🏆第43回兜太現代俳句新人賞
受賞作解題

👤西川火尖

抜錨の俳人
─内野義悠『雨滴の窓』を読む

実のところ内野義悠と直接言葉を交わした機会はそれほど多くない。彼が「炎環」に所属していたときですら会ったのは数えるほどしかなかった。しかしLINEでのやり取りはそれなりに多く、精力的に新人賞に応募していた内野はしばしば私に応募作を読ませてくれた。私は自分から人に話しかけるのは苦手だが、話しかけられると嬉しくてよく感想を送った。今そのやり取りを懐かしく読み返しているとLINEには「雨滴の窓」に至る内野義悠の変化の痕跡がそこかしこに残っていることに気づいた。

例えば一時、彼は「抜錨」を作句上のテーマとして掲げていたように思う。有志と「抜錨句会」を立ち上げ、第五回円錐新鋭賞では「抜錨」二十句で澤好摩選の三席を獲得している。その冒頭句は<抜錨の濁りをとほく春の雪>である。新人賞という目標に邁進する内野にとって「抜錨」はその決意を表すテーマだったに違いないし、日本分割一周を目指し、よく旅に出る内野自身を表した句だっただろう。そして今も「抜錨」は内野義悠の中に息づいているのではないかと私は思っている。

まずは「雨滴の窓」冒頭三句を見てほしい。

淡雪や繋ぐ手に海抜がある
野火を見し夕べだんだん血の濁り
菜の花忌帰船がずつと瞳の奥に

この三句は、<抜錨の濁りをとほく春の雪>のエッセンスを強く受け継いでいる。それは「淡雪」と「春の雪」、「海抜」と「抜錨」の抜の字、「血の濁り」と「濁りをとほく」、「帰船」については一見「抜錨」の出発のイメージと相反するが、「ずつと瞳の奥に」という措辞から、遠く母港を目指す船を描いたものだと捉えれば「抜錨」のイメージと重なる。

冒頭三句はそれぞれに個性的でありながら、深層で抜錨を共有継承しているのだ。この重層性が読者である私の興味を強く引いたのだが、しかし、五十句全体で見ると「雨滴の窓」からは旅への志向性は感じられない。それはなぜか、この疑問が「雨滴の窓」を読み解く鍵になるのではないだろうかと密かに考えている。

では改めて一句目を読んでみよう。<淡雪や繋ぐ手に海抜がある>は儚い淡雪の中、繋ぐ手には海水面からの高さを表す「海抜」があるという。知り合ってからの年月でもなく、互いの体温でもなく、二人だけの「海抜」(海抜0m=世界からの距離)を共有する。この特別な関係を表す「繋ぐ手に海抜がある」という措辞は、婉曲なようで直截的に、難解にして自明に表現する内野の詩性の一端をよく示している。

次に注目したのは以下七句である。

本能を追ひ抜けば雷身籠りぬ
血縁の脆さを言へばほうたる来
虹消ゆるはやさよ戸籍抜けにゆく
泣けぬ汝に削り氷の嵩高すぎる
二科展の汝の腕が半島に見ゆ
因む土地因む血筋へそれぞれ霧
くだら野へ悍馬放てる情事かな

冒頭の<淡雪や繋ぐ手に海抜がある><野火を見し夕べだんだん血の濁り>と合わせれば、実に九句が汝と生殖と血縁と土地に関わる句である。これが「雨滴の窓」のストーリーラインであると見ていいだろう。

それは内野義悠が、第40回兜太現代俳句新人賞で佳作を獲得した「息づかひ」において<小春風会はなくなるための書類>という句を冒頭近くの四句目に置き、<翼灯の明滅見つむ十二月><建国日コイン入れれば見える島>とすぐに旅吟をいれたことと好対照をなしている。

現在の内野は旅を志向すればするほど、血縁や血筋からの逃れられなさが句に現れ、その陰翳が表層的な旅への志向を覆いつつ「雨滴の窓」を彩っているのではないだろうか。

しかし、いや、だからこそ内野義悠は「抜錨」の俳人であると私は強く結論づけることができる。

一句目の<淡雪や繋ぐ手に海抜がある>の「海抜」は「今、ここ」の連続的な変化を記していると捉え、同様に四句目の<蝶きつとかすめた略歴のどこか>の「略歴」、そして掉尾を飾る<遍歴の涯の毛布に包む身よ>の「遍歴」も変化の記録である。そして内野の日本分割一周の旅では、旅先で撮った数万枚に及ぶ写真があるという。地の涯であろうと血の涯であろうと、彼は常に自他の変化を記録し続けてきた。それが内野義悠にとっての旅であり、抜錨の俳人たる所以だと私は思っている。

