👤大井恒行
第80回現代俳句協会賞2025年度受賞

あたたかい涙をためた病いの犬
  ― ヒデキ・スエモリに捧げるⅣ ―
蠅の 蜂の 踏みつけられる愛の孤児(みなしご)
手品師が身体(からだ)を消して地鳴りせる
遊女の胸を飾る魂 雪蛍
ぬくもりは一針ずつの許しの初日
聖霊(スピリット) にんげんを創造しなおす淑気

ボクが『水月伝』上梓後に改めて思ったことは、戦後俳句を切り拓いてきた俳人の多くが、まさに俳句とは何か?という問いを手ばなすことなく、有形無形に纏わりついている有季定型、それらの制度的強制、そのように信仰のように形成されてきた強迫観念に、忍耐強く対峙してきたのだということでした。

そして何よりボクは、有季・無季のそれぞれの優位性に着こうしてはいません。
それらは、ボクのなかですでに俳句(形式)に包摂されているからです。
ですから、ボクにとって俳句は、すでにあらゆる檻のなかに閉じ込められてはいません。
したがってボクの俳句のおもむくところは、「キミのつくっている俳句(苦)は俳句じゃない」と言われるかもしれないけれど、それでもボクにとっては、俳句でありつづけるより他ないものとして、書き続けられるだろうと、いまは確信しているのです。
ますます自在に……。

あたたかい涙をためた病いの犬 
― ヒデキ・スエモリに捧げるⅣ ―
5句を読む
👤水口圭子

末森英機について少し調べてみた。
東京生まれの詩人、アジアやヨーロッパ各地を旅し、特に東日本大震災の後は被災地支援を行いながら詩を作り歌っている。
敬虔なクリスチャンでもあり自らを「歌う狂犬」と言う。
5句は彼へのオマージュ。
俳句を読む時その背景を知ることは必要かという疑問もあるが、背景を知ることでより深く作者の意図を理解出来るのは確かである。

▶蠅の 蜂の 踏みつけられる愛の孤児(みなしご)

戦争や紛争が世界各地に起こり増えている。
爆撃や襲撃で街は破壊され瓦礫と化す。
犠牲になるのはいつも弱者、孤児も増える。
掲句、瓦礫の陰に水も食べ物も無くうずくまる孤児の姿が見える。
誰もかれも自分のことで精いっぱいで他所の孤児に手を差し伸べる余裕などない。
息も絶え絶えで死が近いようだ。
蠅や蜂が止まっても払う元気もない。
本来子どもは愛されるために生まれて来る筈。
愛に見放され死が唯一の安息の孤児、ただ愛の眼差しで抱き取るだけである。
「愛」の解釈が難しい。

▶手品師が身体(からだ)を消して地鳴りせる

「地鳴り」を地震の前兆とするなら、この手品師は地球の自然現象をつかさどる神的存在を言うのだろうか。
地球温暖化をはじめとする近年の地球の変動は全て人間の招いたもの。
手品師は人間に愛想を尽かして消えてしまったのか。
またはわざわざ「身体」と言って、自然消滅するほどに地球が変化してきたことを強調しているのだろうか。
いずれにしても自然破壊への強い批判が窺える。

▶遊女の胸を飾る魂 雪蛍

この「遊女」は幻影か。
現代でも生きるために体を売ることを生業とする女性がいるだろうが、時代を替えることで生々しさを消しているのかもしれない。
掲句を読んで「罪と罰」の娼婦ソーニャが浮かんだ。
体は汚れても清らかな魂で、ラスコリーニコフに老婆殺しの罪を説く姿。
この遊女もしかり。
「雪蛍」は聖女の魂の象徴。

▶ぬくもりは一針ずつの許しの初日

何か大きな罪の意識があり自分を責め続けている。
針の筵の喩えもあるが、針先で刺されるような初日に身をさらし痛みを感じることで次第に自分を許していく。
それをぬくもりと捉えるのは作者独自の感性だが、「針」と言われるとマゾ的要素を感じてしまう。

▶聖霊(スピリット) にんげんを創造しなおす淑気

人間は性悪説の通りだと思ってしまうこの頃である。
自国ファーストや排斥主義が擡頭し、他人を思いやる気持ちが薄れて来ている。
奪い合い殺し合い、力の強い方が上に立つ。
巷では詐欺や強盗などの犯罪が横行、つくづく人間は動物なのだと。
でもこのままではいけない!新春をめでる気配に満ちた中に聖霊つまり救いの主が現れ、人間を正しく創造しなおすと解釈した。
壮大な希望に満ちた発想に読み手の心が潤む。

