五月の戸隠
橋本 直
ゴールデンウイークといっても、例年連続だと3日休めるくらいが関の山。なので、二泊三日でも楽しめる戸隠にいくことが多い。長く世話になっているご飯のおいしい宿があって、小林一茶も歩いた旧越後道をはじめとする森林の中を歩き回るトレッキングコースが充実しているので、一日歩き回っている。戸隠と言えば神社とお蕎麦が目当ての観光客が押し寄せていて、特定の場所ではそれはもう大変な賑わいぶりなのだけれど、そこをほんの少し離れてしまえば、歩道にもほとんど人が入ってくることがない一帯になっている。
ふだん車は乗らない生活なので、新幹線(約一時間半)とバス(約一時間)を乗り継いで行く。勝手知ったる所なので新幹線の予約以外はのんびり構えていたところ、今年の春から長野駅から戸隠に向かう路線バスが廃止になって、路線バスではなく観光客特化の事前予約制になっていたのを知ったのが出発の前日で、いささか慌てることになった。どこから予約できるページに入るかわかりにくいバス会社のWEBサイトをどうにか探し出し、予定の時間のバスが残席5のところで無事に席を確保。今回のこの変更でバス料金があがり、よくある路線用のちょっとくたびれたやつから長距離とか観光用の大型バスに化けていた。昔は善光寺北側の戸隠道(バードライン)の狭い旧坂を対向車が来るたび徐行ですれ違いつつくねくねと上っていたのだけれど、あの狭い道ではこんな大型バスは無理だろう。長野オリンピックの時に東側にループ橋を使って上っていく広い道が通り、しばらく二路線が併用されていたのが何年か前からはほぼループ橋経由だけになっていた。今回のこの変更で戸隠と長野駅を結ぶ通常の路線バスは消えてなくなったことになるのだけれど、自家用車を持たない地元の方々はどうしているのだろう。
長野駅前を出たバスがしばらく東に進んでから北の山道に入ると、ループ橋あたりまでは山藤の花があちらこちらに咲いており、そこから標高が上がるにつれて畑には林檎、山には桜の花が目立ちはじめ、さらに標高が上がると、林間のところどころに水芭蕉の群生が見えてくる。バスを降り、キクザキイチゲ(手元の歳時記になし)やショウジョウバカマ(晩春)、カタクリ(初春)が咲いたり咲きかけていたりするのを眺めつつ宿までの道を歩く。宿は標高約1300mの位置にあって、うまくタイミングが合うと連休中に庭に一面のカタクリが咲くのだけれど、今年は雪が多かったせいかやや遅れていて、ぽつぽつ花が開きかけているくらいだった。山の中に入ると、やはりところどころに残雪が残っていて、水芭蕉(仲夏)もまだ小さい。水芭蕉とよく一緒に咲いているリュウキンカ(手元の歳時記になし)も少なめであった。その割には、というとおかしいけれども、今年はさらに標高の高い山の中に入っても桜が見ごろになっていた。いつものことだけれども、目に留まる草花は歳時記的には春の季語を軸として、初春から仲夏まで幅広い。鳥類の囀は三春の季語だけれども、ゴールデンウイークは戸隠の鳥たちにとってもゴールデンウイークであるらしく、さかんに囀る声が聞こえる。秋の季語になってしまっている啄木鳥は鳴き声が特徴的なので鳴いてくれると位置がわかりやすく、ドラミングもよく響く。
戸隠の森の中は自然の音であふれていて、人の喧騒からは遠い。観光客は、何にも考えていないか酔狂な人でもなければ入ってこない。理由は熊がいるからで、トレッキングコースの各入口にはかならずクマ出没注意の看板があるし、森林植物園には連日熊の目撃情報が掲示されている。幸い戸隠山の熊は向こうの方でかなり人を警戒してくれているようで、直接お目にかかったことはこの数十年の間一度もないが、糞や熊棚(晩秋「熊の棚」、「熊栗架を掻く」)は見ている。クマと言えばアナグマ(三冬)にはたまに遭遇するが、タヌキをさらに間抜けにしたような顔で、逃げ方もなんだかどたばたしていて可愛い。テン(三冬)やサルは昔からいたが最近はあまり姿を見かけなくなり、キツネ(三冬)を見かけるようになり、今年はとうとう鹿(三秋)を見た。もっと標高が下がったほうではイノシシ(晩秋)も普通に出るようになっていて、長く通っているからこそ気が付く環境の変化がある。それでも、毎年かならずきまってサンショウウオ(三夏)が産卵にきている小さな水たまりには、今年も卵が無事に産み落とされていてなんだかホッとする。ところで、「熊」は近代に入ってから冬の季語として定められた。冬眠しているのに。
注記:文中の季語の季節は電子辞書版の「角川俳句大歳時記」で確認した。