ページ全面に俳句評論が掲載された。俎上に載せたのは飯田蛇笏、高浜虚子、水原秋櫻子など9人の俳人で、中でも山口誓子を高く評価した。誓子は山本健吉に「特異な素材を大胆に取り入れて俳句の近代的なスタイルを確立した」(➅)と言わしめ、当時の若者たちには人気があった。
珊太郎の右記評論には誓子の句を褒めながら伝統俳句に触れた一節がある。
「ちょっとした小細工で言葉を配置して出来た形式ばかりの作者の息吹が感ぜられない伝統俳句をば完全に圧倒して居る」
珊太郎は伝統俳句だけでなく、自由律俳句やプロレタリア俳句にも「言葉が粗雑」などとして概して批判的で、俳句に最も大切なのは「詩情」という考え方だった。
卒業までの約1年半の間に開かれた13回に上る水戸高校俳句会で、珊太郎の句は合計68句あり、その象徴的な句を拾い出した。
【高校二年】
話絶えて夜寒の星の夥し
風邪の床南天の朱に倦みぬ
木の芽晴れ喫茶少女は退屈に
【高校三年】
若葉風寮ひそかなる朝十時
緑陰や学徒憩ひの目をつぶる
磧の如き雲あり煙草甘きこと
地震に覚めし時わが顔の月に触れ
明日は旅立たう夜の飯粒をかみしめ
作品は総じて身近な自然や日常生活を題材に本人が重視した「詩的な情感」を漂わせている。その句風は生涯にわたり、珊太郎俳句の特徴にもなった。
第5章 「成層圏」への参加
高校時代の珊太郎の足跡で、もう一つ大きな位置を占めるのが「成層圏」である。「成層圏」は旧制の福岡、山口、姫路の各高校生11人が結成した「全国高校俳句聯盟」(昭和14年以降は学生俳句連盟と改称)の俳句機関誌で、昭和12年4月に創刊された。その動きを知った珊太郎はその年8月に水戸高校から一人で入会した。当時の誌面(⑦)の自己紹介欄で、珊太郎は自分がめざす俳句は「十七文字定量、季感超越」と書いている。つまり五七五の定型の枷は守りつつ、季語つまり季節感は必ずしも重要視しない考え方である。
この考え方について、俳人の坂本宮尾は「成層圏」に集った学生共通の時代的な背景があると次のように指摘する。
「旧制高校、帝国大学の知的な学生であったので、当時盛んになっていた新興俳句やプロレタリア俳句などを熱心に読んでいた。彼らは五七五の型にただ言葉を流し込むことでは満足せず、俳句と季語の定型の問題に強い関心を抱いていた」(⑧)
自己紹介が載った号には珊太郎の俳句10句も初めて掲載され、その中には次の句も含まれていた。
霧過ぎて鈴懸の實の逞くましき
この句を「成層圏」で俳句の指導にあたっていた俳人の竹下しづの女(明治20年~昭和26年)は誌面で高く評価した。
「句を一読して其調子と言葉と及び直観とが音楽的諧調を奏してゐるのに感服する。(中略)俳人がいかに自然凝視によりて秀れたる俳句を成し得るかを、この暁水(注解参照)の鈴懸の句から学ぼうではないか」(⑨)
珊太郎は有名な俳人から初めて褒められたことが大変嬉しかったと後に述懐している。
「成層圏」にはその後、珊太郎の紹介で水戸高校の学生が次々に入会した。その一人だった兜太は「竹下しづの女は関東に出沢珊太郎あり、と頼もしげに眺めていたのではないか」(④)と振り返っている。
第6章 珊太郎の出自と俳句
「成層圏」に掲載された珊太郎の高校時代の句は50句余り。この中に珊太郎の本籍地の地名である「岩村田にて」という詞書の付いた句(⑩)がある。
光ごけ月の滴となってゐる
「岩村田」はヒカリゴケが国内で最初に見つかった地域で、珊太郎が高校時代に本籍地に足を運んでいたことの裏付けになる。
この句と並んで、戸籍では一人いた妹のことを詠んだと思われる句もある。
