2.ドイツ俳句事情 - 定型について

小野フェラー雅美(平林柳下)

 先月に続き、ドイツ俳句協会(DHG)の季刊誌「夏草」Sommergras、148号(2025年3月刊)の会員作品を土台に、ドイツの普通の俳句作者がどの程度定型にこだわっているかを見てみようと思う。会員作品の頁を一見すると、ニ句(二行/一行書き)を除いた全作品は三行に分かち書きされており、一応その形式に沿って作られているのが分るが、ドイツの俳句作者たちは日本語由来の五七五の十七音節(シラブル、音声学的には「モーラ」)にどの程度合わせて作句しているだろうか。

 令和5年の『現代俳句』2月号に堀田季何氏が『俳句の音韻』と題して書かれた中にアルファベットと比較した場合の日本語の音韻の独自性について言及しているのを興味深く読んだ。そこでドイツ人作者たちの定型感をご紹介する前に日本語とドイツ語の音節の長さの違いを一言ご説明しておきたい:
 皆さんご存知の「ドッペルゲンガー」は、ドイツ語から日本語に入った医学・文学用語。日本語では8音節だが、元のドイツ語のDoppelgängerは、Do-ppel-gän-gerと数え、4音節になる。ということは、ドイツ語の五七五の中には日本語以上の内容を盛り込むことや「音」で遊ぶことは可能である。が、四種類の文字(漢字+ひらがな+カタカナ+アルファベットや記号)を使う日本語のように、使われた文字同志が互いに触発し合う空間を同じ様に楽しむことは残念ながらできない。
 調べると、上記、DHGの季刊誌148号の会員作品44句中、忠実に五七五になっている作品は思ったより多く、9句あった。そして、音数は別として短長短になっているものは31句もあった。七年前の同誌を調べた結果も似た傾向だったので、同協会会員は結構真面目に日本を源とする定型詩を念頭に置いて作句しているといえる。
 575の三行の分かち書きでない形の二句の内の一句目は一行目七音、二行目十音の二行詩の形。残る一行書きの一句は五七五を一行にしており、日本で普通一行で書かれることを意識し、ドイツ語でも試してみている作者であろうと思われた。
 どのような俳句が作られているか、個人的に気に入った一例を示し、下に試訳を置く。

Erwachendes Gras
Jeder hängende Tropfen
spiegelt die Welt

       Volker Friebel

 

目覚める草
どの水滴も
世を映す

       フォルカー・フリーベル

 元句は5-7-4で、定型に近く、初五を萌え始めた草ととれば春だが、一日の気温差の大きなドイツの草原は、春も、初夏・晩夏、そして秋と、早朝びっしりと露を帯びる。水滴を露ととれば秋だが、明確な季語のない句だ。私は春の草原をイメージした。
 これを読むと、「芋の露連山影を正しうす」を連想する方もおられると思う。それは別として、今、これを読み、一般に政治性の高い当国を背景とすると、850万人弱の人口のドイツに300万人の難民が生かされている事、或いは、再び乱れだした世界が思われる。全てを映すことのできる露を乗せた草、世相を詠って残すことが可能な短詩、俳句、という深読みも、作者の傾向を知っていれば可能だ。
 試訳で初五を「草目覚め」とすれば定型の翻訳になるところ、そうしなかったのは、定型にすると時間的経過が入ってしまい、元句から離れるから。翻訳については8月に私見を述べたいと思っている。

 数十年来他言語圏に暮らしている私自身、日本語由来の五七五の「定型」、日本語独自のものを他言語に強いてよいものかどうか、と自問した時期があった。が、ここで見られるように、この日本での「短詩型」の本来の在り方(有季定型)に合わせて自分の言語(ここではドイツ語)で既に長く作句している人たちがいる今、決まった形で短詩を作り余計な枝葉を払う鍛錬を積むことは、作句手始めのあるべき姿ではないだろうか、と考え始めた。
 私は、俳句でも短歌でも、一応定型で無駄を払う努力を続ける事で短詩型に馴染むある程度の時期が必要だと思っている。ちょうど、陶工が同じ動作を何十万回も繰り返すうちに真の自分なりの造形を可能にするように。その時期を経た上での、軋みのある別な形を模索することは各々の自由だ。

ドナウより今年初めての郭公   柳下