「現代」俳句から「現代俳句」へ
林 桂
「現代俳句」の言葉で忘れがたいのは、高柳重信の『現代俳句の軌跡』(昭和53年)の「あとがき」である。長くなるが引用する。
近代の俳句史の中で、この新興俳句運動ほど不幸な運命を担ったものは、他に例を見ないようである。きわめて困難な状況にもめげず、俳句形式にとって重要な多くの問題提起を次々と行いながら、それが治安維持法違反という汚名を被せられて弾圧されてしまうと、時の俳壇は一斉に特高警察の説くところに追随しようとし、しかも、その態度は戦後になっても一向に変更されなかった。そればかりでなく、明らかに新興俳句が開拓し、俳句形式のために新しくもたらしたものさえ、みな後続の俳人たちの功に帰してしまったのである。
ちなみに、新興俳句運動が弾圧されたとき、現代俳句を推進したことが罪科の一つに数えられていた。そのため、当時の俳人たちの多くは、もっぱら現代俳句と無関係であることを力説し、ひたすら保身に努めたのであった。しかし、戦後になると、その様相は一変する。それらの俳人たちは、いったん放棄したはずの現代俳句という名称に強い執着を示しはじめ、そこから新興俳句運動の系譜を極めて意図的に排除しながら、それを遂に簒奪してしまったのである。いったい、こんな不正が許されていいのであろうかと、そのことばかり久しく僕は思いつづけて来た。
戦後「現代俳句」は、時代を簒奪する力を持つ言葉となって流布する。手元に六冊の文芸辞典、俳句辞典があるが、そこに多数の現代俳句の言葉を含む項目が立項されているが、それは書名であり雑誌名である。「現代俳句」そのものを立てているのは二冊だけである。『増補改訂版新潮日本文学辞典』(1988年)、『現代俳句辞典』(2005・三省堂)である。新潮社版は平井照敏、三省堂版は仁平勝が執筆しているが、圧倒的に新潮社版の方が詳細なので、今はこれに従って一瞥する。冒頭平井は「現代」について、その発祥の時期についての様々な見解について分類俯瞰している。(一)昭和(二)「馬酔木」独立(昭和6年)以後、(三)戦後(昭和20年)(四)社会性俳句以後(昭和28年)。また(五)〈注・林〉正岡子規以後の近代俳句を同等に呼ぶこともあるとする。平井は(三)説を取り、これをまた四期に別けて詳細する。かくも多様な「現代俳句」の起源説があるのは、現在ただ今の「現代」から遡って串刺できる共通の価値観があると判断されるからであろう。平井は、その中から執筆時点の「現代」に最も直接的な関係があると判断する「戦後」からの「現代俳句」を選択したのであろう。
平井、仁平は、「現代俳句」の起源や潮流について記述するが、「現代俳句」とは何かという記述ではない。では、現在の「現代」にまで及ぶ「現代俳句」の価値とは何だろう。「現代」の舟に乗せる価値とは何なのだろう。「定型詩」は、基本的に引用によって成立する詩歌である。短歌も俳句も、先験的に意識の中に存在する「定型」を引用しながら、時に寄り添い時に反発しつつ、摺り合わせを行って、一回性の表現を指向して書きとめる詩である。やっかいなのは、何を引用とし、何をしないかである。
(五)の正岡子規を「現代」の出立とするのは、「俳句」と呼んで切り出した形式が、未だに現代性を持っているからであろう。私たちは少なくとも、子規の提示した形式を引用しつつ書いている。「旧派」が俳諧式目や従来の世界を引用の対象にしていたのに対し、子規は「俳句」の韻律を引用しようとした。「写生」は、言わば近世的なかつての世界を引用から外し、近代的な写真のような眼で、俳句の韻律を満たそうとする試みであったろう。ここで生まれた「現代」の意味を最も深く理解し、言い止めたのは、坪内稔典の『正岡子規◆俳句の出立◆』(昭和51年)「後記」であろう。
近代の俳句――子規によって出立した俳句――は、「非定型性」としての「定型詩」というその在り方を、言葉の現実の中で、さまざまに問い直してゆくことが殆ど唯一の存在理由なのではないだろうか。俳人はしばしば形式の一回性に賭けると言う。一回性に賭けることは、「非定型性」としてある現実の迫真性の中で、この形式の働きを発揮するということだろう。つまり、この形式の過渡の詩としての性格を徹底することである。俳句形式を死守する意志などが、一回性に賭けることであってはならない。
俳句形式を「動体」の「過渡の詩」として定立したことが、子規の「現代」である。それは以後の新傾向俳句や自由律俳句の展開に裏付けされているとも言える。しかし、「写生」の方法が、俳句の内実を充実させるのは簡単なことではなかった。それは当時の「ホトトギス」のアンソロジー『春夏秋冬』(明治34~36年)を見ても判然とする。
