一句評  大類つとむ

台風の奥に塩壷冷えており

 私はこの「荊棘」に大変な衝撃を受けた。
これまで「陸」誌をはじめ「黒船」「東海」などの句集などで長く見てきた中村和弘先生の句のイメージとどこか異なっていること。そして読み進む一句一句が、これまでに体験した事のないとてつもないものが身体の底に入ってきたことである。そう、正に「おどろ」そのものである。
 近年の私の作句は万太郎をはじめとした文人俳句のようなものに傾向し、そのような句をつくりそれが自分の句と思ってきた。
しかしそれは違っていたのではないか。寧ろ避けていたのではないか、逃げていたのではないかという衝撃である。深く切り込んで人間、非人間的なものを捉えることを追いやってきたことを恥じねばなるまい。「荊棘」全416句。重いなぁー。

 

一句評 角谷昌子

麦秋の白濁したるホルマリン 

 熟した麦の収穫時期である麦秋からは、一面金色の麦畑で風にそよぐ穂と初夏の眩しい陽光が見えてくる。充実した気持ちのよい季節である麦秋とホルマリンという標本や殺菌・消毒で用いられる液体とを取り合せた。
ホルマリンは通常、無色透明なので、白濁しているのは、古くなっているからだろう。長く放置されたので、中の標本も劣化しているのかもしれない。博物館の隅の棚ですこしブヨブヨになった魚類や爬虫類の標本が思い浮かぶ。さらには、ハンセン病患者の人工中絶胎児が、白濁した液体の底に沈んでいる映像まで浮かび上がる。
和弘作品には、明と暗、陽と陰、光と影が組み込まれているが、それらは決して相反する要素ではなく、容易に反転することに思い当たる。麦秋の明るい稔りの季節に対して、経年劣化したホルマリンは白濁し、中に保存していたものは、やがて組織まで衰えてゆくのだ。
 うまく整えられて軽やかな句が多いなか、混沌をはらむ和弘俳句は、いずれも異彩を放っている。作品は対象の暗部まで描出するが、決して重くれにはならず、さらりと捉えていながら、言葉の重層性に惹かれて一句ずつ立ちどまってしまう。
 加藤楸邨は人間の根源的な孤独感を「ひとりごころ」と表し、「真実感合」を主唱した。田川飛旅子は、視覚性・即興性の高い作品を目指した。楸邨、飛旅子を師とする和弘は、内奥を凝視して孤独と向き合い、実存の認識を深めていった。両師が混沌から詩情を掴み出したように、和弘も言葉によって新たに外界と内奥の景を造型し、彼らとは違った詩的創造の世界に挑み続けている。

 

一句評  小林貴子

朧夜の花瓶の水に死臭あり       

 小学生のころ、学級の花瓶の水を替えようとすると、水に浸かっていた部分の茎や葉がぬめっと溶けかけたようになっていることに気づいた。ちょっとした匂いもある。水に浸かっていることは快適な環境ではないのだなと、同情した。その時の心持ちが鮮やかに蘇る掲句。だが、その匂いを「死臭」とまでいう大胆な踏み込みは、読者の心にビリビリッとくる。まるで感電だ。
 句集『荊棘』の随所で、私は感電している。〈絶壁の絞り出したる氷柱かな〉は絶壁も氷柱も苦しげだ。〈抜け羽根に血脈の痕や端午くる〉の抜けた羽根にもう命はないが、何とも痛そうだ。〈ごみ鯰濡らしておけば生きておる〉命は飄々と勁いものだが、我々人間もごみ鯰と同じくらい残念な生きものだ。〈天体は柩のごとし花吹雪く〉昨日まで綺麗な星と見上げていたものが、今晩から柩に見えてはたまらない。頭木弘樹さんが「絶望名言」を紹介しているのに習い、私はこの句集を「絶望句集」と呼びたい。これは賛辞である。

 

一句評  中西夕紀

少年の胸に負鶏鎮もれり

 闘鶏をかなり以前東北で観戦したことがある。闘鶏場は掘っ立て小屋で、小さなリングの周りを客席が取り囲んでいた。薄暗い照明に初老の男たちが集まっていた。「鷹」の地元の人達が話を付けてくれて、2試合見せてもらった。一番前の席で並んで観たのだが、女性客はわれわれのグループの5人しかいなかったと思う。軍鶏を抱いて男が向き合うと、お互いに軍鶏を相手の軍鶏にぶつける様に投げて試合が始まった。軍鶏は高く飛びあがって相手に攻撃を仕掛けた。空中で突き合い、蹴り合い細かい血が客席にまで飛び散った。私達はあまりの激しさに身を引きながら飛び跳ねる軍鶏を眺めた。試合は行司が判定してあっけなく終わったが、軍鶏は怪我を負っているようだった。勝った方は飼い主に盛んに撫でられている。負けた方はサッサと籠に入れられ退場していった。
 人の娯楽のために戦わされ、怪我を負い労わってももらえない負け鶏を気の毒に思っていたのだが、この句を読むと、家に戻ればちゃんと労わってくれる飼い主がいることがわかって嬉しくなった。試合で気が立っていた軍鶏も少年の胸に温められて落ち着きを取り戻して甘えているのだろう。傷の手当の前にまずは抱いて労ってやっているのである。
「鶏の血を鶏が啄み土用なり」「抜け羽根に血(ち)脈の痕や端午くる」「軍鶏の飛びあがりたる椿かな」という句も句集の中にあった。みな軍鶏のことだろう。闘う鶏が中村氏の句材なのである。この句も少年よりも軍鶏の方に主眼が置かれているようにも見える。軍鶏の荒々しさを詠いながら、現実の厳しさの中で見せた弱さも描いている句を集中に用意してあるところに注目した。

 

一句評  西村我尼吾

人間の影こそ荊棘 夜の秋

 「人間の影こそ荊棘」という表現は、人間存在の実相をその「影」を通して浮かび上がらせる。量子力学は物質の本質を量子という超ミクロの視座で、粒子でもあり波でもあるという真実を我々に提示する。ロジャーペンローズが心は量子の場で生じると語ったように、人間は量子の集合体すなわち「影」なのではないかとこの作品は本質直感させる。影である人間に意識を生じさせることの荊棘。それは、物質から命が誕生したときの産みのための根源的な痛みに通じるものであろう。空海は世界はコトバが生むと声字実相義で書いている。「影こそ荊棘」という表現はそのようなコトバであり、正岡子規が唱えた非空非実の俳句と言える。非空非実の作品である芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」、正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」と同じくこの作品は非実在の中に確かなる痛覚を残す秋の作品である。