「戦後八十年、昭和百年」に思うこと
みちのくの帰還俳人
栗林 浩
兵たちの絶唱
今年二〇二五(令和七)年は戦後八〇年に当る。日本国民はどん底から立ち直って、長く続いているこの平和な時代を過ごしている。世界に目をやれば、大きな軍事衝突や紛争が起こっている、にも拘らず、我々はそれを他人事のように眺めている。我々が享受している平和の脆弱さに気が付いていない。いまここで戦争の悲劇を思い起こし、平和の有難さを再認識することは意味のあることであろう。
その一環として、太平洋戦争で亡くなった兵たちの俳句を読み直した。絶唱にも似たものが多かった。特攻兵たちの俳句、シベリアで苦労した兵の俳句、戦地で若くして亡くなった俳人の俳句などである。
特攻兵は、次のような句を詠んで、沖縄の海に散った。
ちるために咲かうとあせる若桜 溝川慶三 軍曹
昭和十九年四月二十八日 慶良閒南西にて
二一歳
特攻隊が正式に発足する前に、ハワイで死んだ兵もいた。このことを初めて知って驚いた。日付を見て欲しい。なんと、開戦のその日のこと。その若者は特殊潜航艇長であった。
靖国で会う嬉しさや今朝の空 古野繁実 中尉
昭和十六年十二月八日 ハワイ軍港にて
二四歳
シベリア抑留者の俳句も知られている。
手拭で目隠しをされ 日本兵 撃たる
蒲田翆山
戦争俳句で著名な長谷川素逝と片山桃史は次の句を残した。
雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り 長谷川素逝
ひと死ねり朝食の喇叭黄天に 片山桃史
そのころ日本は挙国一致体制で全国民が戦争に邁進していた。敵を殺すことに命を掛けていた。だから次のような短歌が堂々と詠われた。作者名は伏す。
刃向ひくる敵兵(てき)のむないた突きさせば拝むが如く身をくづしたり
死際の言葉わかねどうら若き支那兵は母よと叫びにけむかも
日本兵だけの悲劇ではなく、その裏には、戦わなければならなかった敵兵の悲劇もあったのである。
同時に今年は昭和に改元してから一〇〇年目に当る。「昭和一〇〇年」と「戦後八〇年」のどちらが日本の近代史を語る切り口としてより適切であるかは、歴史家に任せておこう。ただ私見を挟めば、大正天皇から昭和天皇に代わられた時点を歴史的エポックとして捉えるよりも、敗戦時点での社会通念や制度の急激な変革の方が、とてつもなく大きな意味を持ったのは確かだと思う。
そのとき筆者は小学一年生であった。天皇の玉音放送を雑音の多いラヂオで聞かされ、ある日とつぜん、教科書の所々を墨で塗りつぶせと言われ、左側通行が右側通行となった。つい先日まで、ルーズベルトやチャーチルを揶揄する歌を口遊んでいたのに、である。
とはいえ、開戦から戦中に到る国民の意思形成は、昭和に入ってからの国の覇権主義の高まりにより、異論を受け容れない世論を、国家に忠節を誓う国民を、時間をかけて育んで来てしまったという事実がある。それが、全国民を太平洋戦争に突入させる結果となった。その意味では「昭和一〇〇年」という切り口も意味があるのであろう。
さきに挙げた俳句や短歌は、国のために、進んで、あるいは拒否できずに、戦地に赴いた兵たちの絶唱であった。
次の一首は、「文学」も戦争に協力すべしとして結成された「日本文学報国会」が編集した『大東亞戰爭歌集』(昭和十八年発行)の一首である。天皇の言葉に感激し、死地に赴いたごく普通の兵士の心境だったのである。
大詔を拝してわれら感極まり犇(ひし)と抱き合ひ思はず
泣きぬ
天皇は神であった。天皇が統帥する軍隊は、無敵な皇軍であり、日本は神国日本であった。筆者は北海道の中規模の町に育った。米軍機が飛んでくると「空襲警報」のサイレンが鳴り、私たちは家庭ごとに造られていた防空壕に駆け込んだ。だが、隣家の主人は戸口に立ったまま、超然と敵機を睨み続けていた。
「畏れ多くも陛下と同じ年の生まれだから、ワシは決してやられはしない」
といって、断固として防空壕は掘らなかったし、入らなかった。
俳句は短歌に比べると寡黙である。戦争俳句で著名な長谷川素逝と片山桃史は、先にも挙げたが、次のような、天皇を意識した句を詠んでいる。
