漱石と谷根千界隈【1】
👤石井稔
はじめに
「ふるさと」という言葉に憧れていました。いや、今でも憧れています。
小学校のころは、夏休みになると遊び仲間はひとりふたりと祖父母のいる田舎に帰省してしまい、がらんとした公園に取り残されました。社会に出てからの宴席では酔いが回ると海の青さを、山にあっては山河を駆け巡った思い出をとうとうと語り始める同僚がいました。また今では句会で、生まれ故郷の風景や行事をいきいきと晴れやかに詠っている古老俳人を仰ぎ見ています。
そんなことから「ふるさと」とは今も漠然とした憧れです。編集部から今回「ふるさと巡り」のお題を頂き、はたと考えてしまいました。前任の方々のようなネタは持ち合わせていないわけで、何を書こうかと。
東京は故郷ベランダに茄子の花
稔
(『顔の原型』より)
そこで、父祖の地であり幼少を過ごした地のこと、すなわち東京を題材に書いてみるしかないことに気付きました。実は東京が自分にとっての「ふるさと」なのだと、改めて思い当たりました。そこで、谷中、千駄木、根津界隈、いわゆる谷根千のことを書いてみたいと思います。
とは言え、すでに先人諸氏にこの地については語りつくされていて、昨今のマスコミの話題でも取り立てて目新しいこともありません。まして、いまさら東京町散歩マップをなぞるのも面白くありません。
そんななか、ちょっと考えてみました。ひとひねりして、明治の大文豪夏目漱石に登場願うことにしました。明治の頃この地にお住まいだった漱石先生とその作品との関わりの中で今月、来月と二回にわたって谷根千の風景をご紹介してみることとしました。自分勝手なのですが、どうぞお付き合いください。
1.「谷根千」のこと
谷根千とは東京都台東区・文京区にまたがる「谷中」「根津」「千駄木」地区の総称です。
1984年森まゆみさん等数人が始めた地域情報誌『谷根千』がその由来です。この地域は山手線の内側にありながら戦災をあまり受けていません。ですから戦前の風情が残されていて、よき東京の原風景として取り上げられてきました。そんな流れから、今では観光地として街歩きで訪れる方も多くなっています。
また最近では外国の方のあいだでも人気の地になっています。さらにこの地域を中心として上野公園、不忍、本郷地区、田端・道灌山地区までも含めて街散歩の地としてマスコミなどにもたびたび取り上げられるようになりました。ちょうど、手ごろな散歩コースということでしょうか。これをお読みになっている方も訪れたことがあるのではないでしょうか。
さて、今ではこの地区は「谷根千」とひとまとめにして言われることが多いのですが、その歴史的な違いにも極々簡単に触れておきたいと思います。
「谷中」はそもそも寺町。上野寛永寺の子寺や明暦の大火(1657)以降に移転したお寺が集まりました。他方では江戸時代は百姓地もあり谷中生姜でも有名でした。
「根津」は根津神社(根津権現)の町。徳川綱重の屋敷地であり、後には旗本の居住地となりました。また明治初期までは根津遊郭もあったそうです。
「千駄木」は寛永寺の薪材を調達する寺領。その後武家町となり、明治以降は帝国大学、東京美術学校、東京音楽学校近くにあることから、学者、文化人の居住地になりました。
今ではJR・京成線日暮里駅、東京メトロ千代田線千駄木、根津駅が最寄り駅になります。しかし地形的には本郷台地と上野の山にはさまれた地域です。明治期以前は江戸の中心日本橋、神田や浅草と比べれば、全くの田舎であったようです。
泉鏡花は『森の紫陽花』の中で千駄木について次のように書いています。
千駄木の森ぞ昼も暗き。此処の森敢えて深しというにはあらねど、おしまわし、周囲を樹林にて取巻きたれば、不動坂、団子坂、巣鴨などに縦横通ずる蜘蛛手の路地は、恰も黄昏に樹深き山路を辿るが如し。
また三遊亭円朝は『怪談牡丹灯籠』で隠居の白翁堂勇斎の住む谷中、萩原新三郎の住む根津の清水谷をいかにも幽霊の出そうな町として描いています。歌舞伎の同演目でもいっそう不気味に演じられています。さらに落語のマニアックなネタ『団子坂奇譚』では鬱蒼とした樹木と妖気を帯びた女が語られます。まさに怪談の舞台にもってこいの土地だったようです。
