第37回現代俳句評論賞 佳作
川名大を忘れる、ためのガイダンス
外山 一機
PDF版はこちらから
Ⅰ 川名大の「俳句」観
俳句研究者の川名大は近著『昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史へ』(笠間書院、平成二七)の巻末で「静かに俳句の世界から去ろうと思っている」と記している。川名の引退はそれ以前から予告されていたが、いよいよその日も近いようである。こうした引退宣言をもたらしたのは今日の俳句表現や俳句評論に対する絶望感や孤独感であったろう。
川名に『俳句は文学でありたい』(沖積舎、平成一七)と題した一書がある。これは攝津幸彦の言葉に由来するものだが、一つ前に上梓した『モダン都市と現代俳句』(沖積舎、平成一四)の帯にもこの言葉を用いているように、「文学」としての「俳句」こそ、川名が切望してやまないものであった。
戦後から今日までの俳句表現史を支えてきた中核的な俳人たちは、いわゆる戦後派俳人である。彼らが残した俳句表現史としての句業は、昭和一桁世代以後の俳人たちのそれと比べて、圧倒的にぶ厚いものがある。彼らは戦中から戦後の困難な時代を身を持って生き、外部の時代や社会と内部の自己とに厳しく、誠実に向き合うところから詩情を汲み上げてきた。それが彼らに共通した俳句に関わるベースだった。それは端的に言って、文学としての俳句だったのである。(略)
畢竟、俳句の価値は表現領域や表現方法のいかんを問わず、俳句形式の独特の構造を最もよく生かして、俳句としての言葉の力を最もよく発揮せしめたところにしかない。それは、言い換えれば、文学としての言葉の力ということだ。そのためには、戦後派俳人たちと同様、時代や社会や自己や言葉と誠実に向き合ってゆく、という作家として当然な基本的な視線が必須である。(「あとがき」『モダン都市と現代俳句』前掲書)
「俳句形式の独特の構造を最もよく生かし」た俳句、そして「時代や社会や自己や言葉と誠実に向き合ってゆく」姿勢のもとに書かれた俳句こそが、川名にとっての「文学」としての「俳句」であった。川名が「戦後派俳人」を高く評価しているのは、彼らがこうした「俳句」を実現しているゆえであったが、このような「俳句」を是とするならば、俳句表現の現在はいかにも無残なものだろう。「戦後派俳人」とは異なり、書くべきテーマを喪失した後で、それでも俳句を書くことを選んだのがいまの僕らであるかもしれないからだ。だから、川名の批判は一面では真っ当なことのように思うけれど、僕には川名の掲げる正義があまりに眩しすぎる。
ただ、こうした齟齬が川名に失望と孤独とをもたらしたともいえそうである。僕らはまもなく「川名大」を失うが、川名を去らしめたのがもしも僕らであるならば、いまこそ川名の言葉に耳を傾けるべきであろう。それこそが、「川名大」の喪失を自らの矜持へと転じていくために僕らのできるほとんど唯一のことではあるまいか。
それにしても、そもそも川名のこのような「文学」観、あるいは「俳句」観は、どのようにして形成されたものであったのだろうか。
川名が『俳句評論』の同人となったのは第一七号(昭和三六・三)からである。昭和一四年に千葉県に生まれた川名が俳句に関心を持つようになったのは県立安房高校時代。一級下の日下部亮に刺激されてのことだったという(「『俳句評論』とわが半生」『俳句評論』昭和五七・九)。早稲田大学入学後は三年生で「俳句研究会」に入り、句作のほかに文芸評論を書くなどしていたが、一方で、『断崖』や『風』に投句もしていた。俳句評論社を訪問し同人となったのもこの時期のことだ。
