「百景共吟」より2句鑑賞 赤羽根めぐみ
夏空に艸(くさ)在る不安頒ち合ふ 武良竜彦
象形文字である「艸」は、二本の草の芽が並んで生えているさまを描いたものだという。「草」ではなく「艸」なのが、雨風で簡単に倒れてしまいそうで、如何にも「不安」そうだ。実際に「夏空に艸」という景は誰にでも見えるものではなく、作者というフィルターを通した「夏空」なのだろう。その「不安」は、夏の太陽の下でどんどん育っているかもしれないのだが、「艸」だから、倒れそうになれば支え合い「頒ち合ふ」という救いが感じられる。
噴水の鍵噴水に濡れてゐる 穂村 弘
どんなに綺麗だと思っても「噴水」にはなれない。「噴水」は見るだけのものであるから。どんなに素敵だと思う人がいても、その人にはなれない。ただただ人魚姫のようにその人を見つめているだけ。魔女が囁く。「そこに噴水の鍵があるよ」と。だが、手にするためには飛び込まねばならない。「乾いたままで一生眺め続けるのか。それとも自分が納得できるまで沼るのか」。ああ、それにしても「噴水の鍵」の何と恍惚と「濡れてゐる」ことだろう。
「百景共吟」より2句鑑賞 網野月を
殿(しんがり)に從(つ)けば安堵や夏行軍 武良 竜彦
駱駝の群れが草原を縦断する道路を横断している写真が景なのである。縦断する道路は人の道であり、駱駝の道とクロスしている、ということである。中七の「安堵」に少々の諧謔を読み取ることが出来る。「安堵」の真偽は不明だし、駱駝にとっての「安堵」なのか、人の視線からの「安堵」なのかも想像させて興味深い。中七の「・・や」切れで、上五中七と座五の「夏行軍」を区切ることで両者が同位という鑑賞も成立するが、例えば「夏行軍」が一例であるとも鑑賞できるであろう。
父若く七三分けのサングラス 穂村 弘
上五の「父若く」は、お父様の若かりし頃の写真ということなのか、もしくは今現在のお父様が若々しく見えるということなのか、筆者は両者を想定して鑑賞してみた。前者ならば「七三分け」が昭和な雰囲気を醸し出していて、セピアの写真に写る「サングラス」姿が決まっている。後者ならば「サングラス」が顔の輪郭をシェイプアップして若さを助長しているように思える。
兎に角、草原の駱駝の群れのグラビアからの発想としては、飛躍が大であり、感じ入るばかりである。
「百景共吟」より2句鑑賞 水野真由美
君の歩調で世界が毀れる旱星 武良竜彦
「歩調」が「世界」とシンクロする「君」は誰だろう。「世界が毀れ」ならば「旱星」は、それによって現れるが「毀れる」は「旱星」を形容しているとも読める。ならば「君」は「旱を象徴するような、赤い大きな星」の「旱星」だろうか。また「る」一音の長さは揺らぎのイメージを作り出す。異質なまま「君」と「旱星」に重なり合うあわいが生まれ、毀れているのが世界とも思えてしまう。「毀れる」のは真っ当な事なのかもしれない。
遠足に遠足交じる海の前 穗村 弘
<遠足の列大丸の中とおる>(田川飛旅子)で「遠足」が春の季語だと知った。二つの列が交差する「交じる」だと思ったが<遠足をしてゐて遠足したくなる>(平井照敏)がある。自分の中の遠足が一つとは限らない。また海辺・浜辺・海岸ではない「前」が不思議だ。後ろが気になる。海の向こうはイメージ出来るが海の後ろはどこだろう。ちゃんとした海ではない気がする。何だか「遠足」が揺れ始める。ヘンな遠足は少し寂しくて嬉しい。