第36回現代俳句評論賞 佳作
現れつつあるもの―「風景」の変容について―
後藤 章
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はじめに

 ながく続く俳句賞というものの効用のひとつに、通時的視点を持つことが出来るという点がある。昨年六一回目を迎えた角川俳句賞はそのひとつである。この賞の良い点は、選評が記事としてかなり詳細に報じられ、候補になった作品が比較できるように示されているところだ。これは賞の選考委員にとってはかなり厳しいことにちがいない。己の俳句観が知らず試されることになるからだ。また賞に選ばれた作品の面から言えば、それは俳人が見てきた「もの」の表現史の一部でもある。この「もの」とは江藤淳が『リアリズムの源流』(1971年)で指し示した「もの」であり、柄谷行人が『日本近代文学の起源』(1980年)の中で「風景の発見」と題して示した「風景」のことと同じである。その「風景」が昨今いささか変容してきたのである。それがこの度の第六一回角川賞選考対象作品に現れてきている。本論は「風景」の変遷を概観しながら、現代に起きつつある「風景」の変容とその意味するところを論じる。

1.「風景」の変遷

 日本の歴史における「風景」の変容は大きなものとして二度確認されている。ひとつは漢字の流入した時代である。二つ目は西洋文化が流入した明治維新の時代である。柄谷行人は「風景の発見」(一九七八年)のなかで次のように書いている。

 吉本隆明が強調しているように、万葉集でさえ漢文学あるいは漢字のもたらした衝撃において成立したものである(「初期歌謡論」)。花鳥風月はいうまでもなく、国学者が想定するような純粋土着的なものも、漢文学による「意識」において存在しえたのだ。古代の日本人が「叙景」をはじめたとき、つまり風景をみいだしたとき、すでに漢文学の意識が存在したのである。~中略~問題が複雑になるのは、明治二十年代における「風景」の発見がそれと近似することであり、いいかえれば、そのような転倒が累積されたことである。~中略~いま私がいいたいのは、国学者が漢文学以前の姿を想定しようとしたときまさに漢文学の意識においてそうしていたように、「風景」以前の風景について語るとき、すでに「風景」によって見ているという背理である。

 最後の「背理」とは、たとえば絵画における日本の山水画と西洋の風景画の関係が良い例である。山水画の手法は西洋風景画の出現によってはじめて認識された(フェノロサが命名した)もので、それまでの日本人とっては(中国伝来の画法ではあるが)あたりまえの表現法であった。それを西洋画の技法=遠近法の視線が入った途端、多くは山水画をまったく否定して批判する態度に変身してしまったのである。同様に英文学を知ってしまった日本人は、文学といえば英文学の目=リアリズムの目で、漢文学に影響された江戸期までの日本文学を否定批判したのである。つまり元から存在した絵画の手法や文学の手法を、新しい考え方で見えなくしてしまうのである。背理とはそこに陥っていることに気が付かないことである。柄谷行人は当時漱石のみがこのことに気づいていたといっている。さらに柄谷のいうところを見てみよう。

 つまり「山水画」において、画家は「もの」をみるのでなく、ある先験的な概念を見るのである。同じようにいえば、実朝も芭蕉もけっして「風景」をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学にほかならなかった。

 この実朝、芭蕉を子規、虚子と置き換えることが出来る。後者にとっての「過去の文学」は「西洋文学」である。それは写生文の修練によって獲得したリアリズムの表現であり、西洋画家がいうところの写生であった。つまり二度の「風景」の変容も外来文化によって従来のものの見方を覆ってしまうことによって起きたのであり、その構造は同じであったのだ。同様な指摘は俳文学者の小西甚一により昭和二八年に『日本文学史』の序説で指摘されているところだ。簡潔な表現だが小西は次のようにその違いを書いている。

