定型と自由律、存在と生成のあいだ
👤山根もなか
序章 歪みとしての詩
フランシス・ベーコンの絵画には、見る者の常識的な「形」の感覚をゆるがせる力がある。
《ヴェラスケスの〈教皇インノケンティウス十世の肖像〉による習作》(1953年)において、教皇の顔は叫びの中で引き裂かれ、肉体は歪み、空間はねじれながらも奇妙な均衡を保っている。
ベーコンは1966年、美術評論家デイヴィッド・シルヴェスターとの第2回インタビューでこう述べている。
“What I want to do is to distort the thing far beyond the appearance,
but in the distortion to bring it back to a recording of the appearance.”
(私は対象を、その見えのはるか彼方まで歪ませたいのだ。
だが、その歪みのうちに、見えの記録を取り戻したいのだ。)
— Interviews with Francis Bacon (Thames & Hudson, 2008, p.46, 1966年収録)
ここでベーコンが語る「歪み」とは、破壊ではなく現実の回復のための手段である。
形を壊すことによって、かえって対象の本質的な在り方に触れようとする──この逆説は、俳句における「切れ」や「呼吸」にも通じる。
俳句とは、言葉が断たれ、異なる世界が交錯する「瞬間」に詩が立ち上がる文学である。尾崎放哉の
入れ物がない両手で受けとる
の句において、「ない」と「両手で」のあいだに、虚と実・欠如と受容が交わる。
この交錯の場こそ、詩的生成が生じる**ジャンクション(junction)**である。
ベーコンの歪みが形と現実の境界を溶かしたように、俳句もまた、言葉の切れ目で存在を露わにする。
第一章 俳句は詩である――子規とハイデガー
正岡子規は『俳諧大要』(1895年)の冒頭で次のように述べている。
「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。
絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし。」
(青空文庫テキストによる)
子規にとって俳句は、言葉によって世界を造形する芸術=詩である。
この考えはハイデガー『芸術作品の根源』における詩論と響き合う。
「詩作とは、あらゆるものの存在と本質とを命名しつつ、作り出すことである。」
ここでいう「存在(Sein)」とは、個別の事物ではなく、あらゆるものの在り方そのものである。
詩とは、その在り方を呼び覚ます行為であり、俳句も自由律俳句もともに「存在を命名する詩的営み」である限り、形式の差は本質的ではない。
第二章 芭蕉と井泉水――永遠と生成の宇宙観
松尾芭蕉は『去来抄』において、
「風雅の誠とは、造化にしたがひて、これを友とするなり。」
と記した。
造化(自然)に身を委ね、調和して生きること、すなわち存在の流れと共にある生を示している。
命二つの中に生きたる桜かな
という句も、自己と自然が一つの存在に溶け合う瞬間を詠んでいる。
一方、荻原井泉水は『詩と人生』(潮文社、1997年〔新装版〕)のなかで次のように述べている。
「詩の表現としては一定の『入れ物』を持たないのがほんとうである。
『入れ物』がないゆえに詩の動機、発想、表現は自分の全身全霊をもってこれを受ける。
『両手でうける』という気持である。」(p.201より)
井泉水は、詩を「入れ物に入れない=形式に閉じこめない」ものとして捉え、自然から受け取る生命の呼吸そのものを詩とみなしている。
つまり俳句とは「自然とわれとが一つに融け合う瞬間」に発する詩であり、芭蕉が造化との**調和(harmony)を重んじたとすれば、井泉水はその触れ合いと生成の瞬間(becoming)**を重んじたといえる。
両者の差は、後の定型俳句派(永遠を志向)と自由律俳句派(生成を志向)の方向性を象徴しているが、どちらも「宇宙的在り方を詠む詩」という根底では一致している。
間章 言葉が生まれるとき
「詩」という言葉を使えば、たしかに便利である。
しかし同時に、その言葉が持つ重さや曖昧さが、何を指しているのかを見えにくくしてしまう。
ここではあえて「詩」という語を離れ、言葉が立ち上がる瞬間について考えてみたい。
たとえば、風が頬をなでるとき、人はふと何かを言いたくなる。