行き違ふ妹宵闇のひとへ帯
戸籍上の父親は珊太郎が中学時代の昭和六年に亡くなっていたので、生前会うことはなかったと思われる。戸籍上の母親(昭和15年死亡)と妹とは大学入学後に一時的に親交を深めたが、結果的には二人からは出自の秘密を知ることはできなかった。
珊太郎は正月や盆の時期も東京には帰省せずにひと気のない学生寮に残っていたというが、高校の句会(昭和13年1月)でその心境を詠んだと見られる珊太郎の句がある。
屠蘇酌まる故郷をもたぬ男の子吾れ
卒業前の最後の句会(昭和14年2月)で珊太郎は心の叫びのような句を出していた。
童の妬心よ炬燵の父母と遠くゐてものを云はず
第7章 珊太郎の大学時代
都内に住む珊太郎の長男の出澤研太(昭和25年~)は珊太郎が大学時代の思い出を書いた40枚余りの原稿を保管している。内容からは珊太郎が兜太と創刊した俳誌「海程」に掲載予定だった未発表の「草稿」と推察される。この「草稿」で新たに明らかになった大学時代の珊太郎の足跡や俳句は多い。
それによれば、昭和14年4月に東京帝国大学経済学部に入学した珊太郎が住んだのは今の東京・文京区の学生相手の下宿で、隣室は後の首相・中曽根康弘、一学年上の法学部の学生だった。
珊太郎は大学でも講義をさぼっては図書館で本を乱読したり、筆写したりして気ままに過ごしていた。当時の句からもその様子をうかがい知ることができる。
朝寝してゐることのたのしさ花曇
酒を恋ひをりそっと口笛吹いてをり
ふかゞと寝る一夜の風立つらし
煙草のけむり外套を這ひ論はじまる
珊太郎は入学した当初は大学の「ホトトギス会」やそのOBの集まり「草樹会」の句会に顔を出し、高浜虚子、山口青邨、富安風生など著名俳人の謦咳に接したこともあった。
また、短歌結社誌「アララギ」にも籍を置いて歌を作ったり斎藤茂吉に会ったりしたというが、活動の中心は専ら「成層圏」の東京句会だった。
昭和14年春は「成層圏」のメンバーに東京帝国大学に進学した者が多く、早くも4月から東京句会が毎月開かれるようになった。句会では「成層圏」顧問の中村草田男(明治34年~昭和58年)が珊太郎に説得されて指導役になった。珊太郎は草田男を「天才的な能力がある俳人」と例えて尊敬していた。
句会の主な会場は国会議事堂に近い貸席専門の店で、珊太郎が幼少の頃に可愛がってもらった近所の鰻屋店主の妻の実家だった。
珊太郎は「成層圏」の昭和14年6月号で初めて巻頭を飾った。
凍雲は地平にあり話たく思ふ
北風を来て音楽をつゝむ扉を押せり
ピアノ弾く少女白鶴となりて夢
霧の中日は膨れつゝ我に迫る
寒行のたいこは追はれかゞみ行けり
「成層圏」の翌15年4月号には珊太郎の生涯にわたる題材の一つ「母恋い」の句が初めて登場する。
白墨一すじ塀に低かり母現れよ
この句は当時の俳句仲間から「秀逸な無季の句」として賞賛されたという。珊太郎は出自について大学時代には身近な友人には告白していたようだが、そのことを知った上での評価なのかどうかまではわからない。
戦後、兜太は自著(⑪)で「無季俳句の記念碑」となる句と呼び、母への想いを誘う風景の中から白墨の一本の線だけを取り出して他をすべて捨て去ったことを俳句に不可欠な『省略』の成功例だとして高く評価した。
この句は草田男主宰の俳誌「萬緑」創刊号(昭和21年11月発行)にも掲載された。草田男はその誌面で句に「梅雨」の季語を入れて「白墨一条梅雨塀に低し母現れよ」と有季に添削した。そして珊太郎が高校時代の友人の死を悼んで詠んだ「友逝けり電車冴えひびき土間ある家」の句とあわせて、珊太郎の性格に触れたコメントを寄せた。
