ドルフィン
伊藤左知子
ストローをテーブルの上にポンと置き、袋をずり下ろすようにこじ開ける。ストローが裸になり、蛇腹状の紙袋が団子になって残る。そこに、ストローをスポイトみたいにして、ジュースをぽたりと落とす。すると、蛇腹団子はもぞもぞと伸び、まるで毛虫みたいに動く。たいして面白くもないが、十代の時間を持て余していた頃は、そんなことをした。
のりしろをコーラで濡らし夏見舞 左知子
学生の頃はこんなこともしたなと思い出し、句会に出したら「お行儀が悪い」とお叱りを受けた(でも取ってくれた)。ああ、そうか。わたし、あの頃、すこしだけお行儀が悪いことをしたかったのだと気付いた。大人になることへのささやかな抵抗だろうか。「だるいね」とか「つまんないね」とかいいながら、自堕落を装う自分に酔っていたのかもしれない。
「海を見ていた午後」という松任谷由実さんの歌がある。失恋ソングなのだが、主体はどうも悲しい自分に酔っている。彼との思い出のレストランに、ひとりで何度も来て、あのときこうすればよかったといいながら、ソータ水を飲むでもなく眺めて、その先に貨物船が通るのを見ている。幻想的な光景には、悲しいムードだけが漂う。
この歌に出てくるレストラン「ドルフィン」に初めて行ったのは、こちらも人生をこじらせていた十代の頃。わたしはクリームソーダ派だから、すぐにソーダは濁ってしまい、その先に貨物船などは見えなかった。でも、眺めのいいレストランで、よく晴れた午後、わざと退屈そうな顔をして過ごすのは、今思えば、心地よかった。子供だな、こじらせているなと思う。あの頃に比べて、今のわたしは、すこし大人になっただろうか。外見は大人を通り越しているが、内面はどうか。人生こじらせっぱなしのまま、あんまり変わっていないような気もする。たしかめるために、今年の夏は「山手のドルフィン」を再訪するのもいいかもしれない。
プロフィール
現代俳句協会会員。「豈」「ペガサス」同人。