🏆第43回兜太現代俳句新人賞
内野義悠

雨滴の窓
淡雪や繋ぐ手に海抜がある
野火を見し夕べだんだん血の濁り
菜の花忌帰船がずつと瞳の奥に
蝶きつとかすめた略歴のどこか
親しさや春の障子の穴そのまま
つくしんぼ発語のはじめ聞き逃す
点鐘や思ひすごしの朝を寝て
なりゆきに終はる禁煙水温む
春キャベツざくりまだ真つ白な部屋
素描点描古巣ほどけて息の凪ぐ
六弦の終の震へに海市立つ
風船の逃げゆくまぶしさの右手
撫でられてわかる このまま陽炎へる
本能を追ひ抜けば雷身籠りぬ
シナプスのちぎれゆくとき火蛾の聲
半醒の浅瀬をさつと翡翠が
アッパッパ汐の往き来をあしうらに
血縁の脆さを言へばほうたる来
クーラーの風向き変へて血判す
虹消ゆるはやさよ戸籍抜けにゆく
泣けぬ汝に削り氷の嵩高すぎる
黙契の午後なり蜘蛛の囲に一翅
解釈は岐れ蝙蝠低く飛ぶ
未満の夜瓶の闘魚の相隣る
さぼてんの萎れの花が朝を透く
ミスタッチひとつ流星ざんと降る
代用魚かがやく二百十日かな
竹伐るほどに上澄みに棲む心地
手鏡を伏せむ小鳥が来ますやうに
ずつと妬心ひとつながりの林檎の皮
二科展の汝の腕が半島に見ゆ
柿干してゆつくりきのふまで帰る
風炉名残不意の小雨を濡れて来る
因む土地因む血筋へそれぞれ霧
鳥を撮るときの心音冬隣
眼ぢからのゆるみ枯野の入口は
点景をたとへば蟷螂の枯れを
山眠る自画像とほく吾を離れ
くだら野へ悍馬放てる情事かな
説く唇や雪に気づかぬふりもして
狐火のとまる膨らみきつた肺
うつろひや浜のくぢらの屍へ陽
鶴の影降りるささめき撹しつつ
生ぬるい懐炉暗算投げ出して
日を跨ぎつづく通話や遠くに火事
くうらりと湯豆腐ゆらぐ鎮火報
焼芋を割りゐてなんとなく和解
あくび噛む聖樹ふつうの木にもどる
ホットミルク雨滴の窓を浅眠り
遍歴の涯の毛布に包む身よ

◆受賞のことば

内野義悠さん

◇2026年3月21日 東京・東天紅上野店にて

このたびは名誉ある賞をいただきまして誠にありがとうございます。金子兜太先生のお名前を冠した賞ですが、初学の頃に茨城県の小さな古本屋に立ち寄り、先生の『両神』という句集を見付けました。購入して家に帰って表紙を開くと一筆箋が挟まり、おそらくですが先生の直筆で「皆子葬儀の折には大変お世話になりました」と書いてありました。生前お目に掛かる機会がなかった私としては、兜太先生を身近に感じられる体験でした。

個人的にも紆余曲折があり、俳句的に迷うところもあった中でここまで来ました。現代俳句協会が掲げる、私が一番好きな理念、その一つである「俳諧自由」という言葉をどこまで突き詰めて、詠みたいもの、詠めるものを深く考えられるか自分に問うていきたいと思います。

悩み苦しみながら進んできた中で、支えになってくれたのはやはり句友です。今日、一緒に受賞させていただいた高田祥聖さん、遠方にお住いで本日この場にはおられませんが、今回佳作を受賞された後藤麻衣子さんはそれぞれ同人誌などで一緒に活動させていただいています。今回、最終選考にこの3人で残れたことは、何よりも一番うれしいことでした。句友にこの場をお借りして感謝を述べたいと思います。ありがとうございます。

◇プロフィール
1988年 埼玉県生まれ。
俳句同人リブラ メンバー
俳句ネプリ メグルク メンバー
豆の木同人
一般社団法人 現代俳句協会会員
公益社団法人 俳人協会会員

