現代俳句の現代性について
👤妹尾健
現代俳句とは何か、この問いは、案外一筋縄ではいきません。というのも「現代」と「俳句」という二つの言葉の関係をどう考えるかによって、大きく意味が変わってくるからです。
一つには現代社会の中で俳句がどのような位置にあるのかという問題があります。これは現代社会における表現媒体の問題とも関係してきます。もう一つには、俳句における「現代性」とは何か、という問題です。本稿では、後者の方、即ち俳句の中にあらわれる現代性について考えてみたいと思います。つまり俳句表現の内容についての問題です。
ここでいう俳句の現代性とは、単に時代区分を指すものではありません。むしろ、その時代の人間がどのように(対象としての自然や社会或いは人間)を見ていたか、どのように感じていたかという「認識の在り方」と関わってきます。作品は時代を映す、とよく言われますが、その時代の認識が表現されているということでもあります。
俳句もまた例外ではありません。前の時代とは異なるものの見方が、新しい表現を生み出します。そしてその新しさは、ときに違和感や異質のものとして、前代や前世代から受け止められ、批判や賛辞を生み出します。これは俳句に限らず、芸術に共通した性格でしょう。
俳句は、一般に、文語、定型、季語といった要素によって成り立っています。ここでいう文語は、所謂文語文法を指すのではなく、書き言葉としての文語(書記言葉)を指しています。俳句に文語が用いられてきたのは、五七五という定型と結びついているためでもあります。この簡潔な俳句形式は日本語の感性表現を伝えるものとして、現在も多くのひとに用いられています。
では、俳句の現代性の特色はどこに現れてくるのでしょうか。私は、それが「形式を保ちながら、認識を更新していくところ」にあるのではないかと考えています。俳句は定型という縦の線と、その時代という横の線とが交わるところになりたっていると言えます。現在という地点が過去と未来の交差の中に存在するように、俳句もまた縦の面と横の面の交差の中に、形式と認識において成立しているのです。
近代以降、俳句は写生を重んじる立場や、生活に根差した視点などを取り入れながら
様々な更新を繰り返してきました。形式そのものは変わらずに、もの(対象としての自然や社会或いは人間)の認識を様々に更新してきたのです。
その大きな更新点のひとつとして1932年(昭和7年)に発表された高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」という作品を挙げることができます。この作品は後に1936年(昭和11年)に句集『白い夏野』に収められたものですが、俳誌『馬酔木』1932年1月号に他の作品―「我が思ふ白い青空と落葉ふる」「白い靄に朝のミルクを売りにくる」「白い服で女が香水匂はせる」などーとともに発表されたものです。実際この作品の与えた衝撃は強く、後年石田波郷は「『馬酔木』の独立を期として春の洪水のようにひろがった新興俳句界の、若い希望として窓秋の句は驚異的に迎えられた。」と記しています(朝日文庫版『現代俳句の世界16富澤赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉集』の三橋敏雄解説参照)。この作品は連作俳句(俳句における新たな認識の表現形式)の一句として発表されたこと、「白」という鮮明なイメージを俳句にもちこんだところが、当時の青年たちを中心に大きな衝撃を与えたのです。この作品は「頭の中で」と切り出し、外部の風景ではなく、内面のイメージを俳句形式にもちこんでいます。「白い夏野」という表現も、実景の描写というより、思考の中に浮かんだ像の表現といえます。
ここには、それまでの写生中心の方法とは全く違う、新しい表現の方向が見られます。また「で」という言葉が切れの役割をはたしている点や、「白い夏野」という組み合わせにも、従来にはない斬新さが感じられます。こうした点から、この作品が新しい感覚をもちこんだことを知ることができます。
そしてなによりも注目されることは、この作品が連作形態で発表されていることです。1936年刊行の句集『白い夏野』の開巻は「雑」として4句、
秋の蚊に腹はもたヽぬ昼餉かな
我が思ふ白い青空ㇳ 落葉ふる
頭の中で白い夏野となつてゐる
白い靄に朝のミルクを売りにくる
がおさめられています。「白い夏野」は連作形態の1句として構成されたものだったのです。
連作俳句とは「1句では表現できない内容を、連作・並列する表現形式」(角川書店版『俳文学大辞典』)といえますが、構成の単位としては3~5句までのものが多いといわれています。「白い夏野」は句集開巻に「雑」と置かれていることによって、この「雑」が無季俳句につながっていることを推測させます。その意味でこの1句は当時の新興俳句運動の先駆けともいえる作品でした。そして連作俳句において特に必要なものは、連作の各句と全体との間に均衡がたもたれていることです。連作俳句は主題の強調によって各句との均衡がたもてなくなったり、前半と後半のバランスがとれなくなることがしばしばあります。つまり1句の呼吸と全体の呼吸がうまく合っていないのです。「白い夏野」の連作はそうした偏向からまぬがれています。この作品は新たな認識の更新に成功したのです。
