やめるほどのもの
👤福岡日向子

高校生の時から俳句を書き始めて、十数年になります。
節目毎に、自分にとっての俳句の存在が変わるのを感じてきました。
高校生の時は、俳句は自分にとって全てであったように思います。
俳句部に所属しており、俳句甲子園に出ることが全てとは高校生ながらも考えておらず、将来につながるように俳句を好きでいたいと思っておりました。
松山で四年間過ごした大学時代は、身近に俳句や言葉に触れることができる環境に身を置きましたので、心のゆくままに俳句を書けるようになりました。
社会人になってからは、俳句は趣味であり、義務のようなものだと感じています。
義務というと、嫌々書いているようですが、そうではありません。
自分にとって俳句を書くことで自分を理解できることを認識しており、締切が来るたびに仕事で疲れていても自分と向き合わざるを得ません。
俳句があることで、思考を言語化することで、自分と向き合う時間を確保してきました。

締切というものが永遠に来なければ、自分は俳句を書かないのかもしれないと不安になることもあります。
締切が来なくても俳句を書くことができる人が、本当に俳句を好きな人なのだろうかと思うこともあります。
締切がなければ書かない自分ではないと信じ、己に負荷をかけるように締切を用意しています。
遅刻常習者になるときもあるのですが、必ず出しますので。

例え、締切に追われていたとしても、書いていて、楽しい俳句を書きたいと思っています。
句会でも自分の句を選びたくなるような俳句を作りたいとも思います。
それくらい、自分の俳句を好きでいたい。
そのためには、やはり書き続けることが一番大事だろうと思います。
友人から「俳句をやめようと思う」と言われたときに思いましたが、俳句はやめるものなのか?ということです。
始めたら、終わることのないものであると思っていますから。

先日、その友人に会った時、俳句のような物を書くことってやっぱりいいよね、と友人は言っていました。
どんなきっかけであれそう思ってくれたことが素直にうれしく、やはりやめるほどのものではないのだと思いました。

風死すよ
福岡日向子

七月のままならなさは犬の尻

わたくしであろうとすれば風死すよ
悲しくはならない夜のアマリリス
嗅ぎ合えば夜の秋とも違うにおい
涼しさの内さみしさの含有量
見られても恥ずかしくない蝉生る
生きている人の夢みる夏の雲
今夜未明紫陽花のあるところだけ

福岡日向子:1996年生まれ
「吟遊」「海原」に所属

 


通知センター
👤柊木快維

死んでから訃報がとどくまでの間(かん)ぼくのなかではきみが死ねない 吉田隼人

携帯の通知センターに友達からのご飯の誘いと旅客機墜落事故での死者数が並んで表示される。
僕は真顔のまま死者をスワイプで消去し友達をタップして「いいよー」と返信する。

あなたの訃報はインターネットの軽さと速さで僕に届くだろう、僕はあなたの死と並置されたマクドナルドのクーポンを使ってフライドポテトとコカ・コーラゼロを頼む、おもむろに店員へとQRコードが表示された画面を差し出せばそれで僕はお金を支払ったことになる、QRコードは日本人が囲碁を基に発明した、僕はそのことをとても誇りに思う。

ほら、あれなんだっけ、本屋行ったらトイレ行きたくなるやつ、って訊いたらすぐに、青木まりこ現象、ってあなたは教えてくれた、ヴィレヴァンでトイレに行きたくなったことはないから、ヴィレヴァンはたぶん本屋じゃない。

携帯の通知センターにご飯のキャンセルの連絡と戦争での死者数が並んで表示される。
僕は真顔のまま死者をスワイプで消去し友達をタップして「りょうかいー」と返信する。
あなたの訃報はまだ届かない。

軽率
柊木快維

あたたかな雨やこの世を降るかぎり
シネラリア死ぬまでは遠いですしね
軽さすなはち速さ瞼に似てさくら
花は葉に葉は花に歯に韮挟み
カフカ忌のサンダルひつかけて会はう
白夜あなたの訃報が届くまで眠る
笑ふとき片目瞑りし秋螢
くるみわるわるざわーるどいずまいん

柊木快維 2003年高知県生まれ
愛媛大学俳句研究会/短歌会、詩誌「浮遊」、ユニット「水界線」所属