古代―日本的
中世―シナ的
近代―西洋的

 さて近代俳句におけるこの「風景」の変容はどのようなもので現在にどうつながっているのであろうか。江藤淳は『リアリズムの源流』のなかで、子規、虚子の写生文運動を高く評価した上で、子規と虚子の写生にたいする考え方の相違を明確にしているが、この違いが今日の俳句のあり方へ繋がってきているのである。江藤の論考の重要なところは、子規の写生における言語意識は記号に近いものであったと指摘しているところである[注1]。それを私なりに理解すると、<鶏頭の十四五本もありぬべし>の句は、これまでさまざまな解釈をされてきたが、子規はこの句を言葉の記号性だけでもって構成したと江藤は見てるのである。ただ鶏頭の花が十四五本もあるだろうか、という意味しかなくそれ以上でも以下でもない。それが写生だと子規は考えていたというのである。私はこの説を支持する。なぜなら子規がこのように言語の記号的側面を強く主張したからこそ虚子は長くこの句を認めることができなかったと考えるからである。もともと道灌山事件の折から、虚子は夕顔の花に纏わり付いた歴史的情緒を言葉から払拭できないことを主張して子規と対立していた。現在では虚子の主張に言語論的には理があった事は明白であるが、この時点で子規がラジカルな言語観をもって写生に臨んだからこそ、柄谷行人のいう「風景の発見」という転倒がおきたのである。そのような風景の見方に発展できたのである。虚子の進めた客観写生および花鳥諷詠と云う思想は、子規によって起こされたこのような転倒した風景の見方ができるようになってはじめて可能になったのである。

 それでは虚子に対抗して出てきた新興俳句系のものの見方はどうだろうか。これも基本的なところは変らない。遠近法的視線で眺め、感じ、考えていることは変らない。ただ前者以上に言葉の自律性に則った表現に傾いていたのである。ラカンのいう言語における「シニフィアンの連鎖」という現象の高度利用である。

 整理してみると、実朝、芭蕉に代表させていえば彼等は漢文学を背景として風景を見たのであり、子規、虚子らに代表させた明治以後の日本人は西洋文明を鏡として風景を見てそれまでの「風景」を否定して今日に到っているのである。いうまでもなくこの見方が科学文明を発達させ、今日の社会を維持しているのである。もちろんこの遠近法的思考=デカルト哲学に対しての反省からソシュールやラカンの構造主義的考えも生れている。だがそれすらも日本はまるごと飲み込んできた。この流れの中に第二次大戦後の俳句表現史も置かれるのであり、社会性俳句から前衛俳句への展開も上記で記した基本的「風景」の変遷の範疇に含まれる。川名大は『昭和俳句の検証』(二〇一五年)のなかで高柳重信や金子兜太が進めた手法として、暗喩を駆使した作句方法を前衛の特徴としたが、この背景にマラルメの「影像の連鎖」やボードレールの「交感」の影響を指摘している。ここでも西洋を鏡としたことは明白である。つまり明治以後の俳句表現史を根本的に支配してきたものは西洋文学からくる転倒した視線なのである。ところがこの現在まで続いている西洋文明による転倒した見方=「風景」が最近どうも変容してきているのである。

2.変容し始めた「風景」とは

 昨年度の角川俳句賞の選考過程と作品からその変容を確認することにする。賞を得たのは「単純なひかり」(添付資料2参照)という作品で、最終選考の過程で四人の選考委員が一重の〇をつけた作品であった。このとき最終まで検討されたのが「西ようず」(添付資料1参照)という作品で、選考委員の一人が二重の◎をただ一人つけた作品であった。わたしが「風景」の変容をきたしつつあると感じた作品はこの「西ようず」である。少し作品をあげてみる。

ぞんぶんに楤の芽喰うて角落す
海底は沈木の森西ようず
黒文字の花や狸の恋ざかり
鰹釣るこゑ山番の無線機に
海びらき野良の神職きて祓ふ
白南風に船出す筵破りかな
猿醤ねぶれる水中りの閨に
無患子の山蜜切りて夏惜しむ
厠までほーいほーいと猪やらふ
盆魂の来てゐる家のお葬式
恋の牡鹿角の股数鳴くといふ
冬に実をむすぶは哀し冬苺
かもしかの糞の両端尖りをり