(二)の「馬酔木」独立(昭和6年)以後が、第二の「現代」と言えるかもしれない。水原秋桜子の「『自然』の真と『文芸上』の真」(「馬酔木」昭和6年10月)が、言葉による表現の自覚化を促す切っ掛けとなった。川名大は、この俳壇的な定説は以後の表現史的な展開に裏付けられるという。表現におけるヒエラルヒーのトップが「ホトトギス」から、新興俳句に明確にシフトしたという。「その相互影響の下に新しい感覚や表現を目ざす新詩精神〈エスプリ・ヌーボー〉の競合が盛んに試みられた」(『昭和俳句の検証』(平成27年)とする。荻原井泉水の自由律の無季とは別に、連作問題を契機にしつつも、無季へ展開していったのは、第一次産業を基盤として閉じた有季的な世界観から、二次産業三次産業を背景とする都市社会の表現を俳句の課題として獲得したからでもある。それは、子規の「写生」が既に内包していた問題でもあったが、「現代」に対応するための必然的な方法の獲得であったはずである。
冒頭の高柳重信の「現代俳句」は、戦後の「現代」の問題として提示されている。戦前、戦後の状況的な断裂をはさみながら、戦後の「現代」は、戦前の新興俳句の「現代」の展開に連なるもののはずであり、それに必ずしも呼応しない戦後の「現代俳句」の内実に意義を申し立てているのだ。戦後の多くのアンソロジーは「現代」の名を冠しながら、新興俳句を注意深く排除しているということなのだろう。戦前の新興俳句の「現代俳句」の罪科は見直されずにそのまま放置されているというのだ。
戦後の「現代俳句」の最初の超克課題は桑原武夫の「第二芸術論」(「世界」昭和21年11月)だったろう。俳文学者潁原退蔵は、その反駁の軸に第一芸術だった芭蕉の評価を据えた。言わば芭蕉から始まる「現代」の提示だろう。高橋睦郎の句集『花や鳥』(2024年)の「跋」に「発句の定義を積極的にしなかつた」芭蕉の言葉の真髄を「用であつて體ではない」と喝破しているのに通じる。「芭蕉一代の表現行為を継承しようと志すなら、その為事を尊敬しつつ、各人自分一代の為事を志さなければなるまい」と言う。これを「現代俳句」に引きつけて言えば、俳句定型の器は、その時々の「現代」に向き合うために、「現代」を盛れる各人の透明な器として用意する必要があるということだろう。かつて盛られていた「現代」を「史」としつつも、書く「場」の俳句の現在では、「現代」は盛る行為の中にある。何事かを「體」として言い止めて俳句の静体をイメージするのではなく、動体として生き生きと認識しておくことが、私たちの「現代俳句」であろう。戦争体験と向き合い、「第二芸術」論と向き合うことで出発した戦後の俳句が社会性や前衛に対峙したのも、この「現代俳句」の認識があったからであろう。私たちはその行為を心に落とし込みながら、私たちの「現代」に向き合うことで「現代俳句」とは何かを書くことで表現する以外にないだろう。
最近、詩人、歌人、俳人、柳人が集う会議に参加した。そこで、若い歌人や柳人の評価軸が社会性、批評性にあることを改めて感じた。それは戦後俳句から遠く歩んできた現在の俳句で希釈されてしまった問題意識のようにも思われた。「アナクロニズム」(夏石番矢評)の意匠を纏った三橋敏雄の俳句文体の根底には批評性があった。むしろそれを際立たせる方法として「俳諧的技法」(坪内稔典評)も有効だったのだろう。この批評性や社会性の根を個人の中に深く下ろしておかないと、殊に俳句のような短い形式は危ういだろう。戦中の「日本文学報国会」に絡め取られた俳句は、その時代にあっては批評性や社会性の発露であったと認識されていたかもしれない。しかし、この発想の核は「国体」であって個人ではない。青年の個人に発した「現代俳句」は罪科であった。戦後の「第二芸術」による批判の背景には、戦中の俳人の振る舞いへの反発があったとも聞く。もちろん、個人に発する俳句は常に弱者の言葉である。これは俳句に限らない、文学一般にも言えるだろう。また、そのことで社会に何事もなすことはない。しかし、それが出発点である。俳句形式は、それを忘れやすい小さな器かもしれない。言わずもがなではあるが、俳句形式に盛る「現代」は、個人の言葉に発する「現代」である。俳句は、その葛藤を失っても成立する危うい形式だろう。若い歌人や柳人の社会性や批評性に対する晴朗な信頼感の言葉を聞きながら、俳句を書く身には複雑な思いがあった。自身の問題でもあるが、「現代俳句」は、「社会性俳句」や「前衛俳句」を超克しようとした現在にいるだろうか。