待ちあわせ
👤神山姫余
人は、人生でどれくらい「待ちあわせ」をするのだろうか。
生命にとっての最初の「待ちあわせ」は、“物質と環境とエネルギーが生命という新しい秩序を生みだすために「待ちあわせ」した瞬間”ともいわれている。
さらに進むと、人間のように意識を持つ存在が生まれ、それらが時間と場所を自覚できる存在とし、“約束としての出会い”が人間レベルでの最初の「待ちあわせ」で、最後の待ちあわせは、突然目の前にやってくる、逃れられない死との「待ちあわせ」である。
では、これ以外で……と考えたとき、ふと、俳句の季語が頭に浮かんだ。
俳句の季語は、旧暦と長年の暮らしの経験にもとづく伝統的な季節感を言葉でしめしたもの。
いわば、季節の約束ごと、季節と“ここで会いましょう”と約束した「待ちあわせ」場所として決められた言葉であり、それが歳時記の中で整然と地図のように並んでいるではないか。
桜ならこの頃、蟬が鳴けばこの頃、霜が降りればこの頃……、と日本の伝統的な季節感をしめしている。
しかし、新暦で暮らす現在、旧暦にもとづく季語の場合、その約束は1か月ほどずれているとされ、くわえて近年では、地球温暖化の影響で猛暑や豪雨など極端な気象が増え、この異常気象によって従来の季節パターン自体が変化してきた。
そのため、歳時記の「季語の季節」と私たちが日常生活で体感する「実際の季節」とのあいだに、さらに大きなずれが生じているのだ。
残暑と呼ぶには危険なほどの暑さが9月まで続いたり、暦のうえでは秋なのに、街路樹はまだ真夏のまま青々としたり、冬の句にふさわしい霜の朝がいつまでも来なかったりする。
季語は、依然としてページの同じ場所にいるのに、実際の季節が早足になったり立ちどまったりしている。
季語は、来るはずの季節をじっと待つ存在になる。
俳句は、もはや安定した四季を賛美する詩形ではなくなる。
変わりつつある地球の気候とのあいだに生じたこの問題をどのように引き受けるか。
俳句は、その横に立ちあいながら、季語と現実との間に生じた「待ちぼうけ」の時間を、変わりつつある世界とのずれを受けとめつつ、新しい季語やそれに代わるものをも含め、その詠み方を探る段階にきているといえるのではないだろうか。
そして、そこには、俳句の未来にとって、新しい可能性が潜んでいる。
そう私は思いたい……

待ちぼうけ日傘まわして地動説
姫余
神山姫余(かみやまひめよ)
1963年生まれ 栃木県出身
「豈」同人
現代俳句協会会員 国際俳句協会会員
日本ペンクラブ会員
句集に『太陽神』『血のリズム』『未生怨/死児の森』『ヤコブの階段』