夏灼くる砲車とともにわれこそ征(ゆ)け 素逝
みいくさは酷寒の野をおほひ征く
かをりやんの中ゆく銃に日の丸を
ひと死ねり御勅諭を読む日課なり 桃史
花万朶天皇の兵日焼はや
戦場俳句には、天皇陛下万歳的な句のほかに膨大な数の凄惨な作品がある。戦火想望俳句ではない。実弾が飛び交う戦場での実戦俳句である。素逝は、病に侵され内地に送還されたが、陸軍病院にて、敗戦の翌年に亡くなった。桃史は、中国から南方へ送られ、ニューギニアで戦死した。
筆者にとっての救いは、彼等にも抒情的な句があることである。好みとして、片山桃史の「千人針」を詠んだ著名な三句を挙げておく。「母」が同時に詠まれている。
千人針はづして母よ湯が熱き 桃史
たらちねの母よ千人針赤し
母よ子に千人針はいまもある
最後の句は、母が死んだとの知らせを中国戦線で受け取ったときの句である。
戦地から無事帰って来た俳人もいる。その後多くの秀句を残している俳人は、とくに関西方面に多い。そしてその後の俳句活動を通して、俳人として名を成している。そのため、どうしても関西方面の帰還俳人の作品に目が行きやすい。
もちろん、みちのくにも戦地に行かされた俳人が大勢いた。筆者はその人たちにも光を当てたいと思った。
昭和十九年頃の日本軍の徴兵年齢は十七歳から四十五歳までであったらしい。『現代俳句人事典』に載っている東北六県出身の俳人の、この時点での年齢を調べた。次の人々が徴兵年齢に該当することが分かった。
五十嵐研三(福島)、小原啄葉(岩手)、加藤憲曠(秋田)、佐藤鬼房(岩手)、
成田千空(青森)、原田青児(北京→宮城)、藤村多加夫(福島)、米田(まいた)一穂(青森)、
丸谷才一(山形)、皆川白陀(秋田)、村上しゅら(青森)、村上冬燕(宮城)。
ここでは、特に俳人として定評のある佐藤鬼房(当時二十五歳)と小原啄葉(同二十三歳)を取り挙げる。しかし、筆者は成田千空(二十三歳)、米田一穂(三十三歳)にも興味を持った。成田は中村草田男の弟子で、蛇笏賞作家であるが、若いときに上京し、結核に罹り帰郷している。結核罹患者は軍には徹底して嫌われていたので、徴兵されなかったのであろう。
- 米田(まいた)一穂の場合(満州からシベリアへ)
米田については、同事典に「シベリア抑留者」であったと書かれている。少し調べて見た。孫の米田祐介が書いていた(電子版「現代の理論」の「大きな物語と小さな物語の〈はざま〉にあるもの」)。
行方をば知らず無月のシベリアを 米田一穂
はるかなる除夜の子の年数へけり
ぼく(米田祐介)の祖父米田一穂の句である。「新天地でたくましく生き生きとした俳句を作りたい」。俳人であった一穂は、ただその一心で青森県巴蘭甲地開拓団の一員として渡満する。だが、一九四五年五月、一穂は、三十六歳という年齢にもかかわらず陸軍の満州部隊に召集され、わずか一ヶ月間軍隊の訓練を受けただけで戦場にかり出された。終戦三ヶ月前のことである。
記述は続く。要約しよう。
同年八月九日未明、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍が侵攻してきた。一穂は追われ山野を彷徨うが、捕まった。幼い次男紘二(二歳)は妻の背中で死亡。そのまま路傍に埋めた。長女教子(四歳)はハルピンの避難所にて衰弱して逝った。妻のとっておきの反物で作ってやった着物を着た姿で、麻袋へ入れられて今にも埋められようとしているとき、ソ連軍が来たため、その暇もなく避難所の空き地に捨てられた。
一穂は、九月十八日、ソ連軍に拉致されイルクーツク第一捕虜収容所に収容さた。酷寒、栄養失調、発疹チフス、重労働、そして帰国の目処が立たなくなり絶望した、とある。
一穂の地域からの渡満者は三三八名、帰還者一六七名。引き上げて母村の駅に到着した時は、何れも泣くのみであった、という。その後、上北郡の各地の小学校の校長を務め、青森県文化賞を受けている。萬緑賞、角川俳句賞をも受賞した。草田男の弟子であった。
雉子の綺羅に逢へり教師の終ひの帰路 一穂
車椅子は侏儒の目線草の花
(次号へ続く)