対談「花鳥諷詠と前衛」―三協会統合の可能性(上) ※動画はこちら

現代俳句協会 副会長 星野高士
現代俳句協会 副会長 筑紫磐井


筑紫磐井副会長(左)と星野高士副会長 4月24日現代俳句協会本部

 3月にスタートした高野新体制の下、新任された星野高士副会長と一期目に続き再任された筑紫磐井副会長。そのフレッシュな眼差しで俳句のこれまでと今、そして未来を自由自在に語ってもらった。

🔷伝統と前衛/花鳥諷詠と前衛
筑紫:今日はお越しいただきありがとうございます。

星野:本部に入るのは初めてですが、私が現俳協に入るというだけで、なにかざわついているんです。いい衝撃なのか、マイナスの方なのか、まだ掴めていない。いきなり副会長ですからね(笑)。

筑紫:私も3年前、いきなり副会長になりました。(笑)
 だから、異端同士が何をしゃべるかというのを読者も期待しているでしょう。
 ところで、俳人協会ができて60年以上経っています。それ以降の俳人協会と現俳協の関係は「伝統」と「前衛」の対立で図式化されました。マスコミでも、自分たちも、そのような対比概念を作り上げてきたけれども、60年たつと、なんだか間違ってたんじゃないか、キャッチフレーズとしてはあまり適当ではなかったんじゃないかなと思い始めました。
 「前衛」はまだいいと思う。「伝統」が何を作り出すかというのは分かりにくい。兜太の造型俳句とか堀葦男の抽象俳句とかメタファとか、前衛的手法はある程度イメージがあって、「前衛」とは何かは説明できますが、「伝統」の場合、伝統的手法といっても何もまとまりがない。しいていえば「有季定型」と言っていますが、「有季」は「無季」を排除する。「定型」は五七五を守らないといけないという一種の禁止規定で、刑法のようなものです。刑法で文学を生み出せるかと言えばそれは絶対無理です(笑)。
 伝統の代表というと飯田龍太、森澄雄、能村登四郎とかの名前が挙がるけれども、彼らがやったのは伝統俳句の中でも「心象俳句」ですね。例えば龍太だと〈手が見えて父が落葉の山歩く〉とか。写生じゃないですしね。森澄雄なら〈をみならにいまの時過ぐ盆踊〉。あるいは能村登四郎だと〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉は、別に「伝統」という、五七五、有季というような形式ルールの中から生まれるのではなく、もう少し前向きな文学的理念があったからこそ生まれた気がします。
 にもかかわらず、60年前、「伝統と前衛」を標榜してしまったため、現在の「俳壇無風」の状態になったのではないかと。これから何が次の理念になってゆくかというと、「花鳥諷詠」と「前衛」を対比して議論していけば、「伝統」と「前衛」よりは生産的だと思います。「花鳥諷詠」は季題を守り、題詠で季題のイメージを膨ませていく詠み方で「伝統俳句」より中身があります。

星野:分かりやすいですね。けれど奥も深い。

筑紫:星野さんと対談するなら、今さら「伝統」と「前衛」ではなく、「花鳥諷詠」と「前衛」というテーマでと思っていました。

🔷星野高士と現俳
星野:皆さんのイメージだと、私は俳句の家に生まれて、おぎゃあっていう産声を五七五であげたと勘違いされがちです。普通に生まれて、俳句は別にそれほどじゃなかった。でも、家の雰囲気がずっとそうなので。私の名前も、高浜虚子が付けてくれて、おふくろの椿に言わせると「虚子先生がいつもあなたの顔を覗きに来てたのよ」。覚えてないんだけど。(笑)
 男のひ孫は初めてだったのかな。いつも家で句会をやったり、謡をやったりしてたんですね、虚子は。「句謡会」といって厳選された人たちが集まったらしい。そんな中でいたので体に染みこむ。
 普通、俳句ってなんか変だなっていうのがあるけど、私はそれとは別で俳句に対する抵抗感はなく、サラリーマンもやって俳句は趣味でした。「これ面白いな」ってやってたのが、いつの間にか本格的にということになって。
 私どもも『玉藻』という結社をやってまして、昭和五年にできて今年94年目と結構長寿な雑誌になり。立子の後は椿と私がずっとやってきてるんですけど、94年の歳月を経て、この先どうすんのよと。
 俳句の作り方、ノウハウの部分と雰囲気、空気感、それから雑誌を続けていくという文化、鎌倉にある「虚子立子記念館」も一つの発信地であり、営業、経営にもつながる、私はがむしゃらではないんですよ、適当に息を抜いて。ところが最近なかなか息が抜けなくなった。特に現俳の副会長になったりしたもんだから(笑)。

