大崎紀夫

二の酉のチョコバナナ屋が老けてゐる

白い息吐きながら土手おりてくる

銀杏散るあたりに立つてゐるからす

ちゆるちゆると海鼠が夜を吸つてゐる

ほとんどの鴨が向うの方にゐる

自転車が二台釣り場にくる小春

冬の蠅赤羽駅でおりていく

晴れわたる葱畑から猫がくる

裸木のあの瘤になら手が届く

船長は衰へ冬の日が白い

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百字鑑賞
大崎紀夫 「鴨」鑑賞

鳥居真里子

 

二の酉のチョコバナナ屋が老けてゐる

 毎年二の酉に訪れる作者が、この艶やかで微妙な感触の菓子を好んでいるかどうかはさておき、作者の興味はそれを売る男の方にあるようだ。老けてしまった露天商の男の人生。「チョコバナナ屋」の斡旋が楽しい。ユーモアに潜んでいるのは人生哀歌かもしれない。

 

白い息吐きながら土手おりてくる

 意味を消した一句の景はすこぶる鮮明だ。枯草の中には冬青草も戦いでいる。いま、土手をおりてくるのは少年か少女か老人か。誰もがみな白い息だ。一句は上から下への動きに伴い、ただ真っ白い息だけが流れてゆく。

 

銀杏散るあたりに立つてゐるからす

 からすが銀杏の木の番人のよう。煌々と光り輝く美しい黄葉のなか、微動だにせず立っている黒い鳥。色彩が印象的。なんだか哲学的なからすに思えてくるのが面白い。散るものはいつの世も美しい。

 

ちゆるちゆると海鼠が夜を吸つてゐる

 擬音から入る一句。それも吸いつくような感覚で。グロテスクな海鼠が一瞬赤子のように可愛く見える。微生物も夜もまた海鼠の養分となっていく。「ちゆるちゆる」の不思議な響きが海鼠の闇を捉えていく。「安々と海鼠の如き子を生めり」。漱石の句がふと頭を過る。

 

ほとんどの鴨が向うの方にゐる

 鴨の渡りは家族単位だが、そうでない鴨たちも集団で渡るようだ。「ほとんど」「向うの方」と放り出したような表現が面白い。生き物も人間も群れるのは習性ですから。実景を通して作者のシニカルな眼差しが垣間見える。

 

自転車が二台釣り場にくる小春

 「釣り場」とは釣堀か海岸か、それとも川岸か。「自転車が」と敢えて強調した作者。自転車の色や形が鮮やかに「小春」へと繋がってゆく。自転車に乗っている二人は誰。それは読者のそれぞれの想像で。自転車二台を心待ちしている今日の「小春」なのである。

 

冬の蠅赤羽駅でおりていく

乗客とともに電車の中に紛れ込んだ冬の蠅。弱弱しい姿で窓に張り付いている。「新宿駅」や「東京駅」では一句の妙味に欠ける。「赤羽駅」は庶民感覚の街の駅だ。そこでおりてゆく「冬の蠅」に少々の悲哀を感じてしまう。

 

晴れわたる葱畑から猫がくる

 「晴れわたる葱畑」の田園風景。青空の下の猫の愛らしさ。作者の懐の温かみを求めて寄ってきているのだろう。誰もが一度は見たことのある懐かしい景色に誘い込まれる。

 

裸木のあの瘤になら手が届く

 あの裸木のあの瘤になら、ちょっと背伸びをしたら手が届きそう。そう、すべてに手が届くわけではない。「あの瘤になら」なのだ。瘤は瘤でも裸木であるところに作者の意図がある。微妙な心の綾を思う。

 

船長は衰へ冬の日が白い

 何故か『白鯨』のエイハブ船長を想像した。巨大な白鯨に足を食いちぎられ松葉杖となったエイハブ。彼の憎しみ、復讐心も年齢が薄れさせてゆく。まるで真冬の白い太陽のように。「船長は衰へ」と「冬の日が白い」の取り合わせに、不条理ゆえの存在感が際立つ。