グリーンランドのことなど
👤堺谷真人

名残の桜
3月29日、京都の叔母が満93歳の天寿を全うした。
折しも桜花爛漫の日のことであつた。
各地の親類縁者が弔問に来る。
筆者の従姉に当たる故人の次女、三女は東京在住だが、長女は日本を遠く離れた窮髪絶域の地に居を卜してゐる。
グリーンランドのイヌイット男性に嫁ぎ、自治州の州都たるヌークで暮らしてゐるのだ。
夫君は腕利きの猟師。
時には家族を伴うてトナカイ狩に出る。
仕留めたトナカイはその場で手際よく解体し、一人は前脚、一人は後ろ脚といふ具合に子どもたちも手分けして獲物を持ち帰る。
筆者はこの話を聞いたとき、『史記』項羽本紀「鴻門之会」のくだりで樊噲が彘肩(生の豚肩肉)を貪り食ふシーンを連想してしまつた。
海洋哺乳類の一種であるイッカクを料理することもある。
写真を見ると、頗る脂肪に富む様子からして、きつと大トロのやうな食感なのであらう。
日本においても一部の醗酵食品マニアにはよく知られてゐる郷土食、キビヤックも食膳に供せられる。
短い夏に飛来する海鳥アパリアスを網で捕へてアザラシの生皮に大量に詰め込み、地面の穴に埋めて数か月から数年間熟成させる。
三か月くらゐのものは「浅漬け」で、熟成が進むにつれ、味と香りが段々強烈になる。
従姉の話によると原材料であるアパリアスの個体差や保存状態によつて風味に差が出るのださうだ。
近江の鮒鮨と似たやうなものかもしれない。
キビヤックを食べるときは、黒い羽毛のついたまま手で引き裂いてどろどろの中身を啜る。
蓋し烏賊の塩辛とくさやを混淆したやうな味覚かと推察するが、子どもたちはこれが好物で、両手と口の周りを血だらけにして嬉々として食するのである。
話をもどす。
叔母は女学生の頃から俳句に親しみ、晩年になつても元気な頃は「雨月」の京都句会に通つてゐた。
さういへば、『大橋櫻坡子俳話集』をくれたこともある。
病床にあつても亡くなる直前まで句を詠んでゐたといふ。
蓋棺の際には、純白の百合や胡蝶蘭など溢れんばかりの生花とともに、思ひ出の品々が納められた。
その中に水仙を描いた色紙と俳句をしたためた短冊があつた。
玄関の水仙匂ふ御慶かな
昌子
無季俳句を決して認めなかつた櫻坡子の教へにたがはぬ句柄といふべきであらう。
筆者は追悼句の色紙をそつと叔母の足元に手向けた。
逝去当日の昼間、屋外に出て満開の桜を家族とともに愛でた叔母は大変機嫌がよく、花びらを手に取つて蜜を吸うたりしてゐたらしい。
筆者は叔母の指先に触れたものが忽ち微細な光の粒となつてこぼれてゆくさまを幻視した。
荼毘に向かふ道すがら、車窓の外には花の雨が蕭々と降り続けてゐた。
触れしもの光となりて花の雨
真人
堺谷真人
1963年 大阪生まれ。大阪大学文学部哲学科卒業(中国哲学専攻)
1987年より1993年まで「一粒句会」にて堀葦男に師事
1997年 季刊俳句誌「一粒」創刊同人
1999年 現代俳句協会入会
2003年 「―俳句空間―豈」同人
大阪俳句史研究会会員