「作者の特性の『ひとなつつこさ』と『自我の淋しさ』のやうなものがシツトリと沁みこんでゐて、俳句による一種自由詩的な境地を拓き得てゐる」
「自由詩的な境地」との草田男の評価に珊太郎はおそらく我が意を得たことであろう。
また、珊太郎が大学時代に深くかかわった俳誌には新興俳句運動の中心でもあった「土上」がある。主宰は早稲田大学講師の嶋田青峰(明治15年~昭和19年)。珊太郎は入学の年の昭和14年の初夏に都内の青峰の自宅に高校生の兜太を連れて訪ねている。兜太はその時の珊太郎の様子を語っている。
「青峰さんと親しげに話をしているので、前からの知り合いなんですかと聞くと、『うーん。何となく、このおじさんはオレと気が合うんだ』とか言ってね」(⑫)
珊太郎の作品は「土上」の昭和14年8月号に初めて登場し、廃刊直前の16年2月号まで毎号掲載(うち巻頭2回)され、合わせて80句余りある。16年1月号で「第2回土上賞」の予選通過作品にも選ばれている。「土上」であっても珊太郎の句は従来の作風には変わりがなかった。「土上」との関わりは当時、伝統俳句に批判的だった珊太郎の若さと好奇心がもたらした選択肢の一つだったのだろう。
第8章 青春の終焉と軍隊
珊太郎の俳句三昧の大学生活は長くは続かなかった。国内では戦時色が日々濃くなり、俳句の世界でも警察に自由主義的や厭戦的な作風としてにらまれた俳誌や俳人への治安維持法による弾圧が昭和15年から始まった。「土上」は翌16年2月の発行で廃刊に追い込まれたあげく、青峰は逮捕されて体を壊し終戦を待たずして亡くなった。
最盛期には会員が50人に上った「成層圏」も廃刊を命じられ、珊太郎は内務省検閲課に説明のため足を運んだものの、昭和16年5月の発行が最後になった。
毎回20人ほどが出席して開かれていた東京句会はこの頃になると、大学を卒業したり軍隊に召集されたりする者が増えて、幹事役の珊太郎は昭和17年1月、最後の幹事役の兜太も翌18年9月にそれぞれ繰り上げ卒業し、活動も休会状態になってしまった。
珊太郎は卒業後の就職先として満州電信電話会社に内定していたが、繰り上げ卒業と同時に召集され、昭和17年2月には東京・赤坂の近衛歩兵第三連隊に入営した。その後の足取りには不明な点があったが、加藤楸邨が昭和15年10月に創刊の俳誌「寒雷」に手がかりがあった。18年2月号に掲載の詞書の付いた珊太郎の句である。
〇〇陸軍豫備士官學校
友すずめ赤城の裾は海のごと
「〇〇」は伏字だったが、「赤城」の地名から群馬県の前橋陸軍予備士官学校と推察され、出身者の名簿(⑬)を調べていくと第七期に「出沢三太」の名前があった。
戦前の「寒雷」掲載の珊太郎の句はこの号から翌19年2月号までの1年間で5回、計32句にすぎない。その中に戦意高揚的な句は無く、軍隊生活を題材にしながらも珊太郎の句風は健在だった。その一部を紹介する。
蚤の床ひとすみの灯に日記書く
黄塵は叉銃を捲きて寒林へ
玄関にとんぼ群れとぶ夕陽かな
珊太郎の第7期は昭和17年5月に入校し、半年後の10月に卒業している。予備士官学校の卒業生は元の所属部隊に戻った後にしばらくして新しい部隊に配属されたという。珊太郎も近衛第三連隊に復帰後、広島の陸軍船舶輸送司令部への配属が決まった。
広島へ着任する前には星一と会っていた。時期は昭和18年あるいは19年夏と推測され、場所は東京駅前のビルの一室だった。父子の対面が初めてだったのかは明確でないが、珊太郎はその場面を前述の「草稿」に書き残していた。