この成功の要因には、俳句をつくる主体そのものの変化があると思います。つまりものの見方や感じ方が変わることで、俳句のかたちも変化していくのです。「白い夏野」は、この点で、現代性の一つの典型をしめしたものと私は見ています。
また、句集『白い夏野』収載部分の第1句には「腹はもたヽぬ」に古語がつかわれています。「はも」は強調の意味がこめられています。古語が意識的にもちいられている点も注目すべきでしょう。ここで後年はむしろ伝統派とみられた石田波郷と高屋窓秋との関係についてすこしふれておきます。昭和7年波郷19歳の上京のおり、東京駅頭に出迎えたのは、石橋辰之助、牛山一庭人、高屋窓秋の3人でした。以来、4年あまり窓秋が日本をはなれるまで、彼等は行動をともにしました。波郷と当時の新興俳句運動の渦中にあった青年たちをつないだのは、西東三鬼創建にかかる「十土会」であったといわれますが(三谷昭「新興俳句と石田波郷」『俳句研究』昭和45年2月号石田波郷追悼号所載)。石田波郷は「その渦にもっとも近いところにいたのだ」(三谷昭)といわれています。今日、波郷の『鶴の眼』(14年刊)の「秋の暮業火となりて秬は燃ゆ」「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ」「バスを待ち大路の春をうたがはず」「坂の上たそがれながき五月来る」「吹きおこる秋風鶴をあゆましむ」「百日紅ごくごく水を呑むばかり」といった作品は大枠では新興俳句の領域の作品と私はみています。
現在の俳句を見てみると、その在り方は実に多様です。古典を至上とする流れがある一方で、戦後俳句への批判から、軽みを尊重する傾向や、より日常に寄り添う感覚も見られます。また、句会の持ち方も、オンライン化が進み、選評の可視化などにも工夫がこらされています。
こうした自由な広がりは、俳句の魅力でもありますが、他方で、文語文法の絶対化やその反動としての定型否定のような、極端な方向に進む可能性も見受けられます。
私は俳句をあまり閉じたものになってほしくないと思っています。開かれた定型表現の場所であってほしいのです。既存のかたちにとどまるだけでは、どうしても模倣になってしまいます。そのためには「白い夏野」にしめされた、身体表現を取り戻すことや、変化する主体の在り方を追求すること、そしてたえず季語の新しい用い方を探ること、などが、重要になると考えています。そうした試みを重ねていくことで、俳句の現代性を獲得することができるのです。
身体表現の新しい試みとしては、歳時記に「雑」の部を独立させ、「人間」の部として、頭・脳・髪・顔・額・目・耳・鼻・口・舌・頬・顎・髭・歯・首・喉・手・指・てのひら・拳・腕・肩・胸・背・乳房・腹・臍・肺・胃腸・尻・性器・胎内・足・骨・・唾・筋肉・肌・体・血・唾・糞尿など各項目が上がっています。(『現代歳時記』金子兜太・黒田杏子・夏石番矢編参照)。「日に量やあたまの音を哀しめば」(三橋敏雄)「えつえつ泣く木のテーブルに生えた乳房」(島津亮)「るんるんと胎児つらぬく砲あつて」(阿部完市)「血縁を継ぐ赤赤と蕁麻疹」(和田悟朗)「水口は人の顔浮く朝ぐもり」(宇多喜代子)「この母の骨色の乳ほとばしれ」(鎌倉佐弓)「てのひらをひらいてしまう竹生島」(永末恵子)「下腹部に宿敵飼っている男」(森須蘭)などさまざまな試みがなされています。
次に主体の変容としては、現代性のひとつとして、「投げ早苗はたと宙にてとまるとき」「蠅叩き金輪際を打ちにけり」「落椿すべての一つ一つかな」(小川双々子)を挙げておきます。ここでは作者は対象を注視してそれをそのまま表現に転化しています。対象との合一が即表現になっているのです。「早苗」も「蠅叩き」も「落椿」もそれぞれ個でありながら、全であるのです。勿論これらは自己意識などというものはありません。ここからは個と全を統合した何かがあらわれてきます。新しい主体です。
ここで、私の作をあげさせていただきます。
学校に行かぬふたりの昼花火
健
ある梅雨の昼下がり、河原で高校生ふたりが花火をしていました。本来なら学校にいるはずの時間です。傘もささず、ときおり声をあげながら花火をしている姿を見て、私はなにかいいようのない孤独を彼等に感じました。こうした孤独もまた、現代のひとつの在り方かもしれないと思ったのです。現代性というと、つい形式の新しさにとらわれがちですが、かならずしもそれだけではありません。むしろ定型の中でどのように新しい認識を表現していくかが、俳句にとって大切ではないか。孤独といったことも当然現代人にとって対象となる材料であるはずです。それを認識し表現していく努力を進めること。それが即ち、現代俳句の現代性ではないか。それは定型によって充分可能なことだと私は考えています。