◆受賞作を語る

問いかける鏡像として

「受賞作を語る」という内容でこの稿の執筆を引き受けたのはよいものの、いざ書き出そうとしている今、ぼくはいささか戸惑っている。
というのも、ぼくには普段から「自句自解」をするような慣習も無ければ意識も無いからだ。
それは日々の句会に於いてもそうだし、このような連作単位の作品に於いては尚更だ。
句意を訊ねられたときなどに、さらっと背景を説明することはあるけれども、基本的には好きに読んでくださいというスタイルで、発表した句はそのまま放り出すことにしている。
だから、ぼくが今回の受賞作『雨滴の窓』を具体的に語る言葉を持ち合わせているのかは、少し怪しい。
とはいえどんな形であれ今は「語る」必要があり、「語る」ことで深まる何かがあるはずなので、何はともあれ書き進めていこうと思う。
自作を言葉に置き換えて紐解く行為は、まるで鏡像としての自分に握手を求めにゆくような気分だけれども。

俳句を作る時、何を起点に出発するかは俳人によって十人十色だろう。
季語季題を軸に据えて作り始める人。
嘱目で次々に対象を捉えようとする人。
ひとりの俳人の中でも、その時々のコンディションによっても変わってくることもままある。

『雨滴の窓』を構成する50句は、そのほとんどが「ことば」起点で詠まれた句だ。
「このことばを使って句ができたら気持ちいいだろうな」というシンプルな願望を叶えるために、そのことばからどんな景が生まれ得るかイメージを膨らませて俳句の形に仕立て上げるというプロセスで詠まれた句群。
いつものことながら、感覚が最優先にされた句群。
当然の帰結として実景の句は殆ど無くなる。
俳句を俳句たらしめる大きな要素として捉えられがちな季語についても、ぼくの中のプライオリティーではどちらかと言えば補助的な役割を担うもの、という認識があるのかも知れない。
我ながら不貞不貞しいほどの机上派・脳内派の作句法だと思うが、それが今の自分にとって最も心地良い詠み方であるので、今回の応募に当たってはそれを徹底した。
それこそが今、自分がベストを尽くすということにつながると思ったから。
結果として選考委員のお一人から「読み終えた時にすごく疲れた」とご指摘を頂いたように、読手への配慮を一切持たない、読手を置き去りにすることを厭わない連作となったことは、この先の作句に於いての大きな課題だと思っている。

巷間よく言及されることだが、連作を作る際大きなポイントの一つになるのが「テーマ・句の流れ・構成」だ。
「雨滴の窓」では明確なテーマを設けることは無かったが、最初の柱となる十数句が揃い始めた段階で連作としての「色」のようなものが見えてきたので、その十数句に通底する気配や感情をテーマの代わりとなる背景として並べた。
他に意識した点として挙げられるのは、連作にストーリーを見出すこと。
そして朝、昼、夜の流れの時間性に出来る限り矛盾が生まれないように句を並べること。
この二点は今回に限らず、ぼくの連作制作ではなぜか毎回気を配りたくなるポイントである。
特に「ストーリーを見出す」というのは、あくまで俳句作品は一句で立つべきものであり、連作といえどもそれの集合体に過ぎないと考える立場の読手を前にすれば、ある種ただの自己満足に終わる可能性も高いのだが(そもそも自分で「見出した」つもりになって並べても、読手にその意図が伝わらないこともままある)、それをしないと連作が連作にならない感覚が自分の中にあるのでこれはもう仕方がないのだ。

連作の質を左右するささやかだけど重要な要素としてもう一つ挙げられるのが、そのタイトルの付け方だろう。
今回、『雨滴の窓』というタイトルは〈ホットミルク雨滴の窓を浅眠り〉という構成句から採った。
この句自体に突き抜けた強さがあるとは自分でも思わなかったが、かといって致命的な駄句でもなかった。
何より「雨滴の窓」という景が、この連作全体の淡い諦観を帯びた(と自分では感じている)テンションにほどよく適っており、イメージを包括してくれるような気がしたのでこれをタイトルとした。
ただ「連作イメージの包括」ということで言えば、構成句中に使われていない語彙から相応しいものを探し当てて抽象的に包み込むタイトルの付け方こそやってみたいところではある。
残念ながら今のところ、このパターンで成功した連作はぼくには無いのだけれど。