「実父とふたりっきりで会って私は母を教えてほしいと懇願した。再びは生きて帰れないからと文字通り人としての最後の願いをしたが、父はにこにこしながら『安心しろ、なまじ知らない方が良い。生きて帰って来るに定まっているからその時に教えてあげる』と、私は涙を拭いて軍人らしく室を出た」
第9章 終戦と再出発
珊太郎が広島で終戦を迎えたのは27歳の時だった。激戦地の沖縄との間を往復する輸送船に乗っていたという珊太郎が、その鮮烈な体験を詠んだ句は見当たらない。
また、珊太郎が所属した部隊は8月6日の原爆投下直後に総動員で負傷者の救護や遺体収容にあたったというが、その悲惨な体験を詠んだ句も見当たらない。
終戦の翌月、復員した珊太郎が向かった先は昭和20年1月に見合い結婚した7歳年下の妻の貴美子の住む福井市で、その年の暮れには長女が生まれている。
水戸高校の同窓会名簿(⑭)によれば、珊太郎のいた文科甲類の同級生は、31人のうち10人が戦死(戦病死含む)していた。
星新一の評伝(⑮)で、著者の最相葉月は当時の関係者の話などから昭和20年代前半の珊太郎の足跡も辿っている。それによれば、戦後まもなく珊太郎は実父の星一から食品会社の経営を任せられ、星製薬の取締役にも迎えられた。最相は「星一には将来、社長の座を星新一に継がせ、珊太郎には実務をサポートさせる構想があったのかもしれない」と書いている。
俳句界では戦後まもなくして新たな俳誌が相次いで生まれた。珊太郎は復員した「成層圏」の元仲間と一緒に昭和21年の「萬緑」創刊にかかわった。しかし、その後は一時期を除き「萬緑」に作品は掲載されず、長い空白の時代が続くことになる。その背景として昭和20年代半ばに珊太郎は食品会社の経営に失敗し、星製薬取締役のポストも1年足らずで退任を余儀なくされたことがある。
追い打ちをかけるように昭和26年1月には星一が渡航先のアメリカで急死した。珊太郎にとっては生活の後ろ盾ともに、実母を知る手がかりも絶たれてしまった。
その後、珊太郎は学生時代の友人を頼りに昭和27年に川崎市で電機部品工場の経営を新たに始めた。空白の時代を知る旧友の一人は「俳句と本格的に取り組む余裕はなかったに違いない」と振り返っている。(⑯)
また、長男の研太も「従業員を多く抱えて仕事上の心労が絶えなかったと幼心にも感じた。そもそも文科系の父は技術的知識を要する仕事は向いていなかったと思う」と話す。
第10章 新たな決断と迷い
創作活動の空白が続く中、昭和35年に珊太郎は日銀本店に転勤してきた兜太と約10年ぶりに再会していた。この年の兜太の日誌(⑰)には珊太郎の名が二か所に出てくる。
七月一九日
香西氏、受賞記念会。(中略)出沢三太に久々に会う。
七月二八日
小生の歓迎会をやってくれる。
杉森先生、出沢三太、安東次男等来る。
当時すでに前衛俳句の旗手として活躍中の兜太に会ったことで、珊太郎に学生時代の俳句への情熱が再び燃え上がったと考えるのが自然だ。この再会から2年後の昭和37年に珊太郎は二つの大きな決断と行動に出る。
一つは工場の経営を手放し、渋谷駅の近くに事務所を借りて、出版業と不動産業の個人経営の会社を設立した。時間を確保するのが目的だったのだろう。時に珊太郎は44歳、妻と16歳の長女を筆頭に下は1歳まで一男三女を抱えた身だった。
もう一つは兜太と一緒に俳誌「海程」を創刊したことだ。創刊時の同人30人の中にあって珊太郎は「発行人」の重責を担った。
兜太は二人三脚の「海程」運営のパートナーとして珊太郎を見込んでいたはずだ。現に創刊号の後書きで、兜太は珊太郎に俳句の自分史執筆や若者対象の投句欄『鈴懸集』の選者の依頼をしたことを明らかにしている。
