漱石と谷根千界隈【2】
👤石井稔

4.『三四郎』と団子坂

それでは『三四郎』です。明治41年に朝日新聞に発表されました。『坊ちゃん』と並んで今や青春小説の古典といってもいいでしょう。九州から大学に出て来た小川三四郎君(23歳)が繰り広げる物語。故郷のこと、学問のこと、そして女性と恋愛のこと。いつの時代も青春とはすばらしいもの。そんな思いにさせてくれる名作です。

ではさっそく、谷根千界隈が登場するシーンを見てみましょう。

【場所は東京大学構内の三四郎池より。時は明治41年に遡ります。まずはマドンナ美禰子との出会いから。】

「女の一人はまぼしいと見えて、団扇を額の所に翳している。顔はよく分からない。けれども着物の色、帯の色は鮮やかに分かった。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いていることも分かった。」(『三四郎』より)

三四郎君は一人の女性にギューと焦点を合わせます。出会いは突然です。この女性こそ里見美禰子その人です。初デートの誘いは美禰子からの葉書です。廣田先生をとりまく面々で、千駄木団子坂の菊人形を見物に行こうというのです。ここで団子坂が出てきます。

当時の団子坂はそれは賑やかであったそうです。「名所江戸百景、千駄木団子坂花屋敷」(歌川広重)に描かれています。歌舞伎や時事ネタを題材にした大掛かりなセットを組んで、老若男女に大人気だったそうです。今でいえばさしずめデズニーランドのにぎわいであったのではないかと思います。

さて、菊人形見物に出かけた三四郎君と美禰子その他一行は雑踏の中、急な坂道を下りながら「曽我の討入」の飾りつけのある小屋に入ります。そして混雑の中、三四郎君と美禰子は、図ったように、わざとらしく一行とはぐれてしまいます。

「美禰子は又向うをむいた。見物に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群衆を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子の後を追って行った。」

菊人形の小屋を出た二人は坂を下りきって帰り道とは反対の方に向かって歩き始めます。
(このあたりが千駄木坂下町です)。

「どこか静かな所はないでしょうか」

と美禰子はさらに誘います。
もう、三四郎君はドキドキです。恋の駆け引きなんてできるはずもありません。どんどん美禰子についていってしまいます。

「谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低いところに小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何遍此方側を歩いたか善く覚えている。美禰子の立っているところはこの小川が、丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。」

二人はそのあたりまで来てしまいます。
そして左に折れ川に沿って歩いていきます。

【この辺で時間をいったん現在に戻しましょう。】

見渡すまでもなく、ここにあるはずの小川も橋もありません。

《文京区と台東区の境付近より三崎坂上を望む地点。谷中と千駄木が谷で出逢うあたりの現在です。右折すれば「へび道」、左折すれば「谷中夜店通り商店街」、「谷中銀座」へ至ります。》

この場所「谷中と千駄木が谷で出逢う場所」すなわち川が流れていた場所に立ってみます。この川を挟んで千駄木と谷中をつなぐのが「枇杷橋」です。橋を渡ってまっすぐ進めば三崎坂へ、谷中、谷中霊園、天王寺に向かいます。しかし今そんな橋はありません。人と車が行き交う交差点です。見回せば「枇杷橋跡」の道標が建っています。

ところでこのあたりの現在(令和8年)の状況をすこし説明しましょう。

作品に出て来るように確かにここには川が流れていました。この川の名前は「藍染川」もしくは「谷田川」と言っていました。当時は染め物業の洗い場としても使われていたことからその名がついたのでしょう。もちろん農業用水として利用されていました。上野不忍池へと流れていて、明治期までは蜆が採れたり小魚もいたそうです。さらに漱石の記述をたどれば、この橋から10間(約20メートル)ほど行くと広い野原で、唐辛子が干されていたり、農家の人が大根を洗っていたり、藁葺きの家があったり、まさに田園風景だったのです。

また川の名前については別の言い伝えもあります。その岸には三遊亭円朝作の『牡丹灯籠』に出てくる新幡随院寺があったことから地元では「ばんずい川」とも呼ばれていたようです。

しかし、水はけが悪く氾濫を繰り返していたようで大正期になって暗渠の工事がはじまり道路となったのです。ですから、現在ではその流れをみることはできません。

【さて話を『三四郎』に戻します。】

結局ここでは二人はうまくいきませんでした。美彌子が三崎坂をのぼって歩き始めると三四郎君はこう言います。

「此方へ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り道とはまるで反対です。」

三四郎君は野暮なことを言うものす。美彌子の気持ちがわかっていません。そしていろいろあって、とどのつまりは恋路の進捗はなく帰宅の途についてしまうわけです。意気地なしの三四郎君にとっては当然とはいえ、残念至極ということでしょうか。

ではこのまま反対方向の谷中の天王寺方向に美彌子の誘いにまんまと乗って、二人が行ってしまったらどんなストーリーになっていたでしょうか。漱石もサブストーリーとして考えていたかもしれません。どんな展開になるか・・・・・。想像してみるのも楽しいものです。

それなら本稿では、二人があえて行かなかった谷中の天王寺にこのまま行ってみることにしましょうか。

5.三崎坂を天王寺へ

三四郎君と美彌子をその場に残して、三崎坂を上っていきます。

今の区割りでいうと下は文京区、上は台東区です。数えてみるとこの300メートルの坂の両側には12もの寺院が並んでいます。それでは天王寺までゆっくりと坂を上りながら右左を見ていくことにしましょう。