さて、同人になった当初は他の同人に比して誌面への登場回数がさほど多いわけでもなかった川名だが、昭和四二年、第三回俳句評論賞の評論の部で佳作第一席を獲得して以降、論客として注目され始めたようである。佳作第一席となった川名の作品は「故郷性について―三鬼俳句とのかかわりあいから現代俳句の陥穽に及ぶ―」というもので、三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」についての既成の解釈に異議を唱えつつ、戦後の前衛俳句の陥穽を論じたものだった。
川名はここで「水枕」の句に対して否定的ともいえる見解を示しているが、一方で、そうした見解を示す自らを意識しながら、「そうした意識を打消して、三鬼俳句は三鬼俳句であって他のものではなく、何よりも三鬼そのものであったのだという思いがしきりに湧いてくるのを禁じえないのである」として、さらに次のようにいう。
三鬼俳句はそれを黙示しているのであり、それこそは今日の俳人たちが三鬼の遺産として各人の胸の奥深く秘め受けて継がねばならぬのであると切実に思われるのである。それは一人の作家を、他の作家ではない、まさしくその一人の作家たらしめているものが、具体化すれば、昭和というこの現代の日本をまぎれもなく一人の人間として生きてきたという対社会、対人生における精神のその時々の疼き―精神の軌跡が厳存しているということである。俳句の手法や修辞といったものがそれと対比するとき全く瑣末に見えてしまうこの自己の根源的姿勢こそ、今日の俳人が自分自身に厳しく要求せねばならぬことではないのか。その作家は果して「本物なりや否や」という根源的な問をもって迫るとき、この姿勢のあるなしのみをたった一つの基準にぼくはしたいと思う。
ここに後の川名の俳句研究・評論に底流する姿勢の萌芽が見られることをまずは確認しておきたい。たとえば、川名は「今日の俳人」に対してその俳句に「対社会、対人生における精神のその時々の疼き―精神の軌跡が厳存しているということ」を求めているが、ここには早くも、前掲の「俳句」観と共通するものが見られるだろう。またここに、後に川名が師事することになる三好行雄の作品論のありかたに似たものを想起することもできよう。三好において作品論とは作品の読みがやがて作家論へと収斂していくものとして想定されていたのであった。
そして、これと同様の主張は、その後もかたちを変えながら何度も現われる。楠本憲吉との共著『新・俳句への招待』(日貿出版社、昭和五三)はその一例であろう。これは川名の上梓した単行本のうちでも最初期のもののひとつであるが、そのなかで川名は実作者に向けて「自作を含めての先蹤作品と紛れることなく一回性の表現として立たなければならない」ことを求めつつ、さらに、「そのためには実作者といえども、否、実作者なればこそ、今日まで展開されてきた俳句表現史を自己の内部に構築し、その現在まで切り開かれてきた表現史の先端に立っての実作がなされなければならない」と述べる。
ここでは、川名は「故郷性について」での主張をさらに前に進め、作品が紛れもなく自分自身の作品として自立するために、自己の内部に俳句表現史を構築することの必要性にまで踏み込んで述べている。それにくわえて『新・俳句への招待』で川名は「近代俳句史」のほかに、「俳句形式・俳句表現・俳句性などの問題に焦点を当て」た一章(「俳句と表現」)を記してもいる。つまり、川名はすでにこの時点において、俳句表現史の構築と俳句形式特有の構造への着目とを自らの俳句評論における重要な問題として意識していたのである。したがって川名の「俳句」観の基礎的な部分はこの時点でほぼ出来上がっていたように思われる。
Ⅱ 『昭和俳句の展開』
しかしながら、こうした「俳句」観に基づくより詳細で実証的な論述は、初の単著『昭和俳句の展開』(桜楓社、昭和五四)以降を待たねばならない。この『昭和俳句の展開』の何よりの魅力は、新興俳句運動をある種の青春群像劇として描き出したところにある。