しかし、珊太郎は自分史の連載は4回で中断、「鈴懸集」は2年も続かずに終了、そして昭和42年7月発行の号から「発行人」は兜太に替わってしまった。
当時の珊太郎について、「海程」創刊の年から同人として加わり、後継の俳誌「海原」代表の安西篤に話を聞いた。
「兜太は句会や飲み会でも必ず自分の近くに珊太郎の席を設けて『ナンバー2』の立場に据え、意識的に意見を求めるなど常に配慮していた。ただし、珊太郎の抒情的な俳句は『海程』には馴染まず、句会では点がなかなか入らず、本人が気まずさを感じていたのではないか。それに伴い『海程』内での存在感が次第に薄れていったような印象を受けた」
この話を裏付けるように「海程」の昭和42年4月発行の号で、珊太郎は兜太が褒めた同人の句について定型を守っていないと批判し、次の持論を掲載した。
「俳句はあくまでも十七音律を基調として、自然(人間を含む)に即して写実的に詠嘆する短詩型であるべき」
定型へのこだわりは高校時代から変わらなかったようだ。
この号のあと、珊太郎の句が「海程」に載ることはほとんど無くなり、再び7年後の昭和49年4月発行の号から登場したが、3年後の52年11月発行の号が最後になった。そこに掲載された一句は悔いと悟りを滲ませたようだ。
黒衣めきて過ぎし歳月枇杷の花
珊太郎
一方で、「萬緑」には20年以上の沈黙を経て、昭和51年2月発行の号から珊太郎の句が毎月掲載されるようになっていた。
この時期の珊太郎の心の揺れを語るような資料があった。長男の研太が「草稿」と一緒に保管していた珊太郎直筆の一枚の便せん。兜太宛の手紙の下書きと思われる。実際に兜太に届いたかどうかや具体的な月日まではわからないが、「海程」と縁を切らざるをえない内情が綴られている。原文のまま紹介する。
「拝啓
他の結社の同人は万緑の同人にしないという原則論による、万緑同人達の要求により不本意乍ら海程同人を辞任するの止むなきに至りました。(中略)貴兄との友情その他に関して私は変ってをりません。
5/24朝六時 敬具
金子兜太様 出澤珊太郎」
「海程」と別れて3年後の昭和55年、珊太郎は「萬緑」の同人に昇格した。すでに62歳。「萬緑」で一足早く同人になっていた学生時代からの友人は当時の誌上で新同人の珊太郎について皮肉交じりに紹介した。
「本来が草田男崇拝者で本格的な写生俳句の道を歩んだ彼が『海程』のような俳句ができる筈がなく、其処にも友情と芸術的な主張を一緒にする楽天的な人の好さがあったと思う」(⑯)
第11章 俳誌「すずかけ」発行
「海程」との別れ、「萬緑」への本格的な復帰と時期をほぼ同じくして、珊太郎は俳誌「すずかけ」を昭和51年12月に創刊した。59歳の時である。そのタイトルは「霧過ぎて鈴懸の実の逞しき」からとったものだ。
創刊号はA5サイズの4ページのホチキス止めで、30人の俳句が掲載された。参加者は珊太郎から直接誘いを受けた出身の中学、高校、大学の同窓生や近所の人たちだった。
この俳誌に珊太郎自らが託した夢と思いが伝わってくる一文がある。
「「すずかけ』の場は広く各俳誌所属作家に公開し、自由に作品評論等を発表して戴ける『場』とします。(中略)俳句の総合誌、主宰誌、同人誌等の長所を兼ねた新感覚の独自な俳句誌としたいと念願しています」
(「すずかけ」昭和52年1月号)
また、毎月、自宅などで句会も開かれ、参加者の一人はその様子を書いている。
「ここには先生も弟子もいない。皆自由で平等である。(中略)めいめい勝手な熱を吹き合って何のわだかまりも残さない。これが本当の俳諧、連衆の文芸に生きる喜びだ」