 これらの句のどこに「風景」の変容が現われているのか。当然それは作者の風景への視線に現われている。単純化していえば遠近法的視線をもってないということである。子規以来営々と築かれてきた遠近法的ものの見方がとられていないのである。

 この作品群に現れているのは作者と周囲のものの関係に上下関係がないことである。人間対ものという意識が払拭されていることである。いわば自然の中をはいはいして歩く赤ちゃんの視線である。

 〈ぞんぶんに楤の芽喰うて角落す〉この句に鹿を客体として描く視線はない。鹿自身の目になっている。〈鰹釣るこゑ山番の無線機に〉この句には山の生活と海の生活の二つで一つの生きる世界が巧まずあらわれている。そのような生活が自然であることに疑いがないのである。〈白南風に船出す筵破りかな〉筵破りーとは老人になってからの女遊びのことを言うのだが、なんとも自由で野生的色気がある。〈盆魂の来てゐる家のお葬式〉この句群で一番大事な視点の現れた句であるが、ここには現代生活には失われた死者と生者の表裏一体の精神生活がある。〈かもしかの糞の両端尖りをり〉この驚くべき視線の低さはどうだろう、まさに赤ちゃんの驚きである。選考委員が口をそろえて非難した〈冬に実をむすぶは哀し冬苺〉の句は遠近法的視点で句を読めばなんと常識的なことを「哀し」などと書くのだろうかと思うだろうが、作者の冬苺へよせる赤ちゃん的視線からすれば当然な思いであり表現であるのだ。冬に実をむすぶようにしたのは自然の摂理であってそれを冬苺と命名したのは人間の都合である。天気予報で雨が降る予測の場合「明日は天気が悪い」と平気で言うが、誰が悪いと決めたのだろうか?人間の都合がそう言って来ただけである。「西ようず」の作品にはこのような人間中心的視点がないといっていいのである。

 遠近法の視点は全てのものを距離に還元して中心と周囲を規定する。明治の言文一致運動もこの中央集権思考の延長線上に現われたものである。統一された言語で指示性がはっきりした文章を書く運動である。江藤淳が指摘した、子規が望んだ言語のあり方である。子規や虚子が進めた写生文への転換はその意味では明治のあたらしい「風景」が生まれる母体であったのだ。この遠近法的視線が変容しつつあるのである。それは中央集権思考が薄れているということであり、それが成り立つ生活意識の変化があるということである。これまでにこの角川賞に現われたトレンドとして風土俳句があった。しかしこれらの風土俳句作品は中央に対して周辺の存在を認めよといった姿勢が含まれていた。思考の枠組み的には中央を鏡としての地方であったことは否めない。あくまで「歳時記文化」の中央集権的結びつきのなかにあった。それが「西ようず」においては見られないのである。

 この作品群を唯一押したのが女性の選考委員で彼女はこう述べている。

 こういった作品は今までの角川俳句賞にもあったんですが、今回のこの作品には古さを感じなかった。それは動物を詠んでいたり、あるいはモノに即していたり、体験に即していたり、作者の身を通して詠まれている句が多かったからだと思います。~中略~こういった年季の入った風土詠的な句には反対したことがあったとおもいますが、そういったことをわすれさせるぐらいの句群でした。

 これに対して、他の男性選考委員は曰く「言葉で勝負していますね」とか「言葉の世界によりかかりすぎているのではないか」あるいは「だけど風土に甘えている気がして」「普遍的な場に出て、その土地を詠んでもらいたい。客観的な旅人の眼が必要だと思います」などとのべているが、すべて的外れでこの女性委員のみがこの作品の特異さを的確に把握している。男性委員がいかに現在の遠近法的視点つまりはデカルト的思考から抜け出せていないかを示す例は、最後に示した発言である。「普遍的な場」とか「客観的な旅人の眼」などと発言しているがこのような視点でこの句群を評価できるわけはないのである。風景の見方がちがうのである。普遍とか客観という概念は優れて近代のものである。その視点に対して男性委員は微塵も疑いを持ってはいないようだ。だがそれでは「西ようず」の世界は見えないのである。