意味をつくろうとするよりも先に、体の奥で呼吸が動く。
その呼吸がかすかに形を持つとき、言葉は生まれる。
それは考えから出てくるのではなく、世界の側から人の内に差し込んでくる。
芭蕉のいう「造化にしたがひて、これを友とする」とは、世界の出来事に寄り添い、そのままを受け入れるという姿勢である。
荻原井泉水の「両手でうける」という比喩も、この“受け取る”という感覚をあらわしている。
それは思考ではなく、感覚のままに世界を受け入れる身体の態度である。
言葉は、作ろうとするものではなく、訪れてくるものである。
だから俳句は、何かを説明したり飾り立てたりすることよりも、「今、ここで感じたものが、どのように形をとるか」に集中している。
その瞬間、言葉は作者の所有物ではなく、世界と人とのあいだを流れる息のようなものになる。
この「息」の往復が、俳句における最も根源的な営みである。
定型俳句でも自由律俳句でも、言葉がこの呼吸を宿していれば、そこに本質的な表現が生まれる。
形式の違いは、呼吸のリズムの違いにすぎない。
俳句が伝えようとするのは、理念としての「詩」ではなく、世界が一瞬だけこちらを見返す、そのまなざしの瞬間なのである。
第三章 切れとジャンクション――詩的呼吸の場
井泉水は「俳句は一段落ある一行詩である」と述べた(『詩と人生』所収「自由律俳句とは何か」)。
この「一段落」とは文法的な形式ではなく、詩的呼吸=存在の一息を意味する。
芭蕉も「いろは四十八字、皆切れ字になりうる」と語っており、切れは定位置ではなく、俳句全体に潜在する**連結点(ジャンクション)**である。
尾崎放哉の句
入れ物がない両手で受けとる
では、「ない」と「両手で」のあいだに二つの世界――欠如と受容――が衝突し、詩が生まれる。
この詩的歪みこそがジャンクションであり、芭蕉や井泉水がいう風雅の呼吸そのものである。
第四章 現代におけるジャンクション――定型と自由律、その呼吸の交差点
定型俳句とは、たった十七音の中で世界と呼吸を合わせる試みである。
その形式は、長い時間の中で磨かれてきた「生のリズム」の結晶であり、私たちの生活や感情の奥に潜む、無意識の拍動にもっとも近い詩型でもある。
十七音という制約は、表現を閉じるための枠ではなく、感性を鋭く研ぎ澄ませ、世界との接点を見出すための呼吸装置である。
同時に俳句は、その「呼吸の外側」をつねに意識してきた文学でもある。
定型の枠の内側で緊張を保ちながら、なおその外を感じ取ろうとする。
この“内なる外”への感覚があるからこそ、俳句は変化を恐れず、四百年以上のあいだ生き続けてきた。
自由律俳句の系譜は、その外側の呼吸を言葉で探る試みであり、定型の生命を補強するもうひとつの肺として存在してきたのである。
両者は、形式の内と外を往還しながら、ともに「ことばと存在が触れ合う一点」で呼吸を交わす。
この接合点――ジャンクション(junction)――において、俳句は形式を超え、再び“生”そのものと接続する。
一 定型内部の歪み――堀田季何と高遠朱音
にせものの太陽のぼるあたたかし
堀田季何
(『人類の午後』邑書林、2021年)
この句は、五七五という定型を保ちながら、内部に微細な“歪み”を孕む。
「にせものの太陽」という語は、写生的リアリズムを静かに裏切り、現実と虚構の境界をたわませている。
ここでは定型の律は「安定」ではなく「揺らぎ」として機能している。
五七五という形式そのものが、現代においてもなお世界の「生成」を受け入れる柔軟な構造であることを示している。
少女の悩み拒絶されティラミス
高遠朱音
(『ナイトフライヤー』ふらんす堂 · 2009/4/1刊)
「拒絶され」でいったんリズムは止まり、その静止の後に「ティラミス」の甘味が流れ込む。
定型の中に生じる一瞬の沈黙は、形式の死ではなく、むしろ感情が立ち上がる瞬間である。
堀田と高遠――ふたりの作品に共通するのは、定型という形式の内部においても、言葉が外界へ向かって開かれているという事実である。
その開放の呼吸があるかぎり、定型俳句は閉じない。
そこに、現代の自由律俳句と響き合う「生成の感覚」が宿っている。
二 自由律の根源――高田弄山と三好利幸
月は何色にぬっても嘘になる
高田弄山
(自由律俳句結社層雲・泉の会同人/『高田弄山追悼集』2014年版元)
「月は」という存在の提示と、「嘘になる」という認識の破綻が交錯する。
言葉が意味を失う瞬間に、かえって真実が顔を出す。