昭和十年から十一年にかけては論作とも新興俳句が実質的にも最も実りある成果をあげていった時期で、上記の赤黄男・白泉・鳳作・三鬼等々によって、それぞれの特色を示した俳句表現が切り開かれていった。彼らは交友の親疎、既知・未知等の違いは相互にあったが、所属結社を超えて同行者ないしは好敵手意識をもって心のアンテナは相手の論作を絶えず鋭敏にとらえていたと思われる。
本書で特にとりあげられているのは高屋窓秋・富沢赤黄男・渡辺白泉・篠原鳳作・西東三鬼の五人だが、結社や同人の枠を超えた彼らの交流は、俳壇即ホトトギスともいわれた当時の状況や、あるいは『馬酔木』を離れる決断が同時に俳句を離れる決断をも伴うものでもあった窓秋の困難を思うとき、いっそう美しいものとして胸に迫ってくる。
鳳作の死の翌年(昭和一二)、白泉らは『風』を創刊するが、その創刊号の「編集後記」に白泉は「鳳作へ一部贈ることにした。好晴の日一冊を灰にして青柚子と僕と二人の手から風船と共に天上せしめる手筈になつてゐる」と書き記している。川名はこれについて「同行者としての鎮魂の美しい儀式を語っている」と述べているが、川名が「俳句」史を記述するときにこうしたエピソードの記述をあえて行なったことは、川名の「俳句」史観の根底にあるものをうかがわせる。すなわち、「俳句」史の更新は書き手の身体をもって行なわれるものであり、人間の生のありようとその俳句表現とは必ずしも別のものではないという認識である。そしてこのような認識もまた、先の川名の「俳句」観に通底するものだった。
ところで、三章からなる『昭和俳句の展開』は、その第一章を季題季語論「伝統と革新の接点―季題・季語をめぐって―」にあてている。ここからはこの季題季語論をふまえながら、川名の「俳句」観について改めて考えてみたい。
川名は本章において、主として新興俳句運動における季題季語論争の展開について考察を行なっているが、とりわけ、山口誓子と日野草城との間で起こった論争に着目している。自己矛盾を犯す草城とは対照的に、透徹した論理に基づき有季の立場をとる誓子について、川名は「誓子の俳人たる強みは、自らの立場を主体的にみずからに課したところにある」と評する。川名は先の「故郷性について」において「今日の俳人」に対し「対社会、対人生における精神のその時々の疼き」に基づく表現を求めたが、それはやがて、各々の俳人に対し、俳句形式と「自己の根源的姿勢」との葛藤のただなかに身を置きながらなにがしかを選びとることで、かろうじて自らの表現行為を推進していくことを求める姿勢―いわば表現行為における主体性の自覚と発揮とを各々の俳人に求めるような姿勢へと繋がっていくのである。このような川名にあってみれば、白泉の季語論にきわめて高い評価を与えているのは当然のことであった。
豊饒な説明を一語に代へているがごとき「季語」の効用は、かやうな短い詩形にあつては、覆ふべくもない豊大さなのであるから、「季」を棄てるといふことは、単なる説明句で満足しない限り、かりそめの念魂のもとでは、おのれの俳句に致命的な支障をもたらす可能性があるのである。しかし、その危険をおかしながらも、それを敢へてせざるをえないところに、生きてゐる思念を表現せんとする努力をはばむ「季」の身動きのとれぬ重圧が、「季」の制約といふものの我等の内部生命に対する遊離性が裏書きせられるのであつて、この血みどろな相互撞着の下から、この上は「季」にあらぬ「季」を発見せねばならぬといふ悽愴な結論が浮き出してくるのだ。(渡辺白泉「俳壇時評」『天香』昭和一五・五)
先の誓子の季語論と同様に、白泉の季語論にもまた俳人としての覚悟に基づいた論理の強靭さがある。ちなみに、この白泉の言葉からは、折笠美秋の「否とよ、陛下!―季題季語論への試み・序―」(『俳句評論』昭和四二・九)の次のくだりが想起される。