つまり、江戸城を起点として神田や日本橋の「町」に対して、どうみても「田舎」だったのは確かなようです。令和の現在にいたっても、ちょっと歩いてみれば坂と崖、あちらこちらにその面影が見えてきます。言われてみれば、坂にも「たぬき坂」「むじな坂」「芋坂」、「紅葉坂」、「螢坂」というのもあるわけです。そのことからも、当時の田舎の雰囲気を感じられる地域なのかもしれません。
そうは言っても、明治期以降160年、関東大震災、第二次世界大戦、戦後の経済発展、バブル経済とその崩壊、そして直近ではコロナ禍を経て少しずつ少しずつその姿を変えてきました。今では日本人より外国人の旅行者のほうが多く見かけられる観光地「谷根千」となってきたということなのでしょう。
さてそれはともかく、前置きが長くなってしまいましたが、ここからは夏目漱石と谷根千とのかかわりをご紹介していきたいと思います。
2.夏目漱石と谷根千
1903年(明治36年)ロンドンから夏目漱石は第一高等学校(現在の東大教養学部、当時は本郷にありました)の講師として帰国します。36歳の時です。東京メトロ千代田線千駄木駅から歩いて10分、現在の日本医科大学の裏手(本郷区千駄木57)に居を構えます。この借家には以前森林太郎、後の森鴎外も住んでいたという今でいう当地きっての優良物件であったようです。敷地400坪高台で職場にも近く、まさに洋行帰りの漱石にとって絶好の住まいだったのです。


ここで『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊ちゃん』などを発表し作家としてスタートします
今その旧居跡には川端康成揮毫の石碑があり、敷地には日本医科大学の建物が建っています。当時の建物は見る影もありませんが、現在では愛知県犬山市の明治村に「森鴎外・夏目漱石住宅」として移築、登録有形文化財として保存されています。
またここからゆっくり歩いて5分くらいのところに『三四郎』『こころ』はじめ数々の作品に出てくる浄土宗「駒込大観音」(天昌山 光源寺))があります。もともと観音像は元禄年間の建立ですが、東京大空襲で焼失し1993年に再建されています。毎年7月9日・10日は「ほうづき千成り市」で賑わいます。

駒込大観音 文京区向丘2-38-22
ところで、当時この界隈には漱石以外にも多くの文化人が住んでいました。
近所には森鴎外の記念館(観潮楼跡)もあります。不忍通りに下りる坂は江戸時代菊人形で賑わいを見せた団子坂です。江戸川乱歩の『D坂殺人事件』の舞台でもあります。ちょっと路地に入ると、宮本百合子の実家(中條家)の門があったり、高村光雲の旧居の佇まいが残っていたり、平塚らいてう「青鞜」の発祥の地の碑が立っていたり。今でも文学散歩にはもってこいの地域です。
そんな明治の文人たちの顔を思い浮かべながら、界隈をぶらぶら散策してみるのも楽しいものです。

文京区千駄木5-3-11いまではマンションが建っていて、よく注意していないと通り過ぎてしまします
3.『坊ちゃん』と養源寺
それでは漱石の作品の中でこの近所がどんなふうに描かれているのかを見てみましょう。数々の作品の中からまずは『坊ちゃん』を取り上げてみることにします。
漱石といえば『坊ちゃん』。坊ちゃんと言えば「漱石」です。この作品は明治39年(1906)「ホトトギス」に発表されました。
主人公は東京の物理学校(現在の東京理科大学の前身)を卒業したばかりの江戸っ子気質で血気盛んで無鉄砲な新任教師です。人物描写が滑稽で、わんぱく坊主のいたずらあり、悪口雑言あり、暴力沙汰あり、義理人情ありと、他の漱石作品と比べて大衆的であり、青春小説のいまや古典と言ってもいいでしょう。松山弁がなんともユーモラスに描かれています。