 


👤水口圭子
第26回現代俳句協会年度作品賞2025年度受賞

おまじない         
朝霧の街はボレロの浮遊感
蟷螂の修羅の顔立ち動かざる
治らず死なず十六夜の月仰ぐ
無言館の壁の無機質八月逝く
ガザの子に翼の生えるおまじない

句作りについて、我が師石田よし宏は「自分をさらけ出せ」とよく言っていた。
自分をさらけ出すには自分を良く見るということ、つまり客観視することだが、実際には自分自身が一番見えにくいのかも知れない。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中に出て来る「かんじんなことは、目には見えない」という言葉は、見ることの本質的なところを言っていると思う。
心で見ることで現実の風景や物事の奥の真実が見えて来るのではないかと。さらに良く見ることは想像に繋がる。
必ずしも体験しなくとも句は出来る。
例えば戦争や大災害の報道を見聞きする度「もしかしたら私もそこ生まれていたかも知れない」と無関心ではいられない。
何も出来ないが苦しむ人々を思いやる気持ちで句を作れたらと考える。
実践はとても難しいことだけれど。

心の目を養いつつ情景に奥行きのある俳句を詠むために、適切な言葉を選べるよう研鑽を積んで行きたい。

「おまじない」5句を読む
👤大井恒行

呪(まじな)いと呪(のろ)い

水口圭子は、「俳句は破格の詩」を標榜した石田よし宏を核に創刊され、現在は石倉夏生率いる「地祷圏」の有力作家の一人である。
加えて、俳句つながりの縁というべきか、ボクの所属する「豈」の同人でもある羽村美和子の「ペガサス」、森須蘭の「祭演」の同人でもある。
どうりで水口圭子の名は、随分前から親しく知っているつもりで、俳句作品にも触れてきことになる。

それでも、その人の句にたいする批評や鑑賞は容易ではない。
それはどのように優れていると思われる批評や鑑賞といえども、当の作品の句の力には、到底及ぶべくもないからである。
断然、当の一句の方がいいに決まっているからだ。

今回の水口圭子「おまなじない」の五句についても例外ではない。

▶朝霧の街はボレロの浮遊感

下五で「浮遊感」と言い留められてしまえば、それ以上の言葉を、読者がいくら言挙げしたとしても、ボレロ(スペインの民族舞踊の曲)の「浮遊感」の断定のもたらす、普遍の感受の表出にはかなわないだろう。

▶蟷螂の修羅の顔立ち動かざる

下五「動かざる」と表現されれば、修羅のごとく思われた螳螂の顔の有様が、「動き出す」ことは無いのだろうか、と問うことなどできはしない。

▶治らず死なず十六夜の月仰ぐ

例えば、死に向かうことが、人間の目標だったとしたら、それ自体が不本意な営みであるという感懐が「治らず死なず」である。置かれた十六夜の月こそ相応しく、仰がれなければならないと思われるのだ。

▶無言館の壁の無機質八月逝く

無言館は、言わずと知れた戦没画学生慰霊美術館。
窪島誠一郎が若き戦没画学生の遺作を収集し、「無言の風景と出会うための旅」と述懐した、信州上田の美術館である。
ボクも何度か訪ねている。
水口圭子は八月に訪れたのだろう。
その壁は無機質だった(それでも、陳列されている絵や遺書の手紙などは決してそうではなかったはずだ)。
そのことが「八月逝く」の「逝く」の措辞に反映されている。

▶ガザの子に翼の生えるおまじない

イスラエルのガザ侵攻によるパレスチナ人の死者は、本年九月には六万五千人を超えたと伝えられた(その内、子どもは、国境なき医師団によると約半数にのぼる)。
翼が生えれば、その地獄のような世界から脱出できるかもしれないのに、という作者の願いが込められている。
しかし、それがじつに空しく、無力なものであるかも作者は知っている。
届かぬ思いだからこその「おまじない」。
呪(まじな)いも呪(のろ)いも同字。
平仮名に開いた水口圭子の術にはまっているのだろうか。