が、俳句一般について、想うなら、その再びの世俗的な豊饒を願うためには、季はいまわしき呪詛である。悪しき遺伝、である。敵意ある環境である。俳人衆は、季題季語に支配された、あまりに素早い順応心を、みずから拒んでみなくてはならない。が、季題季語を無造作に放棄したとき、彼らの手から俳句が、美的創造とか詩とか称するものが、直ちに失せるであろうことも、頗る明瞭である。
これは川名が「故郷性について」を提出した第三回俳句評論賞の入選作であり、川名の兄事する折笠の代表作のひとつである。川名が白泉の季語論を高く評価した当時は『白泉句集』(書誌林檎屋、昭和五〇)刊行前後であり、ながらく俳壇から忘れられていた白泉の復権が少しずつ行われ始めた時期であった。そうしたとき、いわば新興俳句運動の精神的嫡子の体現としての「折笠美秋」が同時代に生きていたことは、川名にとってなによりの僥倖であったろう。
Ⅲ 三好行雄への師事
『昭和俳句の展開』は川名の言に従えば「近現代俳句の研究者としてスタートした」原点となる仕事であった。なお、川名はこれに続く『新興俳句研究史論攷』(桜楓社、昭和五九)において「俳句史の記述は俳句表現史として紡がれていくべきだ、とする私の基本認識に立脚して、その最も純粋な形態としての『新興俳句作品年表』を作成」しているが(「あとがき」『モダン都市と現代俳句』前掲書)、すでに『昭和俳句の展開』でも巻末に「新興俳句作品年表」を付しており、川名の「基本認識」は両著作において大きく変わってはいないとみていいだろう。
そして、『現代俳句』(上下巻、筑摩書房、平成一三)はそうした過去の仕事の集大成であったが、『現代俳句』以降、『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房、平成二二)、『俳句に新風が吹くとき 芥川龍之介から寺山修司へ』(文學の森、平成二六)と、自らの「俳句」史を具体的に提示する著作を立て続けに刊行する近年の川名の動向と、それに伴う川名の発言を辿ると、「俳句」史の記述が川名の本懐の実現としての意味合いをいよいよ強めてきたように思われてならない。
ところで、三好行雄先生の御指導の下、『昭和俳句の展開』(桜楓社・昭53(ママ))で近現代俳句の研究者としてスタートした私のささやかな研究も、本書の刊行によって終わりに近づいてきたようである。その間、心が萎えたときには、三好先生の『近代文学研究とは何か』(勉誠出版・平14)を読むのを日課としてきた。その中に「文学研究は文学史の体系によって完結する認識の純粋運動である。(略)「文学史」という歴史学のひとつの系としてのみ、文学研究ははじめて成立するというのが、私の偏見である。」という文言がある。(「おわりに」『昭和俳句の検証』前掲書)
川名は高柳重信と三好行雄に師事し、両者に多大な影響を受けながら俳句研究者としての自らを育んできた。先の文章のなかで川名が引いていた三好の言葉は、三好が自らの考える文学史のありかたについて述べたものだが、しかしながら、三好自身はこのような文学史をついに提出しないまま没したのであった。ここで述べられているのは、いわば、ついに具体化することなく終わった幻の文学史の構想であって、だからこの言葉に思いを致しながら三好没後の日々を生きてきた川名の心中を慮るとき、僕には、この幻への架橋こそが、あるいは川名の本懐ではなかったかと思われてならない。
「故郷性について」を発表してから七年後の昭和四九年、川名は東大文学部の三好行雄研究室に入り近代俳句の研究を行った。『昭和俳句の展開』の一部はその研究の成果に基づくものであった。川名が三好のもとで学ぶことを選んだのは、おそらく、三好がその青年期において『七面鳥』『薔薇』の同人として高柳と共にあったことが影響しているだろう。また、それにくわえて、若き日の川名に「読むとはその人間の全人格を読むことをいうのである」(「読むということ」『俳句評論』昭和三九・一一)という一文のあったことも指摘しておきたい。これは前掲の「故郷性について」と同様、川名の本来的な資質が三好の文学研究を下支えする思想と遠く共鳴するものであったことをうかがわせるものだ。