 「言葉の世界によりかかりすぎ」といえば、宮坂静生による「地貌季語」の提唱や金子兜太の「アニミズム」の主張が最近より一層の注目を集めているように見えるが、これらの意識の基点に近代文明への反省があるのもその理由であろう。しかしながらそれ以上に二人の主張の背景には中央対地方といったような二項対立的世界観への疑問がみうけられることが重要だ。「地貌季語」という考え方は、一旦既存歳時記に採用されれば、その存在理由を失うという危うさをもった緊張感が必要な問題意識だが、基本的に地域に隠れた季語と歳時記に記された季語に上下の関係はないというものである。別な視点でいえば、歳時記にない季語だから認めないということでは表現世界が狭くなると危惧しているのである。蛇足を承知で言えばこれは先に潁原退蔵が指摘した、季語ばかりに執着しては連歌における豊かな平句の世界が表現できないのではないかという問(「俳諧の季についての史的考察」)への間接的答えにもなっている。「西ようず」「筵破り」などの言葉に「風土に甘えている」と言ってしまう選考委員の認識ほ宮坂とはかなりずれている。また金子の「アニミズム」も学術的に近代主義の目で捉えられた原始宗教としてのアニミズムではなく、現代における自然と人間との関係構造に大いなる疑問を抱いての発言であることを見逃してはならない。すぐれて近代的意識から生れた金子の造型論が現在このように変化してきた下地に、秩父や熊谷の「土」に住むことに拘ったことも大きな要因であろう。この二人の目にもあらたな「風景」が見えつつあることは確かなことだ。

3.「西ようず」と『想像ラジオ』

 では「西ようず」の描く「風景」は文芸の共時的世界の中でどう位置づけられるのであろうか。それを考えるために、小説の世界でおきた事象を二例みてみたい。一つは平成二十五年上半期の芥川賞候補作『想像ラジオ』の評価についてである。著者いとうせいこうが、東日本大震災を小説家としてどう捉えて表現するかに悩みつくした上で採った表現スタイルに、賛否両論が対立して受賞を逃した作品である。ここでも女性選考委員二人のみが推薦し、他の男性選考委員は評価しない、あるいは評価保留の態度であった。評価で別れたのは膨大な死者と残された生者との関係の表現手法である。圧倒的な生死の出来事の前で怖気づくのか挑むのか。挑めば安易なヒューマニズムが前面に出て終りかもしれない、もしくは報告的なものに終わってしまうかもしれない。なにより震災を題材にして独りよがりを書くなと被災者から非難される恐れがある。その中でいとうは、死者であるディスクジョッキーと死者であるリスナーとの掛け合いというコミカルな虚構を作り上げて難題に挑んだ。その手法に賛否は分かれたのであった。しかしながらここでより大事な点は小説内に示された次のような死者と生者の関係への認識である。

生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ。

 これを読んで直ぐに思い及んだのは折口信夫の『死者の書』である。彼の古代日本人の持つ死者との関係性へのまなざしである。古代縄文時代においては死者と生者はお互いごく身近な存在であったと折口は書いている。

 死者と生者の関係と云う視点で次に深沢七郎の『楢山節考』を考えてみる。深沢七郎が登場したのは戦後間もない昭和三十一年で、大きな戦争と云う災厄の後であった。この小説の主題は「姥捨て」という死者と生者の関係性にあった。この小説がある賞を得たとき三島由紀夫などは深沢の作品に恐れを抱いてしまった。死者を完全に分離する近代美学の体現者としてはゆるせない傍若無人であったのだ。この点について人類学者中沢新一は「二つの深沢七郎論」(二〇一一年)に次のように書いている。

