不随意筋
田辺みのる
ドローンは武器か白鳥ひかり来る
春昼の千手の指や寺にオルガン
腓返り芽吹きやまざる戦火の地
ビール工場流れ見学者は泡
残暑厳しく躾らる不随意筋
「不随意筋」鑑賞
外山一機
ドローンは武器か白鳥ひかり来る
近年の戦争においてはドローンの使用が進んでいる。ロシア・ウクライナ間の戦争においても同様である。しかし、ドローンは生活の利便性を高め、ときに命を救う手立てでもある。白鳥はシベリアやカムチャッカ半島あたりからやって来るのだろうか。武器としてのドローンが冷たく光る国家から飛来する白鳥は、しかし美しく輝く。
春昼の千手の指や寺にオルガン
野澤節子に〈春晝の指とどまれば琴も止む〉があるが、春昼ののどやかな静けさのなかでこそ指先は麗しさを増す。衆生を救うための無数の指もまた。寺にオルガンがあるのはミスマッチのようだが、むしろ、このミスマッチな感じが俗世のすぐ隣にあってあたたかく見守る寺のありようを映し出しているようでもある。
腓返り芽吹きやまざる戦火の地
戦火の激しい地にあっても、季節が巡れば目が吹き出す。それは人間のいとなみ程度では止めようのないほどの力強さだ。もう一歩踏み込んで言うなら、それは突然の大地の「腓返り」のようでもある。「腓返り」が人間の心身を否応なしに停止させるものであるのなら、芽吹きもまた、たとえ一時的にであれ戦火を抑えるものであればよいのだが。
ビール工場流れ見学者は泡
ビール工場を流れていく見学者の列が、いつしか水の中を流れる泡へと転じていく。のみならず、この「泡」は「ビール」の泡へと回収されていくような、イメージの循環構造がある。このイメージの変転は、あたかも工場のベルトコンベアのように無機的になされるが、それは「ビール工場流れ」のような、助詞の省略による突き放した書きぶりによるものでもあろう。
残暑厳しく躾らる不随意筋
文法的には「躾らる/不随意筋」なのだろうが、「躾らる不随意筋」と読みたい。本来どうにもならないものを支配しようとする矛盾と徒労は、それ自体いかにも人間らしい。厳しい残暑のなかで厳しく躾られた不随意筋の持ち主はたくましくも哀感に満ちている。
ぜんぶ
外山一機
それで何 春のさかなはぜんぶ光る
雪の日のあとの日にいる手をつなぐ
何度めかの暮らしがあって春のピザ
雪の日のきみにからだがなければなあ
豆苗すくすくもう会わないでおきましょう
外山一機「ぜんぶ」を読んで__俳句はぜんぶそれで何
田辺みのる
それで何 春のさかなはぜんぶ光る
確かに、春の魚はぜんぶ光る。白魚、公魚、桜鯛、鰆。鯰によく似た黒っぽいゴンズイですら4本の黄色いストライプで光るかのようだ。しかしこのような解釈は最初から拒否されている。「それで何」、いきなり拒絶される。「ぜんぶ」は全部である必要はない。だって春なのだから。魚はみな濡れている。春の水は光。春はぜんぶを光らせる。
雪の日のあとの日にいる手をつなぐ
雪国に育っても、雪が降ったその日にたちまち体が対応できるわけではない。初雪はそのこと自体が新鮮だ。むしろ雪の日の引き締まった空気感はその「あとの日に」肌に意識されてくる。つなぐ手のあたたかさも。自分が確かに今ここに「いる」ことを雪の日のあとの日にこそ感じられる。
もしかしたら雪の日に彼女と喧嘩したのかも。仲直りした「あとの日」なのかもしれない。
何度めかの暮らしがあって春のピザ
春は進学、就職、転勤などの多い年度の変わり目。引っ越しも多い。新しい暮らしが始まる第一歩が引っ越しだろう。荷物が段ボール箱の中に収まったままの状態で、宅配ピザをオーダーした人も多いだろう。不安と期待の中、新居での初めての食事は記憶に残る。その人にとって「春のピザ」は春になるたびに思い出される季節の言葉だ。
雪の日のきみにからだがなければなあ
寒さは身体の表情を奪う。言葉は短くなり、雪の日の悴んだ手は感覚を失い、分厚いコートに包まれた彼女の体温は感じづらい。コートのフードは視界を狭くし、フードに積もった雪が、近づくことを拒否する。
「からだ」って何だろう。五感はすべてからだの働き。身体は感情に作用する。「本当の気持ちを知りたい」と言ったとき、その「気持ち」は感情とは少し違うように思う。雪の冷たさ、雪の日の寒さが身体に作用し、感情は頑なになる。いっそからだがなければ本当の気持ちが見えてくるのかもしれない。
豆苗すくすくもう会わないでおきましょう
豆苗は収穫しても7日から10日ほどで再生する。収穫の際に一番下の葉を残して刈り取ればそこからまた伸びてくる。2回目の収穫はできるが3回目はない。その収穫の日が近いのであろう。
1回目の収穫はスーパーで買ってきたその日に2人で食べたのかもしれない。豆苗がすくすくと育つ間に何かが変わってしまったのか。それとも最初の収穫の時すでに、2人で2回目の収穫をすることはないとわかっていたのかもしれない。言い出せずにいた言葉をすくすくと育つ豆苗に急かされ追い詰められ、ついに別れを告げた。
もっとも、別れを告げたのは豆苗にかもしれず、2回目の収穫を終えたあと廃棄されただけなのかもしれない。
しかし、そんな解釈は最初から拒絶されていた。タイトルは「ぜんぶ」なのだから、全ての句に1字空けの前の「それで何」はかかってくる。どう解釈したところで、俳句は感じるもので解釈するものではないのかもしれない。読者一人一人の感じ方があり、結局「それで何」というのが宿命。だけど俳句という言葉から感じたものを言葉で表現せずにはいられない。これは業だろうか。