「戦後八十年、昭和百年」に思うこと
みちのくの二人の帰還俳人(2)
栗林 浩
二、佐藤鬼房の場合(ジャワで捕虜に)
佐藤鬼房は本名を喜太郎という。鬼房の「鬼」は江戸中期の俳人上島鬼貫にあやかった。常に弱者の立場で希望を詠ったから「キボウ」と呼ぶひともいるが、ほんとうは「おにふさ」である。
大正八年、岩手県釜石に生まれ、生後間もなく宮城県塩竈に移住。小学校へ上る直前に父親を突然失っている。十五歳から俳句に親しみ、短い上京のあと失意のまま塩竈に帰り、それ以来、兵役期間を除いて生涯を塩竈で過ごす。持病と闘いながら、弱いものの目線から、働く人々への想いや風土を、さらには自分の内面を、飾らぬ言葉とときにはやや無骨なリズムを以って詠いあげた。俳句は弱者の詩だといって憚らなかった。
昭和二十九年(三十五歳)に第三回現代俳句協会賞、平成二年に第五回詩歌文学館賞、平成五年には第二十七回蛇笏賞をそれぞれ受賞した。平成十四年一月十九日、逝去。八十二歳であった。
鬼房の代表句として、誰もが掲げる句は、次の句であろう。
切株があり愚直の斧があり
縄とびの寒暮いたみし馬車通る
陰に生(な)る麦尊けれ青山河
これらはみな五十歳前の最盛期といって良いころ、およびそれ以前の作品である。後半生に詠んだ句の中から人口に膾炙している句として、次の句を掲げる。
みちのくは底知れぬ国大熊(おやじ)生く
観念の死を見届けよ青氷湖
混沌と生き瘦畑を耕せり
鬼房は、昭和十二年七月に上京し下谷に住む。翌年、小石川に住み、日本電気の臨時工となる。その後いろいろ転居し、どうしようもなくなって、九月に塩竈に帰ってしまう。それ以降はずっと塩竈に留まる。昭和十五年一月、兵隊にとられ、朝鮮の輜重隊に入営。その後、中国の南京に転出。漢口、荊門、宣昌などを転々とする。昭和十六年十二月、鈴木六林男がたずねて来て、これが鬼房と六林男の終生の交流につながり、さらに関西俳句人との懇ろな付き合いに発展する。
当然、新興俳句運動の弾圧にも関係して来るのだが、十八歳頃に書いた「プロレタリア恋愛論」が睨まれて、拘引状が出されたようだ。しかし、戦地に行っているということで、助かった。二頁ほどのたいしたことのない文章だったが、むしろ新興俳句に入って無季俳句を作っていたので、その関係でひっかかった、と鬼房自身がいっている。無季容認というとみんな引っかかったのだった。
シベリアに申し訳ない
終戦時、インドネシアのスンバワ(現在は観光地として知られている)というところで捕虜生活に入る。ジャワ(首都ジャカルタがある島)が親日的であったし、輸送隊でかなりの隠匿物資があったので、食糧には困らなかった。タバコなどはドラム缶に入れて地下に隠したり、オランダと豪州の軍が一緒に監視していたのだが、ゆるやかで、原住民とこのタバコと食料品の交換をやったり、割合のんびりした捕虜生活だった。
ほかの記録では、昭和十四年七月に徴兵検査第一乙種合格し、昭和十五年一月現役編入、朝鮮咸鏡北道鏡城の輺重兵第十九聯隊自動車中隊に入営、以後中国南方を転戦、昭和二十年八月、スンバワ島にて敗戦。捕虜生活に入り肺浸潤のため兵役免除。昭和二十一年、「昼は臥し夜になると起き出て詩・句を紙片に書きつけ明け方に及ぶ。そんな毎日が続いて譴責をうけ、二月に野戦病院へ追いやられる」とある。
また、鬼房自身がいっていることであるが、「兵隊にとられたとき全く無感動の中で概ね従順に兵役に従って行った」とある。
鬼房は、その随想的俳論集『沖つ石』の「南十字星」の項で、兵卒としての状況を次のように書いている。
(所属する第十六軍が)蘭領のジャワ島に上陸したのは昭和十七年三月かと思うが、連隊が台湾で待機中に赤痢が発生し、私はそれら患者の残留班長にさせられたので、バンドンの本隊に追いついたのは二ヶ月後だ。全く冴えない話。(中略)十六軍が無気力な軍団だったわけではないが、殆ど戦闘らしきものもなくオランダ軍が敗退して行った。むかしからインドネシアは親日的であったし・・・