(「すずかけ」昭和56年4月号)
「すずかけ」に珊太郎の俳句は毎月10句近く掲載され、多くは「家族」や「境涯」という自らの身辺を題材にした詩情感漂う作品である。さらにもう一つの特徴を「遺句集」に寄せた兜太の言葉を借りて加えれば、「一句一句が珊太郎のその時の姿や表情、思念をありありと見せてくれ、在りし日の出澤像を限りなく提供してくれるのである」となる。その意味で「すずかけ」時代の珊太郎の俳句には私小説の趣がある。
このうち「家族」の句では当時、妻と3人の娘と同居していた日常生活の一コマや家族史が具体的に伝わってくる。
「父が悪い」でおさまる家族いわし雲
妻子らに父の沈黙の威秋晴るる
朝寝の娘らの窓閉じて初の蝶
薄氷ただ見守るのみ未婚の娘
足裏より砂崩るごと嫁ぎ去り
十薬が庭にひろがり孫生れし
孫の鳴く声にて終り初電話
また、「境涯」の句では自分の晩年や半生に思いを馳せた本音や感慨が伝わってくる。
茗荷掘る余生ゆたかと信じつつ
落丁多き生涯なりしよ植樹祭
梅雨夜風多芸小才をいましめて
新涼の夜風よ余生永かれと
定年の無き職愉し火焔草
二十年生き抜くと決め梅雨の薔薇
余生には遠き忙しさ寒椿
第12章 突然の死
「すずかけ」は発行を重ねるにつれ俳誌としての体裁や内容は充実し、昭和五六年以降、ページ数は20ページ程度に増え、作品が掲載された会員は常に4、50人台、多い時は80人近くにも上った。会員同士の句会も都内だけでなく、千葉県、神奈川県でも開かれるようになっていった。
珊太郎の死は突然で、前触れは一切なかった。昭和60年5月17日朝、珊太郎が起きてこないことで、妻が異変に気づいた。享年六七。死因は心臓弁膜症で、前の日の晩まで書斎で6月発行予定の「すずかけ」の編集作業をしていたという。
通夜に足を運んだ兜太は追悼句を詠んだ。
椎匂う波乱の生にというべき死
(⑱)
葬儀の参列者は交友関係の広さを物語るように400人に上り、その中には星新一の姿もあった。
そして「すずかけ」はその年の九月号を最後に創刊から9年近く、通算104号に上る発行の歴史に終止符が打たれた。
珊太郎の死後、研太は書斎から珊太郎が俳句を書き留めていたノートを見つけた。ノートの俳句を読むにつけ、父のその時々の出来事や思いなどを写しとったアルバムを見ているように感じたという。そして亡くなる二日前の最後のページにはあわせて21句が書かれていた。その中には生涯知ることも会うこともできなかった実母を詠んだ句が一句含まれていた。
母知らぬことかみしめて春の雪
珊太郎は結婚して子供ができてからも「母恋い」の句を作り続けていたが、その人生の最期まで途切れることはなかった。
そして草田男が「母恋い」の句を通して見抜いたとも言える「人なつっこさ」と「自我の淋しさ」という珊太郎の性格。
珊太郎の死後、その「遺句集」をまとめた学生時代からの友人の一人は「あとがき」の中で、珊太郎の性格があってこそ、学生時代には先輩や後輩、晩年には俳句の初心者やベテラン、老若男女を問わず、分け隔てなく接して俳句の世界に誘い込む情熱や行動力につながったのではないかと記している。
珊太郎は俳人としての足跡こそ紆余曲折の感があるが、俳句の世界に導かれた兜太などにとっては「鈴懸」のような存在であったに違いない。
了
注釈
1
出澤珊太郎の本名は出澤三太だが、文中では俳号の出澤珊太郎を使用した。
高村光太郎や萩原朔太郎を敬慕していたことが、その所以という。
なお、俳号は高校時代までは出澤暁水を使用することがあった。
2
