【2】鎌倉
👤籾山洋子

横浜は開港により日本の近代化に名をなしたが、鎌倉は源頼朝が平家を倒し、建久3年(1192)に幕府を開いて以来、多くの神社仏閣が出来た。

明治33年(1900)、大和田建樹作詞の「鉄道唱歌」…「東海道編」は、新橋から神戸までが六十六節に分けられておりその中の鎌倉。

鉄道唱歌
大和田建樹 作詞
<6>
横須賀ゆきは乗替と 
 よばれておるる大船の
  つぎは鎌倉鶴が岡
   源氏の古跡 や尋ね見ん
<7>
八幡宮の石段に
 立てる一本の大鴨脚樹(おおいちょう)
  別当公暁のかくれしと
   歴史にあるは此(この)蔭よ
<8>
ここに開きし頼朝が
 幕府のあとは何(いず)かたぞ
  松風さむく日は暮れて
   こたえぬ石碑は苔あおし
<9>
北は円覚寺 建長寺
 南は大仏星月夜(ほしづくよ)
  片瀬 腰越 江の島も
   ただ半日の旅ぞかし

1.円覚寺大

円覚寺山門

明治22年(1889)横須賀線開通。鎌倉で座禅会があり、若き日の島崎藤村や夏目漱石が禅の修行で籠っている。
島崎藤村が円覚寺塔頭帰源院に一時身を寄せたのは明治26年、22歳のとき。
夏目漱石が帰源院に参禅したのは27歳、明治27年(1894)12月28日から翌1月6日までの10日間ほどであった。
漱石はこの参禅の体験をもとに書いた『門』では円覚寺境内を次のように描写している。

山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮ってゐるために、路(みち)が急に暗くなった。其(その)陰気な空気に觸れた時、宗助は世の中と寺の中との區別を急に覺った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。……人の出入は一切なかった。悉(ことごと)く寂寞として鎮び果ててゐた。

円覚寺は弘安5年(1282)、北条時宗の創建。
山を背負い森をめぐらした広大な谷のふところに伽藍を配置し、鎌倉五山第二位の風格を漂わせている。
落慶供養の日、背後の山から白い鹿の群れが現れ、聴衆とともに祖元の説法を聴いたので、山号は瑞鹿山(ずいろくざん)と決まったと伝えられている。

佛性は白き桔梗にこそあらめ

漱石が参禅した帰源院の庭にある句碑


2.鶴岡八幡宮

司馬遼太郎は『街道がゆく』の「三浦半島」で「相模国の三浦半島は、まことに小さい。……ところがこの半島から十二世紀末、それまでの日本史を、鉄の槌とたがねをもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである。」と述べている。
源氏の守護神として源頼朝が創建した鶴岡八幡宮、頼朝は鎌倉の中心に信仰を対象として八幡宮を据え、東国武士、庶民を配下に治めた。

元気に成長している大銀杏

~ 伝説の悲劇 ~ 大いちょう

承久元年(1219)1月27日夜、右大臣拝賀の式を八幡宮で終えた将軍実朝は、いちょうの陰に隠れていた別当公暁に斬りつけられ28歳の命を終える。
長い間鎌倉の歴史を見守っていた大銀杏は、平成22年(2010)3月未明強風にたおれたが、その後倒木した大銀杏から新芽が生え現在成長し続けている。
八幡宮先の白幡神社の手前、木立の中にひっそりと建つ実朝を詠んだ菅裸馬(すがらま)の句碑がある。

裸馬は本名菅礼之介、秋田県出身、経済界に貢献した人物で昭和2年(1927)年、実朝忌俳句大会を提唱。
碑は昭和36年(1961)に建てられ、裸馬の筆跡が刻印されているという。

歌あはれその人あはれ実朝忌

菅裸馬の句碑

 

実朝は鎌倉幕府第3代将軍(在職1203~1219)、和歌を愛した歌人として知られ藤原定家から指導を受け、家集に『金槐和歌集』がある。

山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふたこころあらめやも

この歌は『金槐和歌集』の巻末をしめくくる歌で、後鳥羽上皇を慕って詠まれたもの。
鎌倉国宝館の庭の片隅にひっそりと建っている。
歌碑は実朝生誕750年にあたる昭和17年(1942)に関東大震災でたおれた二の鳥居の石柱を使用して建てられた。 

二の鳥居の石柱を使用した実朝の歌碑


3.寿福寺

寿福寺

真っ直ぐな参道

寿福寺は正治2年(1200)、源頼朝の妻北条政子が頼朝の死後、頼朝の父である義朝の邸宅跡に明庵栄西を招いて創建した寺で、鎌倉五山の第三位として栄えた名刹。

総門の右側に「生誕八百年記念 源実朝をしのぶ 一九九三年八月 平山邦夫書」の碑が建っている。
総門をくぐると、両側に杉や楓が茂った参道があり、真っ直ぐに伸びた敷石が奥の山門へと続く。
いつ訪れても静寂な空気に包まれ、いかにも禅寺らしい静けさである。

寿福寺裏山の山腹にやぐらと言われる横穴に北条政子と実朝の墓と伝えられる五輪塔がある。
また、俳人高浜虚子・年尾・星野立子もここに眠っている。

北条政子の墓

実朝の墓


4.星野立子

明治36年(1903)11月生まれ、高浜虚子の二女。
虚子に師事し、初の女性主宰誌「玉藻」を創刊、主宰。
同時期に活躍した女性俳人、中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称された一人である。
立子は昭和59年(1984)寿福寺に葬られた。 

雛飾りつゝふといのち惜しきかな

寿福寺星野家墓地内にある星野立子の句碑

高浜虚子の墓

昃れば春水の心あともどり
ままごとの飯もおさいも土筆かな
囀をこぼさじと抱く大樹かな
父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
しんしんと寒さがたのし歩みゆく
美しき緑走れり夏料理

立子は虚子の唱える花鳥諷詠の忠実な実践者であり、明るく伸びやかな感性の日常をうたっている。