 なかでも深沢七郎という人は特別な人でした。熊王[注2]さんや中村[注3]さんの文学を見ると、この人たちは田舎のインテリだなとわかる。農民作家はたいていインテリとして庶民の世界から意識がずれた体験をしたうえで、もう一度、庶民の世界へ自分自身をしずめて、庶民の世界を文学にするという考えをもっていました。

 しかし、深沢七郎という作家は、そういう意識の筋道をとらなかった人でした。~中略~『楢山節考』が出版された当時の、日本の文壇はみんな驚いています。驚くのは当然です。文壇の世界とは、いわゆる近代文学の世界ですから。

 この「農民作家」にあたるのが、一時期の風土俳句作家といってそれほど的外れではなかろう。さらに中沢は柄谷行人の『風景の発見』に寄り添うように次のようにも書いている。とくにその自然観についての記述が重要である。

 日本の近代文学は、まず武蔵野を発見している。武蔵野は、さして見所もない多摩の丘陵地帯ですが、そこへ行って自然を眺めて観察して文学を作るというような意識が発達しました。これはそれまでの日本人にはなかった意識です。

 甲州の人たちが、夕方に西の山に沈んでゆくお日様が美しいと思って、眺めることはあったでしょうが、その景色自体から何かを外へ分離したり、分離した目で夕焼を見たりすることはなかったでしょう。つまり、動物が自分の生きている生命の世界で、感覚器官を張り巡らしながら、世界中のことを見ているが、見ている自分は周りの水や土の世界と一体の中にあってそれを知覚しているのと同じです。近代以前の人間の意識は水の中の魚や、大地の上を跳ねている蛙とほとんど同じようにして世界を知覚して、この世界を外から客観的に眺めるという意識はなかったのです。~中略~近代文学というのは外に出ないと作れないものだったのを、こういう観察眼で、内側から世界を立ち上がらせて見せるのです。

 まさに「西ようず」の世界であり『想像ラジオ』『楢山節考』の世界ではなかろうか。虫の観察眼であり、ここでは生者と死者がごく近い世界でもあるのだ。

 甲州といえば飯田蛇笏、龍太父子がまさに笛吹川のある境川に棲んでいた。深沢七郎は隣の石和生れで身近にいたのであるが、交流はなかった。『雲母』の昭和三十三年七月号は深沢七郎を呼んで蛇笏、龍太ほか一人との座談会記事を載せている。『楢山節考』やその年に出た『笛吹川』がきっかけで企画された。座談内容で次のところが興味深い。

深沢 『笛吹川』は「いい」という人は、うんといいというが、そうでない人はうんとキライらしいですね。題ばかり『笛吹川』なんてロマンチックな美しい題で、中味はうんと穢ない材料ばかりでしょ。洒落たものは無いし、キレイなものは少しも出て来ない。

蛇笏 それでいいんですよ。率直にいつてその傍若無人ぶりが、あなたの特色なんじやないかと思う。「ノオテンキ」を仮名で書いたのなんか実にいい(笑)あなたにはそういう癖(ヘキ)があるんだな(笑)

深沢 これからはもつとキレイなものを書こうと思つています。

蛇笏 それは賛成しかねる。あなたはあなたのもので直往邁進すべきですよ。

竜太 私なんかには少しも穢いなんて感じなかつたなあ。

 ここに三人の意識の違いが見えている。蛇笏はいわゆる農村インテリである。早稲田に学びながら名主の当主として農村にいる。だから深沢の小説のあり方に対して個性というデカルト的物指を差し出している。ところが龍太はそれを「少しも穢いなんて感じなかつた」とのべている。深沢にとって「穢い」ことは最上の価値なのだ。つまり虫や動物の視線なのだ。さりげなく示されているがこの対談では肝になる論点である。その論点に龍太はみごとにすぐに反応している。まさに深沢作品の肝に触れているのである。飯田龍太が兄の早逝という事情はあったが東京に余り未練を残さないで帰れたように見えるのは、どこか深沢に似た視線の持ち主であったのではないかと思う。龍太俳句が同時代の森澄雄、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太、原子公平、佐藤鬼房などと違った魅力を放つのはここから来ている。中沢が深沢七郎の視線として指摘した「近代文学というのは外に出ないと作れないものだったのを、こういう観察眼で、内側から世界を立ち上がらせて見せるのです。」この視点を飯田龍太は持っていたのである。また「西ようず」の作者にもあるのである。

