写真提供:山本 亮

「わたしの1句」鑑賞   渡辺和弘

 カルガモの雛が2羽道を渡ろうとしている。アカツメクサと思しき花がその先に一輪咲いている。そんな一葉の写真より得られるイメージや発想を言葉にすることの難しさを思ってしまう。

 作者、小林貴子はこの難しさを、きちんと一句にして無限の可能性を求めているかのように表現しきった。しかも、動詞を多用し、リズムよくのびのびと目前の光景を表現し、そこから自らのフィルターを通して一句を完結している。

 動詞一語一語は断定しているので、強いイメージを伴うが、その連続が心地よい響きとなって読者に伝わる。この自在なる発想を,例えば感覚の良さであるとか、対象を捉える鋭さ等のことばでもって語るのはむしろ不似合いで逆に拒絶しているかのように思えてくる。

 動詞ばかりではなく、一句の要は助詞「を」にある。上五と下五に用いているが、上五は、実際に写真のカルガモの雛の一羽が口を開けている姿を素直に「声を」と表現しているが、下五は実景ではなく、独創とも言える表現に徹している。「花を」かぐのはイメージに他ならないが、この断定にこそ作者の存在を示しているといえる。

 YouTubeの「ハイクロペディア」の「小林貴子の十句より」において興味深いことを話していたが、「出たとこ勝負」の思いを大事にしていることは、句歴からの思いに他ならず、このことをはっきりと話すことが出来ることこそが、この作品に繋がっているのではないかと思う。こうしたことを、はっきりと言える姿勢こそが小林貴子なのだ。

 想像力は、目の前に存在しないものや未来をイメージする力で、発想力は新しいアイデアを生み出す力である。そして,創造につながる。この循環をこの作品から得られるのは、小林貴子のこれまでの句集を全て読んでの思いである。「花をかぐ」は、大きな意味においての創造であろう。次なる作品を待ち遠しく思うのは筆者のみではあるまい。