筑紫:ええ(笑)。

星野:伝統俳句も捨てがたいのでやってます。どうやってこれをやっていくか常々考えていて、現代俳句協会という未知の部分に入った。同じ俳句だけど、ずっと異文化だったところに足を入れて。
 といって、伝統俳句を捨てたわけじゃない。俳句の会でやるんだと思ってやってるわけです。「花鳥諷詠」というのはスローガンなんです。いわゆる水戸黄門の印籠みたいなものでね、「これが見えねえか」と。「花鳥諷詠です」というと格好よく見えますけど、中身がやっぱり問題だと思うんですよ。高浜虚子も「こうだ」とは言ってない。結論はない。だからずっとやらなきゃいけない、終わりもない。やってくうちに何かちょっとわかることがあって、私は毎日悩んでる。と言うより楽しくやってます。
 磐井さんとはいろいろ因縁があって、「『前衛』対『伝統』」という高田馬場の敵討ちね。堀部安兵衛じゃないけど。それから意気投合して。
 「花鳥諷詠」というのは、理念はないんです。だからみんなそこに挑戦というか、いろんなことやっている。虚子もそんなことは面倒くさかったんじゃないですかね。理論なんて。「花鳥諷詠」と「客観写生」っていうでしょ。あれまたなんとも言えない。俳句やってると、客観写生と主観写生と、心象写生とあるんだけど、どれがどうなのっていうのを私は楽しんでます。なにか端っこで、そういうものを探れたらいいなと思ってね。
 私は金子兜太先生には非常に可愛がられたけど怒られもした。稲畑汀子にもあんまり好かれてなかった。だのに、今ここにいる。世の中の移り変わり、いいんじゃないですかね。

1998年5月北溟社ポエトリィ・フォーラム第3回の開催告知

筑紫:話に出たのは、25年前に北溟社という出版社が、ポエトリィ・フォーラムという企画を実施して、第3回が若手俳人で「俳句バトル」と銘打ち、筑紫磐井VS星野高士で1998年5月、高田馬場にあった喫茶店の一室を借りてやった。テーマが「花鳥諷詠、そして前衛」。北溟社が二人を呼んできてケンカするだろうと見込んでやったものです。

星野:金網デスマッチみたいな(笑)。

筑紫:それが30年近くたって、同じテーマで語り合ってる。因縁深い話でありがたいです。お互い俳句をずっとやっていて、共感することもあった。この俳句バトルもそうでしたし。一度別のところで超結社句会をやって、星野さんも私も入ってた。その時、星野さんの特選で花鳥諷詠の真骨頂だとほめられたのが私の句だったことがありましたね(笑)。

星野:(笑)あれは今でもそう思ってますよ。

筑紫:その時同席していた片山由美子さんがカンカンに怒って。「これのどこが花鳥諷詠なのよ」って。
 だから、共感するところはいろいろあると思う。

星野:私はあれを見て、磐井さんって前衛だ何だってぶってますけど、〈もりそばのおつゆが足りぬ高濱家〉とか無季の句もいっぱいあるけど、ああいうこともちゃんとできる人なんだと思った。私なんかもですが、たまに俳句って飽きることありませんか。

筑紫:それはありますよね。

星野:飽きるっていうか、行き詰まっちゃう。同じような繰り返しでね。その人の類想みたいな。それをぐるぐるやっている。でもこれはこれで楽しみだから妨害はできない。

筑紫:ただそのためにはやっぱり、いろいろな視野を広くしておいた方がいいだろうと思うんですが。

星野:本当に。

🔷客観写生と花鳥諷詠
筑紫:「伝統俳句」であれ「花鳥諷詠」であれ「前衛」であれ、視野は広い方がいいと思います。「花鳥諷詠」「客観写生」もそうだし、実は現俳の人も現俳の外側にある俳句世界というのはよくわからない。
 『ホトトギス』の人から見て、「客観写生」と「花鳥諷詠」って同じなのか違うのか――星野さんがどう思っているか、聞かせてください。

星野:これは本当に分かってないんじゃないですか。「花鳥諷詠客観写生」と一つのフレーズで同じと思ってる人もいるし、花と鳥を詠うとやってる人もいる。
 前に私は「花鳥諷詠」の中で一番大事なのは「諷詠」だと言ったことがあるんです。そう言って席に帰ったら、矢島渚男さん、鷹羽狩行さんが、「お前いいこと言うな」「そこが一番難しいんだ」って言って終わっちゃった。「諷詠」が一番肝。
 でもホトトギスの人たちは、玉藻も含めてそこまで深く考えてないんじゃないかな。流れでやってるんだと。「花鳥諷詠」をどう解き明かすか。「客観写生」をどうやってやるか、本当のこと言って分からない。