高田弄山の句は、言葉の“歪み”そのものを光とする。
定型の「切れ」を外部化し、言葉の沈黙に存在を呼び戻す。
ソフトファシズムひたひたとイチゴパフェ
三好利幸
(自由律俳句結社青穂・きやらぼくの会同人/『青穂』第一句集版元、2018年10月刊)
社会的暴力と日常の甘美を並置し、言葉の断層に時代の痛覚を刻む。
定型の呼吸を部分的に保持しつつ、抽象と具象がひとつの呼吸で交わる。
自由律俳句が、現代の倫理・美・暴力の三層を同時に射抜けることを示した句である。
三 存在の沈黙――小山貴子・藤田踏青・天野博之・荒木勉
ヒルガオ咲いて凪の匂いした家を売る
小山貴子
(自由律俳句結社青穂代表/現代俳句協会員/尾崎放哉賞選者・尾崎放哉研究家/『現代自由律俳句を読む・其の参』三好利幸、2025年刊)
「ヒルガオ」「凪」「家を売る」――この三つの語のあいだに、静謐な時間の層がたゆたう。
凪の匂いは、かつての生活の余韻であり、消えゆく日常の呼吸である。
小山の句には、現代自由律俳句が持つ写実と沈黙の均衡が見事に表れている。
日常の光景を通して、「生きること」と「手放すこと」の境界を淡く描き出すその姿勢は、放哉研究者としての深い洞察にも裏打ちされている。
この静謐な喪失の感覚は、自由律俳句の成熟と継承を象徴している。
月の匂いの石に坐る
藤田踏青
(自由律俳句結社層雲元同人・きやらぼくの会同人・豈同人/第1回尾崎放哉賞受賞作)
「坐る」という行為の静止が、言葉以前の呼吸を思い出させる。
存在を語るのではなく、「在ること」を受け取る。
藤田の句には、放哉以降の孤独と風雅が継承され、沈黙のうちにこそ詩が宿るという自由律の精神が息づいている。
この静止の呼吸こそ、現代自由律俳句における“存在の倫理”といえるだろう。
さり気なく笑う女の抱える狸火
天野博之
(自由律俳句結社層雲元同人・きやらぼくの会同人/『続・現代自由律俳句を読む』三好利幸、2023年刊)
「狸火」という幻想が、現実の陰にそっと灯る。
柔らかい口語の裏に、長い伝統の呼吸が通っている。
高田弄山の盟友でもあった天野は、現実と幻視の狭間に生き、光と闇の境界に潜む“詩的な炎”を見出した。
この句には、自由律俳句が抱える幻想と現実の交錯という古典的テーマが、現代の口語的感覚によって新たに再生されている。
君の曲線のすべてで作る罪の地図
荒木勉
(自由律句誌『群妙』同人/『続・現代自由律俳句を読む』三好利幸、2023年刊)
言葉が身体を描き、身体が世界を描く。
官能と倫理、抽象と感情が拮抗しながら、句はひとつの生命体のように息づく。
荒木は、自由律俳句を“形のない形象詩”として再定義する俳人である。
その句には、感覚の極限で生まれる美と罪との緊張があり、自由律俳句が未だ新しい詩的可能性を孕んでいることを静かに告げている。
四 中堅の呼吸――田中佳・楽遊原・佐川由加理・野田麻由可
母の内にあるダムの静けさ
田中佳
(自由律俳句結社きやらぼくの会同人/第6回尾崎放哉賞受賞作)
母性の内部に沈む時間の流れを描く。
感情の源にある沈黙が、言葉の底で脈打つ。
剥製になって蛍光灯が眩しい
楽遊原
(自由律俳句結社青穂・きやらぼくの会同人/『現代自由律俳句100句を読む』三好利幸、2016年刊)
生命の静止と光の照射が一点で交差する。
青穂の静寂ときやらぼくの現代感覚を併せ持つ俳人。
高波に錠剤落とす波紋の後は凪
佐川由加理
(自由律俳句結社青穂・きやらぼくの会同人/同上)
波紋と凪――運動と静止の律動が、言葉そのものを呼吸させる。
さむいさみしいさ行さらさらと粉雪
野田麻由可
(自由律俳句結社きやらぼくの会同人/同上)
音と感情がひとつの呼吸に還る。
音素が生命の拍動となり、言葉が“息づく”感覚を呼び戻す。
これらの句は、自由律俳句が「定型の外」ではなく、定型の呼吸を別の文体で継承していることを示す。
田中・楽遊原・佐川・野田――四人の作品はいずれも、沈黙・音・呼吸を中心に据え、定型と自由律の境界を軽やかに横断する。
五 若き電撃――古閑稷・佐田征優・佐藤廉
竹藪へ錆びてみだらな鍋ふたつ
古閑稷
(自由律俳句きやらぼく2025年4月号刊)
朽ちた風景のなかにある官能的生命。
静けさと野性が同居する新世代の感覚。
つや消しの黒ヘルのつどいよ十七音の電撃を
佐田征優
(自由律俳句きやらぼく2025年6月号刊)
定型への挑発を帯びた句。
「十七音の電撃」とは、定型の魂を自由律のリズムで再点火する意志の表明である。
