中今(なかいま)

五島高資

 今年の初詣は、帰省先である五島列島・福江島の玉之浦にある白鳥神社にお参りした。本来は船で行くべきところなのだが、最近は山道を車で行くことが多い。神社に着くとすでに駐車場に先着の車が停まっていた。すれ違うことの出来ない狭い道で出会わなくて幸いであった。

 鳥居の前にはすぐ海が広がっており、「渡御」という言葉が腑に落ちる。この神社は、六九八年に日本武尊を祭神として創建された。ある時、一羽の白鳥が社内に飛来し、「我は神の化身なり」と告げたことにより、以後、白鳥宮と称されるようになったと伝わる。

 周知のように日本武尊は、東征からの帰路、三重県(伊勢)の能褒野において「倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭し麗し」などの思国歌を詠み遺して亡くなる。そして、その魂は白鳥となって西に飛んで行ったとされ、各地に白鳥伝説が残ることになる。

 かつて日本の西の果てなる福江島は「みみらくの島」と呼ばれ、『蜻蛉日記』や『散木奇歌集』などに「亡き人に逢える島(異境の地)」として和歌に詠まれており、前述した社伝はそうした日本武尊を追慕する白鳥伝説、あるいは、かつて日本武尊が西征の際、五島に立ち寄ったという故事も関係しているのかもしれない。

 話は前後するが、私が宇都宮から帰省する際に望んだ筑波山は、日本武尊が「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と詠み、それに、火焚きの翁が「日々並べて夜には九夜日には十日を」と付けた舞台として連歌発祥の地とされる。ちなみに江戸時代の五島で俳句が盛んに詠まれた記録があるが、俳句の祖が俳諧連歌であることに鑑みれば津々浦々に言霊の幸ふ力を思い知らされる。

 ところで、延暦二十三年(八〇四)には、最澄が入唐の直前にこの神社を参詣し、帰朝後には御礼として手ずから彫刻した十一面観音像を奉納したと伝わる。また、明治二十二年(一八八九)には、伊藤博文(初代内閣総理大臣)、大山巌(元帥陸軍大将)、樺山資紀(海軍大将)等も参詣している。

撮影:五島高資

 もっとも、そうした往時に比べれば、過疎化により今や訪れる人も少なくなった古社ではあるが、帰り際、磴道の脇に蔓蕎麦の白い花が健気に咲いているのを見つけた。決して目立つものではないが、可憐で美しい。その花言葉は「いつもそこに」らしい。時空を統べる「中今」の大切さをしみじみと思いながら家路についた。

 蔓蕎麦の咲く中今や初詣   五島高資

 

ごとう・たかとし
昭和43年、長崎市生まれ。「俳句スクエア」代表、「豈」同人。現代俳句新人賞、現代俳句評論賞、中新田俳句大賞スウェーデン賞など受賞。句集『海馬』『星辰』など。評論『近代俳句の超克』『芭蕉百句』『平畑静塔の百句』など。現代俳句協会、国際俳句協会、日本文藝家協会会員。医師、博士(医学)。