《坂の中腹にある道標 「三崎」(さんさき)という由来には諸説あり駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむといわれています。また別名は「首ふり坂」。近くに首をふる僧侶がいたとか、荷物を引く牛が首をふりながら登っていたからとか。そんな謂われがあるようです。》

上り始めると右側に「朝日湯」「初音交番」、千代紙の「いせ辰」と続きます。

このあたり坂の右側一帯は、その昔越後新発田五万石、溝口信濃守の下屋敷でした。その溝口家の息女が病となり、浅草神吉町の幡随院の了硯和尚が加持祈祷で治したそうです。溝口家当主はたいそう喜んでこの下屋敷を寄進して、そこに寺を建てました。それが新幡随院寺です。すなわち、三遊亭円朝作『牡丹灯籠』で描かれているあのお寺です。旗本の娘お露が幽霊となって新三郎に会いに来る場面が有名です。関東大震災後昭和になってこのお寺は移転していて、今は介護施設や一般住宅になっています。怪談はいくらフィクションだとは言え、いまではそんな景色風情は全くありません。陽気な外国人観光客が楽しそうに歩いています。

ところで、三遊亭円朝と言えばそのななめ前、坂の左側には円朝の墓がある臨済宗の全生庵があります。勝海舟、髙橋泥舟とともに「幕末の三舟」といわれる山岡鉄舟開山のお寺です。江戸城無血開城の道を開き、明治になってからは明治天皇の侍従として、剣禅書の奥義を極めました。鉄舟忌、圓朝忌、夏の幽霊画展が有名ですが、最近では、げんげ忌として詩人菅原克己を偲ぶ会も開催されています。

《全生庵内の谷中大観音 北村西望作 高さ6.6m》

さてまだまだお寺がずらり続きます。谷中小学校の対面、日蓮宗の大圓寺、長久寺、福相寺があります。そしてその向かいには日蓮宗の妙円寺、妙法寺が隣り合っています。どちらも慶応年間に神田で創健。元禄年間に現在地に移転しました。その隣は臨済宗の天龍院。幕末の蘭方医伊藤玄朴の墓があります。その隣は門前に毘沙門天安置の石碑のある法華宗の本通寺、そして、たんきり仏の龍谷寺、曹洞宗の永久寺と続きます。

永久寺には仮名書魯文の墓があります。当時のジャーナリスト、二葉亭四迷へとつながる言文一致の先駆者です。西洋文明を取り入れた新しい風俗を滑稽に描きました。前述の三遊亭円朝の落語筆記本と併せて明治の先端的文化人です。文語から口語へ日本の近代文学が大きく変容していったきっかけをつくったといっても過言ではないでしょう。そんな魯文と円朝の墓がこんなご近所にあるのです。

そして永久寺の向かいには真言宗の明王院と観智院と並びます。ちょうど三崎坂を上り切ったところ、バス停では「三崎坂上」となります。やっと登り切ったという感じです。一気に上がるにはちょっと大変。この辺で一休みしたくなるところかもしれません。

三四郎君と美彌子が手に手をとって登ってきたならばきっと、路傍の切り株に腰を下ろして休憩をしたことでしょう。そうであれば、また新たなラブストーリーが生まれたはずです。今ではいくつかの店舗もありますからちょっと休憩も可能です。楽しく歩けることと思います。

さて、カフェで休憩。また歩き出すと、まもなく谷中墓地です。谷中墓地は谷中の寺町にあって、都立谷中霊園、寛永寺、天王寺の墓地をおおきく含めた名称です。明治期以降の著名人のお墓も多いので歴史好きには人気のスポットです。谷中墓地の桜並木を日暮里駅方面へ進みます。JRの線路を渡ると鶯谷ですから、正岡子規の子規庵を訪ねて漱石も千駄木からこの道を歩いたことでしょう。

その途中、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった天王寺五重塔跡があります。谷中五重塔は谷中の桜とともに東京の名所の一つで、谷中霊園のシンボルでもありました。しかし、昭和32年に心中事件により焼失したまま、現在は礎石だけが残っています。公園の木陰にひっそりと、ちょっと寂しい感じです。再建されたらどんなに華やぐか。通り一遍の商業主義の人寄せ観光より、後世に多くのものを残すのにと思うのは私だけではないはずです。

それはともかく、そうこうしていると天王寺に到着です。天王寺の大仏様がやさしく迎えてくれます。

《台東区谷中7-14-8 天台宗 江戸幕府公認の富くじが興行されていて目黒不動、湯島天神とともに「江戸の三富」として賑わいました。⦆

到着して、思い出します。「谷中と千駄木が谷で出逢う場所」に置いてきてしまったあの二人はどうしたでしょうか。手に手を取って後をついて歩いてきてくれたでしょうか。

作品の中では、三四郎君と美彌子のその後はどうなったかというと、ご存知の通りバッテンです。『三四郎』の作品中ではこの後あっさり、みごとに、太刀打ちできないほど三四郎君は美禰子に振られてしまいます。令和の今、天国の三四郎君はどう思っているのでしょうか。あの時強引に美彌子の手を引いて三崎坂を上らなかったのを悔やんでいるのでしょうか。どちらにしても、今となってはいい青春の思い出と微笑んでいるのかもしれません。

さて、夏目漱石の描く谷根千を二回にわたってぶらぶら歩いてみました。いかがでしたでしょうか。明治の文豪が歩いた道を令和の眼と足で歩いてみました。前回は『坊ちゃん』を題材に、今回は三四郎君と美彌子と一緒にお付き合いいただきました。

まだまだ『こころ』『吾輩は猫である』『彼岸過迄』『行人』『門』等々で描かれているスポットもご紹介したいところもありますが、今回はこの辺で。

ありがとうございました。