赤とんぼのサワサワ
👤太田うさぎ

 

鬼怒川に行って来た。

仲間と那須へ出かける予定だったのが直前に取り止めとなった。
そこで、代わりに夫婦で温泉でも浸かりに行くことにした。

新宿を出発したときは青かった空は、栃木県に入ったあたりから灰色を帯び、鬼怒川温泉駅に着いた頃はすっかり厚い雲に覆われていた。
スマホの天気予報を確認すると三時過ぎから雨になるらしい。
降られないことを祈りつつ、ライン下りの切符を買う。

祈りも虚しく、河原で乗船を待つ間に大粒の雨が落ちて来た。
飛び回っていた赤とんぼが次から次へと待合のテントに避難して来る。
支柱の間に渡したロープに一定間隔で止まって雨宿りだ。
観光地の生き物は人馴れするのだろうか。
間近に人がいても平気とは、物怖じせぬこと奈良の鹿の如し。
手を伸ばして背中に触れてみる。
逃げない。
中には尾を高く持ち上げる奴までいる。
気持ちいいのか?
お尻トントンされて喜ぶうちの猫か?
面白がっているうちに雨脚が弱まった。
「雨が上がりそうだよ」と傍らの蜻蛉に話しかけると、なんとそいつ、首を回して空を見上げたものである。
観光名所ともなると蜻蛉も人語を理解するのか。
本当に驚いたのだが、周りの人には虫に話しかける薄気味悪いオバサンと映ったかも。

結局雨は止まぬままに川を下った。
雨合羽のせいで身動きは取りにくいし、眼鏡の雨粒も拭えない。
それでも、水の上にいるのは気持ちがせいせいする。
途中ラフティングのグループとすれ違った。
あいにくの雨天に見舞われたのは自分たちだけじゃない、という一体感だか親近感だか分からないが、お互い無茶苦茶に手を振り合った。

舟を下り、送迎バス乗り場まで歩いていると、再び赤とんぼたちが現れる。
一匹が私の手に止まった。
この指止まれと指を立てたのでもなく、向うから自然に手の甲に着地した。
六十余年生きてきて、こんな経験は初めてだ。
軽くて繊細な足がくすぐったい。
背中を撫でさせてくれた上に、止まりにきてくれるなんて、嬉しすぎる。
君たちは鬼怒川の観光大使だ。

翌日は打って変わっての炎天。
ケーブルカーで山に登ったものの、暑い上にほぼ無風。
山頂に猿園があったが、猿たちも僅かな日陰を縫うように歩いている。
小蓑ではなく、空調服をほしげ也。
とっとと下山してビールで息を吹き返した。

旅行から10日ほど経ったが、手の甲には蜻蛉の足のサワサワがまだ残っている気がする。
もったいなくてあれから手を洗っていない・・・なわけはない。

川下る蜻蛉と空を一つにし うさぎ

太田うさぎ
1963年東京生まれ。「街」「なんぢや」同人
現代俳句協会、俳人協会会員
『俳コレ』(共著)、『また明日』