最後に、<小鳥来るたび空欄の受賞歴>とLINEに詠んでいた五年前の内野義悠が、本作では<手鏡を伏せむ小鳥が来ますやうに>と詠み、受賞歴にも変化を与えたことを改めて祝いたいと思う。


👤土井探花

魂の独唱を聞こうよ
─髙田祥聖『ゐしころ』を読む

いつの間にか、祥聖さんとは句友だった。同じいつき組だったこともあるが、オンラインでわたしの主催する句会に早くから参加してくださっていた。鍛錬句会や連作Zoom句会などでもご一緒している。リアルでは確か2回、文学フリマ東京でお会いしているが、気遣いと心配りの行き届いた、やさしくておちゃめな方である。その後『楽園』でも仲間になった。

祥聖さんは句柄が広い。いちファンとして『楽園』の作品だけでなく『リブラ』『noi』なども出来るだけチェックしているが、文語句はもちろん口語、自由律に近い句もお手のものだ。「器用」というよりは、そのあふれる人間愛や俳句愛が多様な表現を可能にさせているのだとわたしは確信している。

今回の受賞作『ゐしころ』は文語・歴史的仮名遣いを基調にしながら、とてもスリリングで挑戦的な連作だ。まず注目したのが、50句という限られた世界のなかでの「重複」モチーフ。

花びらをつまめば指のあたたかさ
記念写真みんな桜に背を向けて
釣堀を花屑掬ふばかりかな

実にチャレンジングである。花びら、桜、花屑、と「花」のモチーフが3句。この「重複」をマイナスに捉える方も或いはおられるかもしれないが、花の移ろいが、美しいだけでない季節の無常な変化を端的に表現している。これは手ごわい。もう一つ注目したのが

昼寝より目覚めて人を攫ひし眼
閉ぢてやるにも目蓋のなき金魚
玉葱や右眼は左眼に逢ひたし

今度は「眼」への執着だ。50句とはいえ連作は句集に比べこぢんまりとした世界。多様な句材をちりばめる方が無難だが、ここでは「眼」を詠みたい!という祥聖さんの並々ならぬ意図を感じる。花を愛したい時には花を、眼を注視したいときは眼を、その好奇心は自由闊達で、賞に応募しながら、冒険を楽しんでいる。良い意味のふてぶてしささえ感じる。

そもそも、順番が前後するが冒頭の句からして祥聖さんは冒険者だ。

ストローで耕すシェイク春浅し

シェイク、それも少し固めでそのままではうまく吸えないのだろう。「耕す」はここでは農の季語ではなく措辞となり、抜群のオリジナリティを発揮している。ファストフード店での他愛もない行動が、ここまで詩となるのか。否が応でも続きが読みたくなる、抜群の初手である。

ゲルニカとなるにもありふれたからだ

さらにはまごうことなき無季句も。ピカソがゲルニカ爆撃に衝撃を受けて描いた代表的作品『ゲルニカ』。その畢生の大作になりたくても、自分のからだはごくありふれている。天才の作品となれない無念さより、平和で平凡でいることを安堵するような、祥聖さんなりの反戦句とわたしは読んだ。

青虫のまつするまつすると歩む

社会性の感じられる句があると思えば、こんな無邪気な観察句も。「まつするまつする」のオノマトペが秀逸である。字面でいうと「まつする」は「マッスル」つまり筋肉で、柔らかな青虫が精一杯マッチョを気取っていかめしく進んでいるようでもあり、「する」の音からはするする動いているようでもあり。想像を存分に膨らませてくれる楽しい擬音である。

黄塵万丈たましひは常に独唱

そして掲句。この連作の中でわたしが一番好きだった作品だ。「黄塵万丈」のスケールに高らかに独唱する「たましひ」の気高さがよく呼応している。祥聖さんは付き合いが広くお世辞抜きで皆から好かれるタイプだが、心は、たましひはやはり孤高であるのだと痛感した。そうであるからこそ詩人としてこうして評価された。

これからも祥聖さんのたましひの独唱を感じていきたい。よい友、よい仲間はもちろん必要だが、さびしさや孤独も俳人の大切な要素であり、それ故に厳しい句も優しい句も生まれる。このたましひをいかに磨き高めていくか、期待しかない。

この度は兜太現代俳句新人賞受賞、本当におめでとうございます!