ここまで作品としての『雨滴の窓』の成立過程や要素・構造の分解などをしてみたが、最後にぼくにとってこの連作がどんな存在となったかについて簡潔に述べたいと思う。
現時点での最高傑作であり、そして最大の反面教師。
これに尽きる。
とにかく、良くも悪くも自分の中にひときわ大きな壁が建てられたということだけは間違いない。
『雨滴の窓』をこの先行き止まりの壁とするか否かに、俳人としてのぼくの真価も問われているように感じている。
その問いかけをしてくる鏡像こそが、この『雨滴の窓』という作品なのだ。

◆内野義悠『雨滴の窓』一句評

点景をたとへば蟷螂の枯れを

👤田中亜美

点景(添景)は、広辞苑では「風景画などで、趣を出すために画面に取り入れられて点在する人物・動物など」、明鏡国語辞典では「風景画や風景写真で、画面全体を引き締めるために添えられた人や物など」と説明されている。
冬の初め、死を待つばかりの蟷螂もまた、自然の中に点在する生きものにほかならない。
特徴的なのは「Aを、たとへば、Bを」と目的語のみが示されており、主語も動詞も省かれている点だ。
通常の意味の伝達を断念した<断片>といってもよい。
それゆえ、「たとへば」の例示による一回性が際立つ。消滅を前にした生きものが見せる、一瞬の光が煌めく。
作者の受賞50句には「点景」のほか「点描」などの美術に関わる語彙が少なくない。
「うつろひや浜のくぢらの屍へ陽」。
移ろいゆくものの気配を描く作風に注目した。

代用魚かがやく二百十日かな

👤なつはづき

まずは「代用魚」に驚かされる。
俳句では初見かもしれない。
大衆魚の代用となるその魚たちは、詐欺ではないにしろ「本物」でもない。
ただ比較的安価で入手できるので、魚を多く消費する我々にとっては救世主である。
句の形を見ると「かがやく」が上の語にも季語にも掛かってくる、いわゆる両掛かりに見える。
代用魚が輝いているのは人の食生活を支えている誇りであろうし、二百十日が輝いているのは、偽物によって支えられている食生活へのアイロニーだろう。
「かがやく」があるにもかかわらず、句の内容はむしろ怪しさすら感じてしまう。
その捻じれは我々に「本物」が必ず正しくて、正義だけで人を救えるのか、という問いかけにもなっている。
生きる、という事に真正面から向き合った一句。

蝶きつとかすめた略歴のどこか

👤百瀬一兎

俳句をやっていると略歴を書くことをしばしば求められる。
作句開始の時期や受賞歴、所属などを簡単にまとめる。
しかし別に俳句の活動には限らず、すべての人がそれぞれの略歴を作ることは可能だ。
大切な出来事だけを抜き出して、一方で、そこまで重要ではないと考えたことは無視し、自分の今までの人生を省略する。
要素化された人生のそのどこかを、蝶がかすめていった。かすめた時、きっと、いや確かに、略歴の一行がかすかに震え、略歴全体に振動が広がっていた。
その蝶はどんな色をしていて、触れられた略歴はどんな色に変わったのだろうか。

ずっと妬心ひとつながりの林檎の皮

👤山岸由佳

林檎をくるくる回しながら、切れそうで切れない「ひとつながりの林檎の皮」がだんだん重く長く垂れさがっていく。
そのぎりぎりのバランスは、自分でもコントロール出来ない心の奥にある溢れそうな感情と通底している。
自分の心をさらけ出すことは勇気がいる。
黙々と林檎を剥く行為のように、感情をぎりぎりまで抑え、周囲には気が付かれないように淡々とふるまっていたのではないだろうか。
ややドラマティックではあるが、作者の葛藤を思った時、林檎を剥くナイフの煌めきや、真っ赤な林檎の色が特別なものとして鮮やかに迫ってくる。
「妬心」は、ネガティブな感情でもあるが、原動力にもなる。
上六、下六の字余りに、簡単には割り切ることのできない作者の心情が託され、「ひとつなりの林檎の皮」のようにことばが連なっている。