一方、三好は次のように述べている。
作品を一個の独立した世界として捉え、その内的構造を解明することで作品の主題(テーマ)と、そのテーマを必然とした作家の意図(モティーフ)を正確に知悉すること―発想のうごめく場所にまでさかのぼって、いわゆるProduktive Stimmung(生産的情調)を復元する分析の方法が確保されるまで、作品論は印象批評にとめどなく転落するか、外在批評の無残な裁断に自己をゆだねるか、さもなければ、不毛の伝記研究に猊下の礼をとらざるを得ないだろう、というのが私のひそかな感想である。(「奉教人の死 芥川龍之介―現代文学鑑賞一」『国文学 解釈と鑑賞』昭和三六・一一)
これは、「作品論」と呼ばれる方法が三好にとってどのようなものとして意識されていたのかを端的に示すものであろう。すなわち、作品論は作家論へと収斂していくものであり、さらにいえば、文学史へと収斂していくものであった。
しかし、三好のいう作品論とは、三好自身が「ただしい鑑賞とは、原理的には、依然として鑑賞者個々のただしさでしかない」(『作品論の試み』至文堂、昭和四二)と述べているように、研究者自身の主体の問題を相対化する視点が必要となるものであった。たとえば前田愛の「なぜその作品をとりあげなければならないか、というもっとも素朴な問い」が欠けているという指摘はまさしくそうした問題点を突いたものであったろう(「作品論という幻影」『原点』昭和五八・一〇)。それだけに、三好を通過した川名が後年において次のような視点を持ち得たことは、三好の方法論の川名なりの展開として見逃してはならないものだ。
この俳壇力学に基づく俳句史の欺瞞を暴き、新たに正当な俳句史を紡ぎ、再構築するために、私は以前から俳句表現史に立脚した俳句史を提唱、実践してきた。先行の俳句作品の表現史としての意義を十分に踏まえて、個々の俳人の句業や個々の俳句を検証し相対化して、それを先行の表現史へと繰り込んでいくという継起を、時間の流れに沿って記述してゆくのである。個々の俳人や俳句は先行の表現史の展開によって絶えず相対化され、篩にかけられて表現史の更新として紡いでゆかれる。したがって、俳句史は俳壇的現象として外部に存在するのではなく、史家の内部において体系的に統率されたものとして紡ぎだされてくるものである。(「あとがき」『現代俳句』下巻、前掲書)
ここで川名が俳句史を「史家の内部において体系的に統率されたものとして紡ぎだされてくるものである」と述べていることは重要である。これは、三好の「文学研究は文学史の体系によって完結する認識の純粋運動である」「「文学史」という歴史学のひとつの系としてのみ、文学研究ははじめて成立する」という「偏見」についての、川名なりの解釈であり、展開であった。
さて、川名が三好のもとで学んでいた時期についてはもう少し別の角度からも見ておかなければなるまい。というのも、川名が三好のもとで学び、『昭和俳句の展開』を上梓するまでの時期―すなわち昭和五〇年代前半は、奇しくも三好にとって逆風の吹き始めた時代だったからである。昭和四〇年代中ごろから昭和六〇年代の初めにかけて、文学研究においては作品論が隆盛を誇っていた。この作品論の時代を用意したのは三好の『作品論の試み』であったろう。しかし―たとえば蓮見重彦の『夏目漱石論』上梓などが象徴しているように―昭和五〇年代以降、文学研究においては、作品論からテクスト論その他への転換も起こり始めていた。