川の一文字を打つための川端康成
佐藤廉
(自由律俳句きやらぼく2025年9月号刊)
文学そのものを句として再構築するメタ的感性。
言葉と作家のあいだにある「名と存在のずれ」を鋭く突く。
この若手三名は、自由律俳句を「形式の破壊」ではなく、定型の再創造として生かす世代である。
彼らの句には、俳句の根に流れる呼吸の記憶が宿っている。
六 呼吸の連続体としての俳句
高田弄山・三好利幸・小山貴子・藤田踏青・天野博之・荒木勉。
田中佳・楽遊原・佐川由加理・野田麻由可。
古閑稷・佐田征優・佐藤廉。
それぞれの俳人が、異なる形式で同じ「呼吸」を聴いている。
定型俳句が世界と呼吸を合わせるなら、自由律俳句は呼吸そのものを世界にひらく。
両者の差は構造ではなく、呼吸の振幅である。
俳句は詩ではなく、呼吸である。
その瞬間、言葉は形式を超え、人間と世界のあいだにふたたび生きた接点――ジャンクションを生み出す。
第五章 伝統と生成――オープンワールドとしての俳句
伝統とは固定ではなく流動である。
茶道に煎茶道と抹茶道があるように、俳句も時代に応じて分岐し、多様な「風雅」を育んできた。
現代における自由律俳句の多様化は、俳句という芸術のオープンワールド化といえるだろう。
1980〜90年代のゲームが「目的達成型」であったのに対し、近年の『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』のような世界では、目的そのものが開かれ、プレイヤーの行動が生成的に意味を形成する。
俳句もまた同じである。
目的(季語・定型)を超えて、存在とことばの間で生成される詩の空間こそが本質である。
結語 歪みの中にある呼吸
芭蕉の風雅は永遠の調和を、井泉水の風雅は生成の流動を指す。
ベーコンは歪みのうちに現実を取り戻し、俳句は切れのうちに存在を呼び覚ます。
形式の有無を問わず、俳句が立ち上がるのは「存在とことばが出会う瞬間」である。
定型俳句も自由律俳句も、そこに呼吸がある限り、同じ風雅の系譜に連なっている。
そして、口語化が進む現代の定型俳句は、これから自由律俳句の自在さを部分的に取り入れつつ、「十七音」という核を失うことなく進化していくだろう。
一方、自由律俳句もまた、古語や伝統的リズムを柔らかく吸収しながら、自由律らしさを損なうことなく広がっていくはずだ。
両者はもはや対立する存在ではない。
定型が外を呼吸し、自由律が内を呼吸する。
そのあいだの穏やかな往復の中で、俳句という小さな器は、これからも無限に新しい息を吹き込まれていく。
──口語化とは、俳句が再び「人の声」に還ろうとする運動である。
定型の中に日常が息づき、自由律の中に古典の記憶が流れこむとき、俳句は形式を越え、より広く、より深く、世界と呼吸を交わすだろう。
自由律俳句を手掛ける立場から見ても、定型俳句の口語化は脅威ではなく、むしろ共鳴の兆しである。
自由律が拓いてきた「生の呼吸」を、定型が自らのリズムの中に受け入れ、一方で自由律が定型の伝統的美意識を取り込みながら成熟してゆく──
そのような往還が、これからの俳句の豊かさを形づくっていくだろう。
両者が互いに尊重し合い、交流し合うことで、俳句は再び「ことばと存在の交差点=ジャンクション」として息づく。
その瞬間、詩はかたちを超え、呼吸として、人と世界のあいだにふたたび生まれるのである。
参考文献
•正岡子規『俳諧大要』1895年(青空文庫)
•松尾芭蕉『去来抄』
•荻原井泉水『詩と人生』潮文社、1997年〔新装版〕
•Francis Bacon, Interviews with Francis Bacon, Thames & Hudson, 2016
•Francis Bacon, Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X, 1953
•Martin Heidegger, Der Ursprung des Kunstwerkes 2008(『芸術作品の根源』関口浩訳)
•堀田季何『人類の午後』邑書林、2021年 月刊
•『高田弄山追悼集』○○、2014年9月刊
•『青穂』第一句集○○、2018年10月刊
•高遠朱音
•『ナイトフライヤー』ふらんす堂 · 2009/4/1刊
•続・現代自由律俳句を読む』三好利幸、2023年刊
•現代自由律俳句100句を読む』三好利幸、2016年刊
•自由律俳句誌きやらぼく2025年6月号刊・9月号刊