WEB版『現代俳句年鑑2025』を読む
花谷清選(現代俳句年鑑2025 P44~P74より)
特選句
象番は誰だったのか明易し F よしと
夏の夜の明け方、ふと目覚めた。うつらうつら夢を見ていた。意識は模糊としている。さっきまでの夢に〈象番〉が確かにいた。よく知っている人物のようにも感じるが、誰だったのか判然としない。〈象番〉は一体何をしていたのだろう。象は巨大なものの象徴である。この句は、〈象番〉の正体への問いかけを端緒として、より大きな存在への、より深い問いを喚起する二重構造をとっている。世の中は、われわれに理解しがたいもので満ちている。
秀句5句
山鳩が山鳩といれかわっている 赤野四羽
鉄色に+は毀れ夜の銀河 家藤正人
元日の半島半死夜が来る 井口時男
鳥一羽過ぎてつめたき空となる 伊藤政美
図書館の傘立てに挿す捕虫網 うっかり
1句目、山鳩がおなじ種の山鳩と入れ替わっても、大局的には何も変わらない。これは人間の集団についても当てはまる。
2句目、毀れている鉄色の+は、ネジの頭の溝であろう。小さなネジから、大きな銀河への飛躍が印象深い。
3句目、元旦に地震の起きた石川県の能登。夜が訪れる。〈半島半死〉が、震災の被害の程度を表していて端的である。
4句目、一羽の鳥が大空を過ぎ去り、あとに残された空が冷たい。たった一羽の羽ばたきにもかかわらず、空にはいのちの温さが感じられた。
5句目、子供だろうか、大人であろうか。昆虫図鑑を調べるのだろうか。図書館の傘立てに捕虫網を挿した人物像を想像させる。
太田うさぎ選(現代俳句年鑑2025 p143~p179より)
特選句
舌伸ばし舌を鍛へる春隣 田中優子
出だしの「舌伸ばし」が意表を突く。何事かと思えば、これは舌のトレーニング。舌の筋力を鍛えると、口内環境が整い、二重顎も解消できるなど、美容や健康に効果があるそうだ。とは言え、鏡の前で「べー」と舌を突き出す姿には、どこか滑稽さが漂う。「春隣」という季語には間近な春の訪れへの期待が込められている。希望に満ちた季節感が健気な努力と絶妙に重なり、句全体に明るさや愛嬌、そして前向きな力をもたらした。体のほんの一部に目を向けながらも、そこに宿る生命力の芽吹きを感じさせるのがいかにもこの時期らしい。
秀句5句
助手席にヒッチハイカー麦の秋 髙堀 煌士
ぼろ市や買ふ気になりし客屈む 谷川 治
白湯飲んで体すみずみ月あかり 月野 ぽぽな
キンチョール手にさまよへる夏館 仲 寒蟬
風にみなたてがみのある夏野かな 中村 正幸
1句目、アメリカ中西部を舞台にしたドラマの一コマのよう。二人を乗せた車を包む広大な麦畑が目に浮かぶ。
2句目、売り物が地に広げられているのがぼろ市らしい。冷やかしから本気への心境の変化を「屈む」という動作に読み取った。
3句目、白湯が沁み渡る様を月明りと捉えた詩情。浄化作用は読者にも及ぶ。
4句目、「さまよへる」が亡霊めくが、手にしているのはお馴染みの殺虫剤。夏館の清々しさに妙味。
5句目、吹き過ぎる風に青野を疾走する馬のイメージを重ねた。若々しい一句。