文中の人物は原則、敬称略として、二回目以降からは姓は省略した。
3
「霧過ぎて鈴懸の実の逞しき」の句は出典によって文字の違いが若干ある。
出典がない場合の文中で引用する場合は「出澤珊太郎句集」の右記表記に従った。
参考文献
・俳誌「海程」(昭和37年発行の創刊号、2号、3号、6号の各号掲載の珊太郎執筆の『わが俳句的遍歴』1〜4)。
水戸高校時代の俳句会での珊太郎の句は当該連載から抜粋した。
また、右記『わが俳句的遍歴』1〜4の続編と見られる未発表の「草稿」。
大学時代の珊太郎の句で当時の俳誌に未掲載の句は「草稿」から抜粋した。
・「わが戦後俳句史」(昭和60年 金子兜太 岩波新書)
・「金子兜太」(平成13年 安西篤 海程新社)
・「語る兜太―わが俳句人生」(平成26年 金子兜太 岩波書店)
・「今日の俳句」(昭和40年 金子兜太 光文社カッパブックス)
・「現代俳句大事典」(平成17年 三省堂)
・「暁鐘寮報」(昭和12年~13年 水戸市立博物館蔵)
・「時代を生きた名句」(平成24年 高野ムツオ NHK出版)
・「近衛歩兵第三連隊史」(昭和60年 近歩三史刊行委員会)
・「学徒出陣とその戦後史」(平成29年 啓文社書房)
・「前橋陸軍予備士官学校戦記」(昭和55年 戦記編纂委員会 相馬原会)
・「明治・父・アメリカ」(昭和50年 著・星新一 筑摩書房)
・「旧制高校物語」(平成15年 著・秦郁彦 文藝春秋)
・「青春三十年~旧制水戸高等学校物語」(平成11年 山際圭司 水戸高校同窓会)
・「学歴貴族の栄光と挫折」(平成23年 竹内洋 講談社学術文庫)
・「教養主義の没落」(平成15年 竹内洋 中公新書)
・「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」(令和3年 堀川惠子 講談社)
・「ひろしま歴史の焦点㊦」(昭和51年 中国新聞社事業局出版部)
・「俳句と知性」(昭和37年 堀徹 堀徹遺稿刊行会)
・「俳句」(昭和36年12月号 香西輝雄 角川文化振興財団)
・「俳句研究」(昭和36年1・2月号、昭和38年5月号、昭和42年6月号 俳句研究社)
・「銀の爪 紅の爪」(平成28年 福岡市文学館)
・「山口誓子 自選三百句」(平成4年 春陽堂)
・「萬緑」(昭和44年3月号および昭和60年9月号)
出典(所載雑誌・書籍など)
➀遺句集の正式名は「出澤珊太郎句集」(平成3年 卯辰山文庫)。
文中では「遺句集」の表記を使用した。
②「岫雲録」(昭和39年 長谷川朝暮 吾妻書房)
③「人間 金子兜太のざっくばらん」 (平成22年 金子兜太 中経出版)
④「遠い句近い句━わが愛句鑑賞」(平成5年 金子兜太 富士見書房)
⑤ 俳誌「萬緑」(昭和60年9月号 宗像元介)
⑥「定本 現代俳句」(平成10年 山本健吉 角川書店)
⑦「成層圏」(昭和13年1月発行)
⑧「兜太 Vol・1」(平成30年 坂本宮尾 藤原書店)
⑨「成層圏」(昭和13年7月号)
⑩「成層圏」(昭和13年10月号)
⑪「今日の俳句」(昭和40年 金子兜太 光文社)
⑫「証言・昭和の俳句㊤」(平成14年 金子兜太 岩波書店)
⑬「昭和五十年記念 相馬原會員名簿:前橋陸軍予備士官学校」(相馬原会)
⑭「水高同窓会会報」(昭和49年 創刊号 水戸市立中央図書館蔵)
⑮「星新一―一〇〇一話をつくった人」 (平成19年 最相葉月 新潮社)
⑯ 俳誌「萬緑」(昭和55年12月号 作間正雄)
⑰「金子兜太戦後俳句日記第一巻」(平成31年 白水社)
⑱「金子兜太戦後俳句日記第二巻」(令和元年 白水社)