ということで極限的な苦労はしていないようだ。鬼房が司令部で働いたのは一週間。終戦間際に原隊にもどるまで、司令部付とも原隊ともつかぬ身分で、A隊に一ヶ月、B隊に二ヶ月という風に渡り歩いていた。それ以前(昭和十七年末)に鬼房は初年兵受領員の名目で内地に派遣されている。二ケ月の予定であった。その派遣中に司令部の要請で、宣伝班に転属の命令が出された。それで帰隊が予定より一ヶ月以上も遅れてしまい、帰隊してみれば鬼房の居場所がない。待機しておれといわれるばかり。文字通り員数外。それから敗戦。投降した鬼房の軍は、インドネシア独立運動義勇軍と戦わされたが、お義理程度のものだった。
戦争の残忍で理不尽な重い影が兵卒の人格や精神形成に拭い難い影響を与えているという論が、判で捺したように、まことしやかいわれているが、鬼房に対しては当たらないようだ。最前線ではなくやや後方の任務であったからであろう。さらに、虜囚生活にしても、「シベリヤなどと違って恵まれていました」と鬼房が語っている。ただし、胃腸の弱かった鬼房は、食事が合わず、随分苦労したことは確かである。
ともあれ、肺炎を起こして病院船で帰国。鈴木六林男らと連絡を取って「青天」に参加する(のちの「天狼」)。秋元不死男の紹介で新俳句人連盟に入る。師事していた西東三鬼の画策で連盟は分裂。三鬼に相談したら、好きなようにしてよいというので、連盟に残った。「天狼」系の俳人で残ったのは鬼房くらいだったとか。
鬼房の戦争俳句を読もう。私が選んだのは、
夕焼に遺書のつたなく死ににけり
戦病の夜をこほろぎの影太し
吾のみの弔旗を胸に畑を打つ
生きて食ふ一粒の飯美しき
ひでり野にたやすく友を焼く炎
水を得てふぐり洗へばなく夜蟬
である。鬼房の俳句の根幹には抒情がある。二句目は、抒情的新興俳人であった横山白虹の〈胸の上にこほろぎが鳴くと云ひて死にし〉に似ていやしないか。三句目の「吾のみの」は、昭和二十一年の作で、「青天」に掲載された鬼房戦後第一作である。厳しいはずの戦場を思い出して詠みながらも、鬼房の句には、何故か前向きな姿勢が感じられる。暗い句があっても、四句目の「生きて食ふ」のような前向きの句がある。
とまれ、鬼房が硬派でばりばりの新興俳句人とは一味違ったように思うのである。
鬼房の戦地からの投句は「塩野史郎」の名で、句誌「琥珀」に送られた。戦後の彼の所属句誌は、「青天」が山口誓子主宰の「天狼」となったためそこに移り、かつ西東三鬼指導の「雷光」にも依った。それ以前からの鈴木六林男との結びつきと三鬼への師事は、鬼房のその後の俳句作家生命に大きな影響を齎す。それは、三鬼や六林男を取り巻く他の多くの俳人群からの影響を含めてのことでもある。ただし、鬼房は三鬼の作句法上の影響は受けていないようだ。平畑静塔の言を借りれば、
月光とあり死ぬならばシベリヤで
この句には鬼房の自解があるのだが、それを離れて私(静塔)は思う・・・南方で囚われた鬼房は、たぶん、自分よりも厳しい環境に投げ込まれ死んでいった多くのシベリヤ抑留者への申し訳なさ、慙愧の念といったものをトラウマのように抱えていたのではなかろうか・・・と。
先に書いた通り、鬼房は自身の軍隊生活や戦地状況を、苦しかったとは語っていない。何事もなかった如く、能天気であったようにしか書き残していない。七年間の兵役時代に、記録に残しておくべき程のことはほんとうになかったのであろうか。多感な年頃であったはずで、暇があれば、「詩・句を紙片に書きつけ明け方に及ぶ」と書いているではないか。のちの鬼房の人間形成に影響のあった事象があった筈ではないのか。あったのだが、それをきちんと言葉で整理するのが難しかったのか。いや、整理してあるのだが、それはシベリアなどでの極限の抑留体験を持った兵に比べれば、語るべきほどのこともない、と自己否定したのであろうか。遠慮したのであろうか。ひょっとすると、鬼房がもっと長生きだったら、あのときの七間年の果実を、若い者たちにむけて、とつとつと語ってくれていたかも知れない。多くの帰還兵士や、次に述べる小原啄葉がそうであったように。
黒い絵ばかりを描いた香月泰男画伯のことを、ふと思い出す。南の島は明るかったようだ。それが救いである。しかし鬼房の句には通奏低音のように何かの影が付いて回っているように、私は思う。それは戦争だけの影響だとはいわないが、いかにもみちのくびとの遠慮がちなイメージなのである。