俳句よ、民藝であれ
岩上諒磨
“用とは奉仕なのです。仕える者は着飾ってはいられません。単純な装いこそ相応しいのです。自らひかえめがちな、静な素朴な姿に活きています。人々は呼んでかかる美を「渋さ」と云うのです。奉仕する日々の器でありますから、自然丈夫でなければなりません。繊弱では何の用にも立たないからです。民藝品がなぜ健康の美を示すか。それは働き手であるからと云えないでしょうか。一番病いに遠いということ、これが美を保障する力なのです。用はものを健全にさせる力でもあるのです。”
(柳 宗悦『民藝とは何か』,講談社学術文庫,2006年,p68より引用)
冒頭から引用で始めてしまい申し訳ないのだが、最近読んだ中で胸を打たれた著作からほんの一部を抜粋させて頂いた。恥ずかしながら私は、柳宗悦について「民藝運動」という言葉以外何一つ知らなかった若造であるから、自らの無学をここに恥じる限りである。
柳は、民藝運動を展開する中で、貴族的工芸の「美」に対置する形で「用」という概念を用いている。要するに美しさや繊細さを目指す技巧ばかりが先んじて普段使いに堪えない貴族的な工芸品よりも、無駄を省き丈夫かつ素朴な故に使用に敵う民藝品のほうが洗練されているというのが柳の論である。働く手を休めない民衆に仕えるから、民藝品は働き手にとって何にも煩わされない形になっているともいえるだろう。
俳句の形というものを考えたとき、民藝と通じるものがあるように思う。技巧や美しさを狙うあまり、あれこれ趣向を凝らしてつくられた俳句では、年を重ね読み継がれていく中で妙味の出る名句には勝てない。名句とは「用」である。当たり前のように読まれていながら、我々民衆にとってなくすのが惜しい、まさに民衆の「眼」に仕えた一句である。そこには詠み手の無心がある。ひたすらに詠む中で飾りや工夫を忘れてより俳句は始まる。昨今俳句ブームとは言われているが、民衆と俳句との間に未だに如何ともしがたい距離があるのは、そうした一句が未だに現れていないからではないか。今まで考えるあまりに俳句でなかなか芽の伸びなかった私であるが、柳の語った「用」を俳句における今後の指針としたい。
民衆への無心の奉仕なしに俳句は洗練されない。この課題は、私たち自身に突き立てられている。俳句は、「俳人」の特別の所有物などではない。
俳句よ、民藝であれ。
翌檜篇8句「不出来な夢」
包丁の研ぎを重ぬる時雨かな
風の神黄泉まで還すべく眠る
ちやんちやんこ不出来な夢を見てをりぬ
落葉より離るる魂の若返る
雪嶺の不落の星を戴きぬ
シャンプーを切らす手前のクリスマス
一筆の昇るがごとき水仙花
白鳥の神の剣となる身かな
略歴:
平成4年生まれ。俳句結社「岳」同人。令和7年1月を以て「岳」の編集部員になる。
おとなだから
檜野美果子
「また俳句やりませんか?」年賀状に書かれた恩師の文字。連絡をとり,紙上句会に参加し始めたのが3年ほど前になる。紙上句会に参加するようになってしばらくすると,今度は「小熊座の句会に行ってみませんか?」とメールがきた。まだ子どもが小さく,一人の時間がほとんどなかった自分にとって,このときに「行ってみたいです。」と返信したことが大きな一歩になった。
思えば,子どもが生まれてからは,とにかく目の前の命を生かすことに必死だった。始めはなぜ泣いているかも分からない。子どもは尊くて可愛いが,睡眠不足だと思考もネガティブになりがちで,物忘れもひどい。スーパーで買い物をしたはずなのにすっかり忘れ,空っぽのカートを押して店の外を歩いていたときには,「なんでこんなに自分はだめなんだろう。」なんて思ってしまう。また,仕事に復帰してからの数年は,びっくりするほど子の体調不良での欠勤が続いた。この頃から体が弱く入院を繰り返していた次女と病院にいるときに句を作ることが増えていった。でも,不思議なことに句にすることで自分のどんな気持ちも,まるごと句が受け止めてくれるような気がした。娘と散歩しながら,蟻が運んでいくものを見つめたり,ままごとで木の実のご馳走を堪能したりすることがより楽しくかけがえのない時間になった。
初めて小熊座の句会に伺ったとき,高野ムツオ先生をはじめ皆さんが温かく迎えてくださった。職場と家との往復だけだった自分に新たな居場所ができたような感覚だった。ムツオ先生の1句1句にくださる句評は,愛があってとても学びになる。また,皆さんの句に触れるとこんなにも日常の中に詩が溢れているのだと感じる。句を作るのは一人でもできるが,句を鑑賞し合える人や場所があることがとても嬉しい。いつも素敵な場を作ってくださるムツオ先生,小熊座の皆さん,そして背中を押してくださった恩師の鎌倉先生に改めて感謝の気持ちを伝えたい。
先日娘と話しているときに,私は何気なく「子どもだからこれからなんでもなれるね!」と言った。すると娘は,きょとんとした顔をして,「おとなだからなんでもなれるんでしょう。おとなっていいなあ。」と言った。なるほど。子どもから見ると大人はなんでもなれて羨ましい存在なのか。それならば,私自身がいきいきと毎日を楽しんでいる姿を見せようじゃないか。これからも普段の生活の中から小さな驚きや喜びを掬いとっていきたい。
コンポート
建つたまま朽ちる柱や冬銀河
冬ぬくし光の溜まるコンポート
足で引く牢屋の線や鳥帰る
卒業や傘掛けの傘揺れてゐる
心音のたび春野へと近づけり
てふてふやエコー写真の足の裏
定刻の黄昏泣きや春深し
補助輪をとる囀りに濡れながら
略歴
小熊座会員。noi誌友。岩手県出身,仙台市在住。