筑紫:「客観写生」は、ずっと虚子が唱えてきた。大正初期の「進むべき俳句の道」で明言されています。

星野:「花鳥諷詠」は昭和3年か、毎日新聞の講演で発表した。突然言い出したんですよ。

筑紫:ホトトギスの同人や会員もだいぶ戸惑ったと思います。中で最も怒り出したのは水原秋櫻子。それで、数年したら独立しちゃった。面白いのは、みんなは虚子が高野素十と秋櫻子を対比して、「本当の客観写生は素十」だと言って、秋櫻子を貶めたかのように思ってますけど、どうもそうじゃない。
 直後の別の評論だと、当時のホトトギスの代表作家四Sで、素十はたしかに純粋な「客観写生」です。ただ後の秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝は、写生を志してはいるけれども理想派だと言う。四Sのうち「客観写生」は四分の一しかいない。それが分かったのと同時に、突然虚子は、「花鳥諷詠」って言いだした。
 「客観写生」であまり素十を持ち上げると、素十ひとりがいればいい。四Sの残り三人がみんな離反しかねない。「花鳥諷詠」って「季題諷詠」でしょう。秋櫻子も誓子も青畝もみんな季題諷詠やってる。うまく全体を平和に収めようとして、「花鳥諷詠」って唱えたのが、虚子の親心だと思うんです。

星野:親心と捉えたね。私は、一般的にみんなを迷わせないためのキャッチフレーズだと。「客観写生」でいったん抑えてといて、少し経って「俳句は花鳥諷詠だよ」っていう壮大でつかみどころがないなテーマを掲げた。これを持ってきたのが、虚子の事業家のセンス。虚子は「花鳥諷詠」と言いながら自分は全然違う句を作ってます。

筑紫:だから実態とは全然関係ない。多くの作家をどうまとめるかというときに「客観写生」だけ言うと落ちこぼれちゃう。政治的な配慮だった。三Sがみんな落ちこぼれちゃうんですね。せっかく「花鳥諷詠」でみんな仲良くやろうと言った親心を、その親の心子知らずの秋櫻子が反発した(笑)。

星野:そうそうそう。

筑紫:それが原因で秋櫻子はホトトギスから離脱する。虚子はずいぶん思惑外れでね、「客観写生」を「花鳥諷詠」に替えたのに、なぜ造反するんだという気持ちはあったんじゃないかなあ。

星野:その頃、ちょうど『玉藻』ができたんです。昭和5年。虚子が一番可愛がっていたのは星野立子。立子と素十がすごく親しかった。秋櫻子はちょっとスタンスが違う。虚子ってけっこう冷淡な人なんで、杉田久女とか、吉岡禅寺洞とか「破門」している。自分が危ないなと思うと破門しちゃうんです。どっかの大統領じゃないけど。そういうような傾向があるんで、その辺も深堀りしていくといいかなと。

筑紫:そうですね。だから逆に虚子も秋櫻子から破門されたんだという見方もできる。

星野:そうそうそうそう、逆にね(笑)。

筑紫:面白いのはね、一連の騒動の時にグループ組んでいた中田みづほとか赤星水竹居とかは秋櫻子を批判してない、ただ秋櫻子君は偏狭だと言っている。俳句は秋櫻子もいい、素十もいいと。ただ一人秋櫻子は、自分の俳句はいい、素十はダメってね。「寛容派」と「不寛容派」の対立なんです。
 実は「寛容派」の方が正しいんですが、しかし俳句の運動、文学の運動って、「不寛容派」がわーっと声を上げ、注目を浴びて、人気を集めて行く。実は虚子自身も、最初に碧梧桐と別れた時は「不寛容派」でした。こてんぱんに碧梧桐の悪口を言う。文学運動を進めていくと、ある時期寛容にもなるし、不寛容にもなる。その時たまたま秋櫻子は不寛容になり、虚子らは寛容になったんじゃないか。

星野:高浜虚子は昭和3年「俳句は花鳥諷詠である」って講演したとき、50代です。それまでも分かってたろうと思うけど言わなかった。彼は85歳まで生きたけど、その頃の平均年齢の50代でやっと言ったというのは、面白いと思いません?

