
🏆第43回兜太現代俳句新人賞
髙田祥聖
ゐしころ
ストローで耕すシェイク春浅し
王将のたまに働く霞かな
ふらここの順番待ちに付きあひぬ
はくもくれん影は安心して踏める
花びらをつまめば指のあたたかさ
記念写真みんな桜に背を向けて
黄塵万丈たましひは常に独唱
点として刺繍生まるる春の夜
かざぐるま風なきときをくつきりと
春の雲あれは精神的な吐瀉
花水木泣くときもある笑ひ皺
釣堀を花屑掬ふばかりかな
世界一舌打ちが下手ところてん
小さき団扇挟まれてゐるお品書き
火の逸り風の逸りの鵜舟かな
濡れてきて浴衣を躊躇はず絞る
雷の根を張り巡らせてゐて荒野
昼寝より目覚めて人を攫ひし眼
ギロチンの後にゼリーの生まれけり
閉ぢてやるにも目蓋のなき金魚
玉葱や右眼は左眼に逢ひたし
撮られては撮りかへしをる水着かな
サイダーのこきふをぢつと見てゐたり
時の記念日蜂蜜をさかさまに
向日葵に向日葵疲れありさうな
髪洗ふみづはいつ眠るのだらう
秋暑し授乳のかほの俯ける
鈴虫の虫の部分を辞めたがる
耳いつも開きつぱなし秋の草
秋風やもなかに屋根と床のあり
爽やかに茶碗の鶴をひとまはし
天高し絵筆に忘れやすき色
ゲルニカとなるにもありふれたからだ
澄むみづに触れてみるみる元のみづ
飲むほどにみづの傾く大花野
ままごとの一日短し吊るし柿
青虫のまつするまつすると歩む
活版に横文字のあり烏瓜
冬鳥や直訳といふ遠回り
封筒に字の透けてゐる漱石忌
わが家に猫ゐし頃の隙間風
糊代のわづかに雪を待つてをり
雨降つて音の底なる冬座敷
場所取りの苦手な氷柱かもしれぬ
湯豆腐や正しきひとは昼に生き
どてら着て友らにどてら流行らしむ
鯛焼やいまは指輪の似合ふゆび
母の手の木にも花にも似てペチカ
後付けの探梅行となりにけり
水引の粗く刷られて春を待つ
◆受賞のことば

髙田祥聖さん
◇2026年3月21日 東京・東天紅上野店にて
今回は第43回兜太現代俳句新人賞をいただいた、というよりも預けていただいたという方が私にはしっくりきています。
応募者、選考の先生方、その他、誰一人欠けても成立することがない大きな賞に私を加えて下さったことにお礼を申し上げます。
昨日、吟行句会があり、私は1点、ぎりぎり無点を逃れました。
その時、句友がこう言ってくれました。
「高田祥聖が高田祥聖を見失ってるんだよ」と。
「ああそうだ。この間、いろんなことが自分にあったせいで、自分が自分らしいこと正しくできなければ俳句じゃないということを忘れていた。」そう思いました。
創作は孤独なもの、孤独であるべきものといってよいと思います。
世間対私、世界対私、私対私、何かと相対するときはいつだって一人です。
ただ創作するときは一人だったとしても、創作を続けることは一人ではなし得なかったと思います。
さまざまな人の支え、御縁があって私は今ここにいます。このたびの受賞で沢山の人と知り合うことができました。
新しい出会いに感謝し、高田祥聖と知り合ってよかったと思っていただけるように日々精進していきたいと思います。
ここにいらっしゃる皆さん、今まで私と俳句の道につながったすべての人にみんなありがとう!
