バニラビーンズ

伊藤左知子

 真夜中にシェーカーを振る。たまご、牛乳、砂糖、氷、それからバニラエッセンス。眠れない夜にミルクセーキが飲みたくなった。バニラの香りは、精神を安定させる効果があるというし。ふとマルセル・プルーストのマドレーヌのごとく、記憶が甦る。

 おさげ三つ編みの女学生だった頃のこと。夏休みに友人とふたりで冒険をした。一条ゆかり先生の漫画『有閑倶楽部』で紹介されていた、マキシム・ド・パリのナポレオンパイを求めて、銀座へ向かったのだ。サクサクのパイ生地とバニラビーンズの入ったカスタードクリームが絶品なのだという。私たちは初めて知ったバニラビーンズという言葉の響きに魅了された。

 自宅から片道1時間半かけて辿り着いた大人の街、銀座。緊張しまくりのふたりは、まず有楽町の映画館を目指した。映画を観てケーキを食べに行こうという計画だった。お目当ての映画は『007』。当時のジェームズボンドが誰だったのか、もうすっかり忘れたが、地元の映画館とは比べ物にならない大画面で観るアクション映画は迫力満点だった。

 映画を観終え、いよいよ聖地巡礼である。当時、そんな言葉はなかったけれど。とはいえ類は友を呼ぶの方向音痴のふたり。銀座三丁目の交番でレストランの場所を聞き、地下道を通ってようやく辿り着いた重厚な扉が神々しい。赤いオーニングに『MAXiM’S』の文字。勇気を出して入店。初老の店員さんに、赤い絨毯の店内へ案内され、真っ赤なソファーに座る。

 注文はナポレオンパイと紅茶のみ。私たちのお小遣いではそれが精一杯だった。夢に見たナポレオンパイの登場に、声には出さなかったが、「うわあ」という顔をするふたり。いや、声も出ていたかもしれない。「どうぞ、ごゆっくりお楽しみ下さい」という店員さんの笑顔は、どことなく孫を見るような眼差しだった。

 漫画に書いてあったように、パイ生地はサクサクで、甘い香りのカスタードクリームには黒いつぶつぶが見え隠れする。これがバニラビーンズなのね、そうなのねと、口に運ぶたびに私たちは顔を見合わせて笑みを浮かべた。

 幸せなひと時だったなあ、あんな風に感動することはなくなったなあと、ミルクセーキを飲みながら思う。バニラビーンズじゃなくても、人工香料の安いバニラエッセンスもそこそこいい香りで、今の私はこれで十分と思ってしまう。でも、すこし哀しいような、そんな眠れない夜だった。

夜更かしのショートケーキの苺だけ   左知子

 


ある日のケーキ