浮世床
太田うさぎ

世に美容室(ヘアサロンというのはどうにも気恥ずかしい)の数は多いが、気に入りの店を見つけるのは案外難しい。

今の住まいに越してきた当初、何軒か試したがしっくりこなかった。
ある日、駅前商店街の一角の小さな店が目にとまった。
洒落た構えだが、間口が狭く中が見えづらいので一見美容室とは気づかない。
これも何かの縁と、思い切って入ってみた。

現れたのは、ヒップホップ系の服に身を包んだ、やや強面の大柄な青年だった。
ちょっと怖そうだな、と恐る恐る椅子に腰かけた。
お互い無口なまま時間が流れたが、不思議と気まずくない。仕上がりも申し分なく、心の中で「次もここに来よう」と決めたのが10年前。
以来、毎月通っている。

夫婦ふたりで切り盛りしている店だ。
オーナーは第一印象とは裏腹に気さくな人柄で、奥さんは大きな目と明るい額が印象的な晴れやかな人。
髪を切ったり染めたりしてもらいながら、二人から地元のあれこれを教えてもらうのが、私のささやかな愉しみとなっている。

話題の中心はもっぱら飲食店関連の情報だ。

「駅前に新しくできたラーメン屋、どう?」と尋ねれば、「悪くないけど、太田さんにはちょっと重いかも」とこちらの胃袋の心配までしてくれる。
贔屓にしている蕎麦屋が道路計画で立ち退くと知ったのもここだった。
界隈では珍しく、良い酒を揃えていた店だけに移転は惜しい。
知らずにいたら、ある日突然姿を消していて愕然としたに違いない。

先日は、お子さんが通う中学校の体育教師の話。
お子さんや別の生徒の受けた仕打ちを聞くにつけ、教育方針に首を傾げたくなるような内容で、子を持たない私まで憤慨してしまった。

そうした世間話を家で得意げに披露するせいか、夫がにやにやして「それも浮世床で聞き込んだの?」と揶揄う。
店にはもちろん、ちゃんとした名前があるのだが、我が家では“浮世床”が通り名だ。
知らなくても困らない些細なことばかりだけれど、この“床”のおかげでこの町の息遣いを感じて暮らしているのだと思う。

若い頃は髪を切るためにわざわざ都会へ出かけたものだが、今は、気の置けない、普段着の付き合いが有難い。
10年のあいだに、あのご夫婦には三人目の息子が生まれ、犬を飼い始めた。
私は母を見送り、猫を飼い、そして再婚した。

これからの10年、小さな町にも私たちにもまた少しずつ変化が訪れるだろう。
それでも、浮世床には通い続けて、どうでもいい地元ニュースを仕入れては家で自慢したい。
年取るの、悪くないかも。

マラケシュの香油を髪に夜の秋 うさぎ

太田うさぎ
1963年東京生まれ。「街」「なんぢや」同人。
現代俳句協会、俳人協会会員。
『俳コレ』(共著)、『また明日』