筑紫:なんでもいいけれど、この際「花鳥諷詠」って名前を付けようと。「客観写生」でやり続けた素十とかみづほとかしか認められなくなるので、限界は感じてたんじゃないかな。離脱したのは秋櫻子と誓子だけど、青畝はちゃんと残ってる。

星野:あの人はどう見ても「花鳥諷詠」ですよね。

筑紫:虚子の時代に「客観写生」と「花鳥諷詠」が出て来ましたが、雑詠欄でみると両派が混在している。それをうまく選で、今月はこの人に巻頭をとやっていて、その意味ではホトトギスはバランスが取れてた。ところが予期せぬ秋櫻子の造反があって困ったことになった。その意味で言えば、川端茅舎なんて題で詠む典型的な「花鳥諷詠」ですよね。ただ中村草田男は「花鳥諷詠」ではなく、むしろ「客観写生」に近いんじゃないかなと。

星野:もとはそうだったけど、〈金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り〉の句が最後になっちゃった。別に造反したわけじゃなく、虚子があの句を巻頭に推しちゃったんで、読者が迷うんじゃないかと忖度して身を引いたんでしょ、草田男は。

筑紫:その意味では虚子はあの句いいと思った。

星野:いまだに何がいいんだかわかんないけど。(笑)

🔷虚子・ホトトギスの内なる前衛性
筑紫:虚子の中には結構、鬱勃した前衛精神みたいなものがあってね。時々ふっと取っちゃう。俳壇全体をみてるから、一方で茅舎みたいな句もあれば、草田男みたいな句もあると。その頃の「人間探求派」には秋櫻子一門だけじゃなくて、ちゃんと草田男という虚子門が入ってるという実績を残せた。虚子は非常に視野が広かったということなんじゃないか。

星野:5月に札幌で講演するんです。今年が虚子生誕150年、星野立子生誕120年、それで私が現俳に入ったわけじゃないけど(笑)。北海道というのは年尾さんが小樽にいたので、廣太郎さんと私が、北海道文学館で対談をする。テーマが二人の虚子の好きな十句、年尾の好きな十句。今どうしようかって選んでいる。虚子と立子はなにも見なくて出てくるんです。
 「花鳥諷詠」とか「客観写生」は虚子が言って、だんだんそれが独り歩きして、みんなの作品と同化しなくなったという恐怖感が、私には今特にありますね。そこ救っていかなきゃいけない。

筑紫:世間一般の固定観念からホトトギス派は虚子が作った全く揺るぎない世界という気がしてるけど、虚子が唱えたキャッチフレーズは「客観写生」と「花鳥諷詠」だけ。作家としては素十と立子と京極杞陽、この三人は完全に虚子から越えた俳句を作っている。破門はしなかったけれど、勝手にやってしまった世界だと思います。
 現代俳句は新興俳句、社会性俳句、前衛俳句などと発達したけれど、ホトトギスでも発達できた。現にそういう人たちがいてホトトギスの新しい分野を切り開いた。どうみても立子の俳句って、虚子に収まりきらない。普通のおばさんがしている世間話をそのままに詠んで俳句になってしまっている。まったくホトトギスの従来のやり方ではない。

星野:星野立子っていうのは、虚子にとっては大変な出来事だったんじゃないか。自分の娘でもあるけど。ああいう俳句を作って。虚子はあまり手を入れてない。それで独自の路線を行ってるんで。全然異質というか、虚子と違う細胞を持っている。

筑紫:それは杞陽とかもそう、〈蠅とんでくるや箪笥の角よけて〉とかね、あれが俳句として成り立つと発見するのはやっぱりすごい。そのようなことで、要は「客観写生」と「花鳥諷詠」はよくわからない。

星野:結局は、何十年たってもよくわからない(笑)。

筑紫:要はそこから次のものが出てくるなら、どんなキャッチフレーズだっていい。花鳥諷詠は虚子の政治的思惑で生まれたと言いましたが、どんな経緯で生まれたかは事の本質には関係しない、虚子は意図せず、俳句界の大きな金脈を堀り出したのではないかと思います。現俳協でいえば、「造型俳句」から次の俳句が出てきたかどうかとか、そういう問題。「造型俳句」死守、「花鳥諷詠」死守だけでなく、それがどんな俳句の創作に寄与していくか。

星野:上田五千石さんが「眼前直覚」っていうのをよく言ってました。ところが、以後何も出てこない。みんな歩留まりしちゃってる。虚子の場合は唯一、最後の方に「極楽の文学」っていうのがある。「俳句は極楽の文学だ」って言っちゃったという。あれがまたちょっと謎なんですよね。全然極楽じゃないでしょうと。こうやってることが極楽なんだ。だから俳句に携わった人はそうなんだ、ということだけど、作ったうえの極楽というのが、果たしてあるのかどうかというのが、なかなか疑念をもってやってる次第です。(次回に続く)

~2024年4月24日 現代俳句協会本部~