 中沢新一は甲州という地域の特異性を「二つの深沢七郎論」(前出)で述べている。甲州は早くから天領であったために、近世の文化から離れた地域であった。そこは仏教やさまざまな後発宗教の儀礼や祭の汚染がすくなく、かなりプリミティブな自然との共生感覚が近代まで保全されてきたという。天然との距離の近さが縄文的なまま人々は育った。このような甲州に飯田龍太、深沢七郎、中沢新一自身が生まれ育ち、その三人が同様の反近代的視線の持ち主であることは偶然ではなかろう。加えて「西ようず」の作者も熊野の人らしい。熊野もまた近世、近代に晒されることに遅れた地域であった。小説家中上健次が生まれた地域である。彼の求めたものも反近代文学であり物語の復活である。これらのことから見えてくる「風景」はいずれも反近代の精神が描く世界であり、文明論的時間の中で考えればデカルト哲学に基づく近代合理主義への懐疑という共時性を『西ようず」とこれらの小説は示している。同時に近代的思考に基ずく客観的な見方から抜け出すことが如何に難しいことかということも示している。それは子規や虚子が苦労して得た視点を捨てようというのだから容易ではないのだ。『西ようず』や『想像ラジオ』という新しく現れている「風景」がやすやすとは見えないのも無理からぬところである。

4.現われつつある「風景」の根底にあるものは何か

 ここで思うのだが、大きな災厄に見舞われたとき日本人の精神は歴史の古層まで戻ってしまうのではなかろうか。そのとき日本人は漢文学的視線も西洋文学から得た哲学も見事にわすれて、死者を生者から分離し始めた弥生時代ではなく、それ以前の古代縄文時代の精神風景に戻ってしまうのである。あるいは災厄によって漢文学や西洋文学の観念に覆われた層に割れ目が生れそこから古代が顔を出してくるのである。いとうが小説の中で広島長崎の原爆のことや第二次大戦における空襲ででた膨大な死者につい触れているのも、大きな災厄の際は時空を越えて縄文時代のように死者と生者の交わりが発生することをいいたかったからである。『西ようず』のような作品が現われたきっかけはやはり平成二十三年三月十一日の東日本大震災である。とくに原子力発電所のまねいた甚大な被害の様相が、いままでとは桁違いの時間スパーンで人々に脅威を与え続けることがわかったことが大きく影響している。このことが思考のパラダイムの大きな変革を迫ってきたのであった。だがそこに現われたものは新しい概念や観念ではなく日本人の精神の古層に横たわっているものだったのである。

 先日テレビであるカメラマンが口にした言葉が印象的であった。「自然は人間中心には動いていないんですよ」そう彼は言った。それは彼が震災の現場に入ってボランティア作業をしながら写真を撮っていたとき、ある朝の景色がとても美しかった。そのときこんな悲惨な状況なのにそれを「美しい」と思ってしまうのは何故なんだと自問して得た答えだというのである。この美しさがデカルト的人間中心の視線の傲慢さを気付かせてくれたのである。このカメラマンの言葉に代表されるような意識の変化が、それぞれのかたちで震災を機に生れ始めているのである。それが「風景」の変容をもたらしているのである。漢文学からも離れ西洋文明からも離れた視線で、自然の中に抱かれることによって見えてくる「風景」が確かに現われているのでありその背景には縄文時代の精神が横たわっているのである。

おわり

[注1]    「新潮」1971年10月 230~231p
[注2]    熊王徳平、農民文学者。
[注3]    中村鬼十郎、農民文学者。