◇俳歴
1987年(昭和62年)神奈川県生まれ
2019年(令和元年)いつき組参加
2022年(令和4年)楽園俳句会入会
2024年(令和6年)俳句同人リブラ加入
2025年(令和7年)俳句雑誌noi 誌友
俳句ネプリAKANTHA 加入
◆受賞作を語る
有害なわたし
いつからか無害なはだか草の花
土井探花
有害よりも無害のほうが良いはずなのに、どうして掲句は淋しいのだろう。成人図書を有害図書と呼ぶこともあるから、いつの間にか性的魅力が失われてしまった自分をまじまじと眺めているのかもしれない。無害であるよりも有害でありたい。たとえば、あなたがわたしのことばかり考えてしまうくらいには。たとえば、本能が理性を打ち負かして、あなたがわたしに触れてしまうくらいには。
「受賞作を語る」という文章の依頼を受けたにも関わらず、土井探花氏の句から書き始めていることにはもちろん意味がある。わたしが俳句を始めた頃、すでに探花氏は活躍されていて、心にひっかき傷を残すような、生傷をやわらかく撫でていくような、「探花ワールド」と言って差し支えない作品を発表なさっていた。掲句は、第四十回兜太現代俳句新人賞受賞作品「こころの孤島」のなかの一句であり、わたしに同賞を志させた一句である。
有害でありたいと思うことはいけないことなのだろうか。たとえば、あなたの脳の一部を、わたしのために空けておいてほしいと思ってしまうことは。忘れないでほしいと思ってしまうことは。
ゲルニカとなるにもありふれたからだ
無季、そして解釈を迷わせる一句である。口さがない言いかたをするならば、賞レースには向かない句であるかもしれない。わたしはそのように認識していて、それでいてこの一句を編み込まないという選択肢はなかった。「からだ」を「はだか」とすれば、一応は有季となったのかもしれないが、そうなることを句が許さなかった。涙が初めから涙であったように、するりと喉をこぼれるようにこの句は生まれた。作品たらしめるために触れたところと言えば、表記くらいである。
この句について、自句自解するつもりはない。したくない。できない。
すべてを語りきることのできない俳句の短さは、しばしばわたしを安心させてくれる。わかってほしい。けれど、かんたんに「きみの気持ち、わかるよ」なんて言われたならば反発したくなるような衝動が走る。わたしの孤独はわたしだけのもので、共有したいわけではない。ただ、あまりにもきれいだったから言葉にしてしまったに過ぎない。にも関わらず、ここでこうして書くことは「有害」なのだろうか。少なくとも、「無害」ではないように思う。
わたしだけの蝶を見せるような気持ちで、そっと句を差し出す。蝶はときおり息を吹き返して、ひらひらとどこかへ消え去ってしまう。それでいい、それでいいのだ。
◆高田祥聖『ゐしころ』一句評
はくもくれん影は安心して踏める
👤田中亜美
春、空に向かって大ぶりの花を咲かせる白木蓮。
樹高は5メートルから15メートルに及ぶ。
花の形姿も、それを見つめる人の視線も、上向きのベクトルを持つ。
しかし、この句の視線が向かうのは、足元の「影」である。
「影は安心して踏める」という措辞には、「影」ならざるもの、実体を持つ存在への畏怖が滲む。
地上に落ちた白木蓮の花びらは、ふっくらと肉厚で純白である。
ゆえに、踏むという行為には躊躇いがつきまとう。
形而上的な影像などではない、形而下のもの自体が持つ重さや温もりや湿り気。
それらを蹂躙する行為への忌避感のようなものが感じられる。
「はくもくれん」というひらがなによる表記が、ナイーブな心情を映し出している。
鯛焼やいまは指輪の似合ふゆび
👤なつはづき
指輪の似合う指とは一体どんな指なのだろうか、とまず思う。
この指輪は婚約(結婚)指輪か、ファッション的ものか。
指輪が大人の象徴として登場する。
季語は鯛焼。
明治時代に今川焼から派生し、目出度い「鯛」の形にしたところ爆発的に売れたという記述がある。
それを踏まえると指輪は結婚指輪か。
鯛焼を手にした時にふと指輪に目が留まる。
作者は子供の頃から鯛焼が好きだったに違いない。
昔から変わらない好み、あの頃と同じ手。でも今は結婚して指輪がしっくり来ている。
この指はシンボリックに使われており、手ではなく指にまでクローズアップしたのは、作者が守っていくらし、仕事、家族がある事、そして幸せである事を細かく読者に見せるためであろう。
耳いつも開きつぱなし秋の草
👤百瀬一兎
この句は公開選考会ではたしか一度も言及されなかった。
当然のことを特別なように述べて詩を生む句はよくあるし、一定の評価も得やすい。
この句ももちろんそこにカテゴライズできるが、それでも惹かれずにはいられない。
目や口はそれだけで塞ぐこともできるが、耳はそうはいかない。
塞ごうとしない限り、塞がらない。
そういう意味では、”耳”とはかなり受動的な器官と言える。
それは聴力の有無に拘らない。
聴こえていても、聴こえていなくても、常に世界にひらかれているのである。
作者の耳は、世界にひらかれたすべての無数の耳は、何を聴き、何を聴きたくないのだろう。
ゲルニカになるにもありふれたからだ
👤山岸由佳
スペインの内戦における無差別爆撃の惨劇を描いたピカソの「ゲルニカ」は、言葉では言い尽くすことのできない人間の愚かさ、痛み、怒り、叫びがエネルギーとなり表出されているが、その「ゲルニカ」にもなれない自身のからだの匿名性を、作者は自嘲的に客観的に捉えている。
しかし、東日本大震災、コロナ禍、また世界各地でいまだ終わらない戦争を通し、私たちは嫌というほどありふれた日常がどれほど大切なものなのか思い知らされてきた。
「ありふれたからだ」もまた同じだ。
もちろん作者は、「ゲルニカ」になることを望んでいる訳ではないだろう。
自身が一般化されてしまうことの畏れと同時に、「ありふれたからだ」は、いつその日常が惨劇に変わってしまうかもしれないことを予感として提示しているようでもある。