戦争と戦後を刻む ―阿部宗一郎の俳句―

佐竹伸一

 今春、『山峡』という拙い句集を上梓した。「小熊座」の高野ムツオ主宰よりいただいた序文は次のように始まる。
「小熊座」は今年で40周年を迎える。その間、「小熊座」で活躍し、鬼籍に入られた俳人は数多い。中でも忘れ難い一人に阿部宗一郎がいる。1923年生まれ、太平洋戦争に従軍し、シベリア抑留も経験している。戦後、郷里の山形県朝日町の地方自治や産業、文化振興に尽力し『斎藤茂吉文化賞』などを受賞している。詩人でもあり、俳句は卑俗すれすれだが、反権力、反時代に根差した筋金入りで、その徹底ぶりは清々しいほどだった。<迎え火やさあさあ虜囚五万の兵><死して熄む兵の戦争遠雪崩>などは、戦争と平和が改めて問われる今日、再評価されるべき作品だと思っている。佐竹伸一は、氏を父のように慕って育ち俳句に導かれてきた。(後略)

 阿部宗一郎(以下、宗一郎)の経歴はこの序文の通りだが、若干の補足をお許しいただく。宗一郎は、小学校6年生の時に、担任の影響で宮澤賢治を知る。昭和10年のある朝、誰よりも早く登校すると、担任の青年教師が黒板いっぱいに「雨ニモマケズ」の詩を書いていたと言う。今のように賢治や彼の作品が人口に膾炙してはいなかった時代に、教室で句会を開いたという文学青年の担任から、子どもたちは賢治の博愛の精神を伝えられ主体的に生きることの大切さを教えられた。

 しかし、賢治のようにソウイウモノニワタシハナリタイと思った宗一郎だったが、大戦という時代の荒波から抜け出すことはできず18歳で関東軍ハイラル国境守備隊へ。終戦末期のソビエトの不意打ち参戦による猛烈な砲撃で、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図。ソビエトの参戦は、物資の略奪とシベリア開拓の労働力確保のため。若く体力があったればこそ生きぬくことができたシベリア抑留生活は、22歳から4年6か月の長きに及んだ。

 宗一郎は、大戦中に<明日は死と文焚く兵に天の川><明日の死に眠る兵の血吸う藪蚊>などの句を残したが、句作を再開したのは還暦以降のこと。出稼ぎ解消のために株式会社朝日相扶製作所を設立し、ニューヨーク国連会議場の椅子を製作するなど世界に名の知れた木工メーカーに育てあげ、経営を盤石なものとしてからである。ここで、社名にある相扶とは相互扶助の略であり、社名にも賢治の精神が色濃く反映されている。 

 260万人もの命の犠牲の上に打ちたてられた、「武力による問題解決の不行使、世界の範となる文化国家の建設」という国造りの柱・国家国民永久不変の目標が、「もはや戦後ではない、そんな時代は終わったのだ」の掛け声の下に倒れていき、またぞろ戦を肯定する国へと変貌してしまわないかとの懸念は終生止むことがなかった。その思いから、宗一郎は語り部の責務として句を作り続けたのであった。それでは、「戦中・抑留中(●)」と「戦後(〇)」に分けて、宗一郎の句を紹介していきたい。

第1句集『魔性』紅書房1994.10 所収

●<逆上し引金を引く汗が火となる><傷口のざくろ横目に弾丸を込める><俘虜の血を吸ってころころ虱かな><猫を煮て俘虜押し黙る冬の月>

〇<夏の月俘虜記に書かぬことのあり>

第4句集『君酔いまたも征くなかれ』一粒社 2006.9 所収

●<明日は死と文焚く兵に天の川><明日の死に眠る兵の血吸う藪蚊><被弾して飛び散る頤に柘榴咲いてる><灼熱の砂がどくどく兵の血を呑む> 

〇<夏の月ムンクの叫びうしろより><夏の月耳に砲声消ゆるなし><白鳥来る虜囚五万は帰るなし><シベリアは白夜と墓の虜囚より><花の詩に君酔いまたも征く勿れ> 

第5句集『迎え火やさあさあ虜囚五万の霊』一粒社 2008.9 所収

●<この花に学徒出陣「頭ァ右」><散る花の兵みな一銭五厘たり><被弾して失禁総毛逆立つ草いきれ><撃たれたる兵の目尻にあかのまま><虻の死のそれとかわらぬ兵の死よ><凍土掘れず草にて覆う虜囚葬>

〇<夢はまた武装解除の寝汗かな><生き残る兵の死蠅が手を合わす><冬木立死にそこねたる兵が立っている><あかのままあの子この子の征きしまま><死して熄む兵の戦争遠雪崩><みちのくはねぶた花笠ヒロシマ忌><迎え火やさあさあ虜囚五万の霊>

第6句集『出羽に青山あり』 文學の森 2013.3 所収

●<なぐられたなぐった兵の墓の夏>

〇<黄砂来る朽ちたる兵の骨の粉と><語られぬこと噛み殺すヒロシマ忌><語部のひとりまた逝く終戦忌>

 宗一郎は『君酔いまたも征くなかれ』に、「たかが俳句されど俳句、たかだか十七音とは言え、活字にして世に問うとなれば、平和に耽溺するあまりの余技よろしく、言葉あそびの技巧の優劣に一喜一憂する只事自慰の俳句など、わが句に限って、戦場の凍土に果てた仲間が許さないのである」と書き、<あいまいを和としこの国冬の靄『魔性以後(注2)』><反骨は蝦夷の血すじまむし草『出羽に青山あり』>等、権力批判と反骨精神に基づく句を多く残した。また、『魔性Ⅱ(注1)』の<朱夏を来るルーズソックスのゲリラ達><ひとりでは死ねぬこの身に遠雪崩><桔梗の二夫にまみえて濃紫>、『魔性以後』の<赤銅の朱夏ひっさげて乳房くる><太刀持ちも雇えず殿様蛙鳴く>、『出羽に青山あり』の<母われを出羽に青山ありと生む>など、エロス(生)とタナトス(死)をテーマとする句も多く残している。
 最晩年の『出羽句信抄(注3)』には、<花八つ手ひっそり生きて逝く白さ><耐えぬいてぽとりと散りぬ寒椿><宇宙とは何ぞその名を秋桜><ひとの身はこうとは散れぬ大花火>など、明察と達観の境地を生きた証の句を多く残し、郷土の発展に尽力し博愛に生きた一生を締めくくった。2016年没。享年93歳。

(注1)第2句集『魔性Ⅱ』沖積社 1999.2
(注2)第3句集『魔性以後』一粒社 2003.9
(注3)第7句集『出羽句信抄』文學の森 2016.3