しかしどうなのでしょうか。『坊ちゃん』といえば舞台は愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)です。確かに漱石がこの作品を執筆したのは千駄木であるとはいえ、小説の内容はこの地とは無関係であるとも思えます。
ところが作品『坊ちゃん』の中にはその足跡は確かにあるのです。意外に思われる方もいらっしゃるでしょうが、作品のエンディングの場面をもう一度思い出してみてください。
教員の同僚の山嵐と校長に辞表を送り付け、松山を離れます。それから数行それ以降のことに触れています。そして最後の最後に乳母の「清」のことが書かれています。以下を引いてみます。
・・・・その後人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で家賃は六円だ。玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生だから、坊ちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓の中で坊ちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(『坊ちゃん』より)
井上ひさしが『新文章読本』で「だから」の用法として絶賛している「だから清の墓は小日向の養源寺にある」というあの一節です。
そうなのです。この「養源寺」こそ千駄木にあります。見つけました。漱石旧居跡の近くにあるのです。

養源寺 文京区千駄木5-38-3
小説の中では千駄木ではなく同じ文京区内の地名小日向としていますが、実際はこのお寺は千駄木にあるのです。ではなぜ漱石はフィクションである小説の中で清のお墓を養源寺としたのでしょうか。その辺の事情をここでちょっと深入りしてみましょう。
それを考えるについては漱石の大学予備門時代に遡ることになります。当時の友人、哲学者の米山保三郎に行き当たります。この保三郎の祖母が清のモデルなのではないかと言われているからです。
保三郎は漱石をして「文科大学閉づるまでまたとあるまじき大怪物」と言わしめたほどの天才だったそうです。漱石が当初建築家になることを考えていたのを文学の道に行くことを進めたのも彼だったとのことです。まさに彼がいなかったら文豪漱石は誕生しなかったともいえるのです。だから漱石の彼への敬念は相当なものだったのだと思われます。『吾輩は猫である』にも天然居士として登場します。『三四郎』に登場する広田先生のモデルでもあります。しかし現実世界では弱冠29歳で病没してしまうのです。どれだけ漱石が悲しんだかが窺われます。
そしてその米山家の墓がこの養源寺にあるのです。漱石は早世した米山保三郎を悼み幾度となくこの寺を訪れました。そんな保三郎とのつながりから、彼の家にも行き来していたのでしょう。その折にやさしくもてなしてくれたのが保三郎の祖母だったのかもしれません。母の愛のうすい漱石にとって心にしみる存在だったのでしょう。そんなところから『坊ちゃん』の清のモデルとされたのかもしれません。
ただしこれはあくまでも一説です。
蛇足ながら、「清」のモデルについては、他に①熊本時代に漱石に仕えた女性説、➁夏目家の古参奉公人説、➂理想の女性説等々。後の研究者諸氏が各自の論を展開しています。研究者の説にはきっといろいろな根拠があるのでしょう。ご興味ある方は、テキストを綿密に読み込んでいくとそれぞれの清像が浮かんでくるのかもしれません。そんな豆知識をもって訪ねてみるのも一興かもしれません。
しかし今般、ふらり養源寺にお参りしてみると、なんだかここのお寺に清が眠っているような気がしてきました。帰りの道すがらぼんやりとそんなことを考えました。
ということで残念ですが作品の謎解きはここまで。紙幅の都合上、真相については各自ご検討の程ということにさせていただきます。今回はこれまで。
次回は『三四郎』を取り上げます。ここから団子坂を下りて谷中方面に歩いてみることにします。主人公の小川三四郎君になったつもりで・・・。
つづく