三好は過去の人となりつつあったのである。それをよく表しているのは、三好の一三回忌の年(平成一四)に刊行された『近代文学研究とは何か』の書評にある「今やその名も知らぬ学生・読者が多くなっても不思議はない」という一文であろう(関谷一郎「『近代文学研究とは何か 三好行雄の発言』―三好行雄の偽装と本音―」『文学』平成一四)。前述したように、同書は川名にとって「心が萎えたとき」に「読むのを日課としてきた」というほどの切実な一冊であったが、三好の仕事へのまなざしがすでに変化してしまった状況をふまえるならば、川名がこのように自らの執着を披歴したことは、研究者としての自身の態度のあえての表明としての意味合いを帯びてくる。
思えば、自らの師の後退戦が始まった時期に研究者としてのスタートを切るとともに、研究者としての「原点」たる『昭和俳句の展開』の巻頭に三好の文章を戴いていた川名とは、いささか時代錯誤的な出自をもつ研究者であった。とはいえ、『昭和俳句の展開』の最良の部分は、「文は人なり」を是とした師の姿勢を肯うことで書きえたものではないだろうか。さらにいえば―後述するように―僕には、そうした師の姿勢をはるかに見やりながら師の死後を生きることこそが、後年の川名にとって切実な問題であったように思われてならないのである。
Ⅳ 伴走者の本懐
川名のこだわる用語のひとつに「昭和俳句」がある。「私が愛し、私を育ててくれた昭和俳句」と「昭和俳句」への愛着を明言して憚らない川名だが(『俳句に新風が吹くとき』前掲書)、初の単著『昭和俳句の展開』から最近作『昭和俳句の検証』に至るまでその著作物にも幾度となく「昭和俳句」の名を付している。このこだわりについて考えるとき思いだされるのは、俳句研究者としての歩みを始めてまもない頃の川名に『昭和俳句選集』(永田書房、昭和五二)のあったことである。本書は昭和時代の俳句のアンソロジーだったが、川名はその巻末に付された俳句史の執筆者として参加していた。
作者別ではなく優れた俳句表現を年ごとに並べてゆくという『昭和俳句選集』の方法は、『昭和俳句の展開』(前掲書)、『新興俳句表現史論攷』(前掲書)などで川名自身も後に用いているものであった。その意味では、本書は川名の後の俳句研究のありかたに少なからず影響を与えたと考えることもできる。ちなみに、川名に影響を与えた仕事としては他にも、神田秀夫の編集した『現代俳句集』(『現代日本文学全集』第九一巻、筑摩書房、昭和三二)がある。これは明治以降の俳人を作家ごとに並べ神田による「現代俳句小史」を付したものだが、当時忘却されていた白泉をはじめ、俳壇の力学に惑わされずに多くの優れた書き手を掬いあげている優れたアンソロジーの例として川名はたびたび高く評価している。『昭和俳句選集』は作家別という区分をなくしたという点で、この『現代俳句集』のありかたをさらに一歩前に進めたものであった。とすれば、『昭和俳句選集』の誕生が川名にとって少なからず勇気づけられる出来事だったであろうことは想像に難くない。
しかしそれ以上に注目すべきは、『昭和俳句選集』が、昭和に対する高柳重信の情念によって編まれた一書であったことである。高柳はあとがきで、本書を昭和時代のほぼすべてを網羅したアンソロジーであるとしているが、昭和がいまだ続いている当時にあってあえてこのように述べる口ぶりからは、自らの生きてきた時代の終わりを見据えながら、昭和を愛惜しつつ哀惜しようとする高柳の抜き差しならない思いがうかがえる。この思いは、あるいは還暦に近づきつつあった自身の年齢に対する意識と併走するように育まれたものであったかもしれない。高柳は自らの還暦の年にあたる昭和五八年に亡くなったが、この「還暦」こそ、高柳のこだわってきた引退の「儀式」だった(「還暦その他」『俳句評論』昭和三五・七)。さらにいえば、『山海集』後の展開力の変化もまた、高柳のこの思いと表裏をなすものであったろう。自らが師と呼ぶ高柳のこうした仕事に間近に接してきた川名であってみれば、「昭和俳句」への川名のこだわりを、川名が孤独に育んできたとは考えにくい。むしろそれは、終末を迎えたものたちに対する師の愛しみと遠く響きあうようにして―そしてまさしく昭和に殉じた師への敬愛の念も織り込みながら―育んでいったものであったろう。
