由来
北村美都子
夏霧の深きを尋ね行きし径
滝裏に佇ち仙人になりかかる
真清水のひかり太古の日の光
夏がすみ土偶は遥かより生れて
巨岩の瞑想ふくらみては滴る
鏡池涼しく由来語り継ぎ
水底の想の言伝つ花はちす
雨音のはしる坂道六月の
音もなく奪はれてゆく牡丹雪
地を打ちてこそよ白雨の全形は
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百字鑑賞
北村美都子「由来」十句鑑賞
井口時男
夏のある日、霧の中の径から始まって、滝や巨岩や池を眺めたり白雨に遭ったりしながら、海の見える地点にまで至る徒歩行の連作として読める。句の順序は実際の徒歩行の順序かもしれないが、作品の秩序としてもよく構成されている。総題は「由来」。表題作の六句目では鏡池の由来だが、連作全体のタイトルに格上げされたとき、鏡池という具体が消えて、ただ過去から現在へとつながる時間の奥行きまたは経路、すなわち「径」だけが残るのである。
夏霧の深きを尋ね行きし径
霧の中を歩く。何を尋ねるのか。目的はあたかも霧の深さ、奥行きを探ることそのものであるかのようだ。霧のために視覚情報はほとんどない。だから回想の焦点もその歩行の「径」、すなわち経路。「径」とはそれ自体が時間的なものだ。そして十句中、この序を兼ねた一句だけが過去形。全体が一連の連作なら、現在形の二句目以後も、実はすべてこの回想の中の景物だ、ということになるだろう。事象の輪郭をあいまいにする霧は回想の時間の始まりにふさわしい。
滝裏に佇ち仙人になりかかる
一句目の霧が変じて滝となる。滝壺周囲のすべりやすい径を通って滝の裏に回る。細かい水の粒子を浴びながら、水の匂い、苔の匂いの中に佇めば、現実世界は水の簾を隔てた向こう側。仙人は「径」ならぬ「道」、道教の法術を身につけた世外の人(花果山水簾洞を拠点とした孫悟空もその名の通り仙術に通暁した道教の行者)だが、いま語り手も水簾の遮幕(紗幕)に隔てられて半ば世外の人、事物の現前性から半歩身を引いた人なのだ。
真清水のひかり太古の日の光
初めて現実の光が出現する。しかし、このきらめく光をも「太古の日の光」と受け止めるのがこの語り手だ。現前する光も、「太古」からの長い長い時間の奥行きを帯びてここにたどり着いたのである。この時間の奥行きは、いわば「日の光」というものの想像され内面化された「由来」である。ここでも語り手は、時間の奥行きの意識によって純然たる「現在」からすこし身を引いている。
夏がすみ土偶は遥かより生れて
冒頭句の霧は光を浴びてあたたかなかすみに変じた。土偶が出土するような土地らしい。いま・ここに顕現した土偶は「太古」からの不可視の「由来」をまとっている。
巨岩(おおいわ)の瞑想ふくらみては滴る
流動する水の景から動かない巨岩へ。動かざる巨岩を「太古」からの不動の瞑想者に見立てた。「ふくらむ」は巨岩の様相を踏まえた擬人法だが、巨岩に内面という奥行きを付与した。「道(タオ)」を思索する「仙人」のイメージがかすかにつながっている。「ふくらみては滴る」は瞑想者の呼気吸気を示す静かな肺の動きのようで、瞑想者の内面性が肉体化されたイメージ。「滴る」はまた、この巨岩に水のイメージを添えている。
鏡池涼しく由来語り継ぎ
岩から再び水へ。「鏡」は「ひかり=光」を受けた名前だろう。水鏡だ。では、「由来」を語り継ぐ主体は誰か? 鏡池そのものが「語り継ぐ」かのようだ。たしかに、伝説とは本来、現にある事物に託して語られるものだ、という柳田国男の所説に従えば、語り継ぐのは人間だが、人間をして語り継がしめるのは鏡池という自然物そのものなのだ。
水底の想の言(こと)伝(づ)つ花はちす
蓮の花は鏡池の実景だろう。しかしここでも眼前の花を水底という不可視の「奥」からの解読不能な音信の表現とみなす。外界を反映させる水鏡は水底を見せないのだ。「言伝」と名詞も可能なところを敢えて「言伝つ」と動詞化した。主語は? 隠れた水底で何が何を想う?
雨音のはしる坂道六月の
水のモチーフは雨に変じた。回想による内面化を帯びていた景が、ここで初めて実景化する。この現在は奥行きも内面化もない現在である。だが、それでも雨そのものという資格の現前性は回避され、雨の「音」へと聴覚中心にずらされている。
地を打ちてこそよ白雨の全形は
いよいよ雨そのものだ。亜熱帯化した近年の日本は「夕立」や「白雨」という詩情をたたえた季語を使いにくくなったが、この句は白雨というものの「定義」のかたちをしている。雨は現に激しく地を打っているのだが、これでこそ「白雨」の本質本情の顕現だ、と興じる心にはなおゆとり(事象への距離)がある。
一雨後の海見えている蝸牛
白雨が過ぎて、初めて生き物が出現した。小さな蝸牛。その彼方に大きな海。広々とした水の大景。十句目にしてやっと視界が開けたのだ。こうして霧に閉ざされた山中から始まった徒歩行はくっきりとした空間的眺望を得て終わる。
以上十句、強いて一句だけ選ぶなら「巨岩の」を選ぶが、何より連作としての絶妙な構成と展開に舌を巻く。わかりやすくロードムービーみたいな展開だといってもよいが、山中の霧に発して、水のイメージをひそかな通奏低音として、海すなわち水の大景が開けて終る。その間、一句ごとに描写性と内面化の配合度合を微妙に推移させ、夏の季語のヴァリエーションをあしらい、五七五の定型を守りつつも句跨りや倒置や切断的二句仕立てのリズムを用いたりして、句形も多彩に変化し続けている。実に繊細巧緻な設計。感服した。