そして、このように考えるとき、自らのキャリアの最後を締めくくる時期に至って『現代俳句』、『挑発する俳句 癒す俳句』、『俳句に新風が吹くとき』と、たてつづけに自らの「俳句」史観を提示する近年の川名の胸のうちにあるものも、ようやく見えてきそうである。すなわちこれらの仕事とは、「昭和俳句」の伴走者であった川名が、師や友の多くを喪った現在において、「わが愛する昭和俳句」へと殉じていこうとする営みではなかったか。
たとえば川名は『現代俳句』を執筆するにあたって神田秀夫の『現代俳句集』を強く意識したと記している(「あとがき」)。俳句研究者としての数十年間にわたるキャリアを経て、いまふたたび神田の名を呼び起こしたとき、川名の胸のうちにはいかなる思いが去来しただろうか。思えば、神田は『現代俳句』の成る八年前に亡くなっていたのだが、昭和五八年に高柳重信が没してから、三好行雄や折笠美秋をはじめ、川名は数々の師友の死を経験してきたのであった。そんなことを思いつつこの『現代俳句』を読み返すとき、僕には、いわば生き残った者としての孤独と志こそが川名に「史」を書かしめたように思われてならない。川名の愛唱句に高柳の「日が/落ちて/山脈といふ/言葉かな」があるが、そういえば川名の「史」のありようは、どこかこの「山脈」のありように似ている。
そしてこうした川名の本懐に思いを致すとき、もうひとつ忘れてはならないのは、川名の築きあげた「俳句」史のなかに当の川名自身は一度も登場しなかったということである。川名は「山脈」を遠く見やる者であって、「山脈」をなす者ではない。もっとも、若き日の川名は必ずしも俳句を読むことを専らとしていたわけではなく、はじめは自らも俳句を書いていたのであった。しかし、川名はいつしかそれを断念し、いわば伴走者としての道を歩みはじめたのである。「川名大」とは俳句の書き手になれなかった者の謂であり、同時に、俳句の書き手にならないことを選んだ者の謂なのである。かりに俳句を書くことができるのなら、自らのうちに立ちあげた「俳句」史の、その先端に立つことを自らの志とすることもあろう。しかし川名に限ってそれはありえないことだ。いってみれば、川名は、「俳句」史という夢を半分まで見た後で、残りの半分は自分の信じうる「俳句」の書き手に託すしかないのである。もっとも、それは川名にとって矜持でこそあれ恥ではあるまい。
ただ、川名がいずれ自らの夢の引き受け先を失うであろうことは、川名自身がその夢に「昭和俳句」という、多分に追悼の念を含んだ名を付したときから運命づけられていたことであった。「静かに俳句の世界から去ろうと思っている」(前掲)という一文は、今日になって川名が突然想起したものではあるまい。
僕ははじめに、川名を去らしめたのが僕らであるならば「川名大」の喪失を自らの矜持へと転じていくために川名の言葉に耳を傾けるべきだ、と書いた。しかし川名が初めから負け戦を戦っていたのであれば、僕らがこのまことに後ろ向きの研究者を忘れたとしても、それはそれで一応の理があるだろう。いや、そんなことをいうまでもなく、僕らは川名の言葉や、ましてや本懐など、きっと気にもとめなくなるかもしれない。いや―いっそ忘れてしまえばいいのだ。川名の「俳句」史は、僕らがそれを忘れることでこそ、いっそうその輝きを増していくものであるにちがいないから。